第14話「浴場、欲情」

 美星アースは美星なりに、覚悟の告白だった。

 自分の過去、自分さえ向き合えていない封じられた黒歴史くろれきし……それを嫁の辰乃タツノに打ち明けることは大きな決断だったのだ。

 だが、意外と思えるほどに辰乃は拒絶も忌避きひも表現してくれなかった。

 結果、久しぶりに美星はアニメを見て、辰乃に求められるまま熱く語ってしまった。

 そうこうしていたら、夜はとっぷりとけていたのだった。


「だからまあ、こういうことになるよなあ」


 明日も早いしそろそろ寝よう、これはわかる。

 辰乃がお風呂の用意をしてくれていたのを忘れてた、これもいい。

 さっさと風呂に入って寝ちゃおうぜ、うん、わかる。

 でも、その流れで何故か美星は、酷く緊張を強いられることになるのだった。そして、やっぱり彼の鈍くて他人事な感情は、そのことに大きくは動じていない。

 背後でガラガラと、古い引き戸が開かれた。

 脱衣所から辰乃が入ってくる。


「美星さん、お背中お流ししますっ! えと、こちらに座ってください!」


 どういう訳か、何故か何故だか……

 肩越しに振り返れば、湯気の中にぼんやりと辰乃の裸体が浮かんでいる。つやめく碧色みどりいろの髪には立派な角が広がり、腰回りを器用に尻尾で隠している。だが、真っ白な肌が描くシルエットの起伏が、少女を脱しかけた女性の豊かさを無言で語っていた。

 辰乃に言われるまま、されるがままだ。


「わたし、あの、ぐうぐるさんで色々と……つい便利で、頼ってしまって」

「うん、まあ、わかる」

「人間同士の夫婦では、一緒にお風呂に入るのも大事だと勉強しました!」

「あー、えっと、ギリギリわかる」

「それで、えっと、なんか、まっと? そう、特殊な敷物しきものを敷いた上で旦那様に御奉仕するのも妻の務めと。その、そおぷらんどというものが」

「いや、それはない。ないから、辰乃。そういうのはしなくていいから」


 今度、辰乃のスマートフォンには子供用のフィルタリング設定をしなければいけない。

 それほどに美星の妻は純真で、一途で、そして健気で。

 俗世ぞくせを知らな過ぎるからこそ、自然と美星は愛おしく感じてしまう。

 突然の連続だったが、アリだなと思う程度には美星は満足していた。

 こんなかわいらしい女の子が奥さんなのだ。


「辰乃、あの」

「は、はいっ! ……えっと、どうぞ」

「え? いや、そういうのではないんだけど」

「……そ、そうなんですか?」


 何を期待したのだろうか?

 背に湯を浴びせてくれる辰乃を振り返れば、彼女はかしこまって身構えた。

 なんだか、こういう時でも美星の劣情れつじょうは酷く鈍感だ。ぜん喰わぬはなんとやらとも言うし、アニメや漫画ではこうした状況は大きな進展のチャンスだと知っている。

 でも、何にでも一生懸命な辰乃を見ていると、保護者の目線になってしまう。

 この不器用で世間知らずな龍神様を、自分が守ってやらねばと思ってしまうのだ。


「あ、いや……辰乃。俺さ……もっと、こう、ガツガツしてた方がいいか?」

「えっ? そ、それは……大丈夫です! ガッツリでもガツガツでも、辰乃は美星さんの妻ですから! 全然平気です! さ、さあ」

「いや、そういう話じゃなくて。なんかこぉ……ちょっと、いいか。あっち向いて」


 辰乃から取り上げたボディタオルに、自分で石鹸せっけんを泡立てる。

 あっちを向かせて今度は逆に、美星は辰乃のなだらかな背をコシコシと流してやった。ほんのりと紅潮こうちょうした柔肌やわはだに、辰乃の緊張が感じられる。


「み、美星さん! わたしはいいです、いいんです! こういうことは」

「まあ、いいから。ちょっと聞きなさいよ」

「は、はい」

「あのな、辰乃。当たり前だけど俺、夫婦ふうふは初めてなの。……恋人は、前にも、いた」

「……千鞠チマリさんの、お姉さん、ですよね。確か、百華モモカさん」

「ん、そう。けど、それも終わって、上手く終わらせられないでいる。けじめがなあ、つかなくてもう……どうしたもんかな、ってな」


 タイルの上にぺしゃんと座った辰乃のしりに、うろこで覆われた尻尾が揺れている。

 美星の言葉を神妙しんみょうに聞きながら、辰乃はそっと尻尾で美星の脚に触れてくる。足首に巻き付いてくる尻尾が、不思議となぐさめているような、許してくれるような感触をもたらしていた。

 美星も、自分でこんなことを言うのが不思議でたまらない。

 せっせと辰乃のきめ細やかな肌を洗いながら、言葉を探してつぶやき続ける。


「まだ、辰乃と会って一週間も経ってないしな。なんつーか……未だにピンとこないこともあるけど、助かってる。飯も美味うまいし、家のことも色々と」

「美星さん……わたし、上手くやれてるでしょうか? 美星さんのお嫁さんとして」

「いいんじゃない? なんかこう……俺なりにこんなでも、凄い、なんつーか」


 嬉しいんだ。

 楽しんだよ。

 そんな簡単なことが言葉にしかできない。もっと全身で気持ちを表現したり、形にして伝えたいのに。上手くできない。やっぱり、心がどこかで死んでるのだ。

 それでも、ぼんやりと美星は自分なりに思ったことを伝える。


「あんま、頑張らずにいこうな、辰乃。えっと、人界じんかい? 色々珍しいだろ?」

「は、はいっ! そうなんです、見るもの全てが……今日のあの、というのも凄く面白かったです。どうやったらあんな……まるで夢を見てるような毎日です!」

「ん、他にも色々あるし、あとで再生方法を教えるからな。日中、ひまなら見てもいいし、その、えっと……あの部屋、物置になってる客間な……辰乃は、入っていいからな。掃除しといてくれ」

「美星さん……あの宝物庫ほうもつこを、わたしに! これは……まかされてますか!?」

「うん、任せた。掃除して、あと、好きなBlu-rayブルーレイを見ていいし、漫画も本も気になったら見てみるといい。まあ、その……あとでヤバいのは別に移しておくから」

「ヤバいの、とは」

「……辰乃にはちょっと、刺激が……ん?」


 ふわふわと泡で包まれた辰乃が、野暮やぼなことを真面目に聞いてくる。

 この家で一番確かな誘惑で、魅力的に過ぎる彼女が聞いてくるのだ。

 だから、美星はについては上手くごまかしつつ……辰乃のうなじに奇妙なものを見つける。輝きをりなす珊瑚さんごのような髪の奥に、小さな鱗が一枚だけ浮いていた。


「なあ、辰乃……さっきも見たけど、これは? あ、いいんだ……何を出しててもいいんだけど」

「これ、とは……ああ、首のこの鱗ですか?」

「うん」


 それは、尻尾を覆う鱗よりも一際綺麗にぼんやり輝いている。

 辰乃は慌ててそれを両手で覆った。

 細い腰からわきへのなだらかな曲線が、自然と彼女を振り向かせる。


「ご、ごめんなさい、美星さん! これは駄目です! 触ってはいけません!」

「あ、うん。別に……えっと」

「これは、逆鱗げきりんなんです。龍は皆、一枚だけ逆さに鱗が生えてます。それは、神様に最も近い存在として産み出された、わたし達龍の眷属けんぞくの……唯一にして絶対の法なんです」

「法、ルール……?」

「はい……龍は神様が作った世界での、一種の防人さきもりのようなものです。わたしもずっと、人界を見守り、時には調和を保つために戦ってきました。そんな龍達の精神力の、その逃げ場となるのが逆鱗です。あらゆる激情を一点に集中させて具現化させてるからこそ、わたし達は強大な力を持ちながらも自我と感情を制御できるんです」


 ファンタジーの世界でも聞いたことがあるし、アニメや漫画にも時々出てくる。美星も、逆鱗が凄くレアアイテムなゲームにのめり込んだ時期がある。狩人ハンターとなって龍やけものと戦うゲームだ。

 辰乃が言うには、龍には必ず逆鱗があるという。

 そこに一切の激情を封じて集めるからこそ、神様に次ぐ超越者ちょうえつしゃとして生きられるらしい。

 そして、その逆鱗に触れられると……龍は皆、恐るべき破壊神へと変貌へんぼうする。

 おおむね人間達がつむいできた伝説や神話は本当の話なのだった。


「なるほど……わかった、触らないように気をつけないとな」

「は、はい……逆鱗は怒りや憎しみの感情だけが集まってる訳ではないんです。だから……美星さんに触られたら、わたし……わたし」

「うん?」

「あらゆる感情の強さが、その全てが秘められてるのが逆鱗なんです。だから、その……美星さんを好きな想いも、そこにあって……それを美星さんに触られたら」

「……ちょっと、気になる。それはつまり」

「あ、駄目です! いけません! ……わたし、我を忘れて乱れてしまいます。はしたないです……恥ずかしいから、駄目、です」


 龍の逆鱗に触れる。

 それは古来より、禁忌きんきを犯すことと同義だ。

 だが、辰乃のうなじで光る鱗には不思議な力を感じた。龍のあらゆる激情を封じた逆鱗を見ていると、奇妙な誘惑さえ感じるのだ。

 だが、美星は色々な意味で無感情、無感動な自分を自覚していた。

 絶世の美少女と裸の付き合いをしてても、ムラムラしないのもわかってる。

 どうしても、魅力的な異性への気持ちが思考を上回らない。

 辰乃を大事にしたいというのも、彼の大人としての理性だった。


「寝る時、気をつけないとな。その……まあ、時々は一緒に寝るからさ」

「そ、そうですね! ……も、勿論、今夜も」

「あ、おう」

「わたし、今夜こそ頑張ります! あの、美星さんが角も尻尾も許してくれたので……わたしも今、すっごく楽に過ごさせてもらってます。だから、今夜は」


 美星は辰乃がどんどん赤くなってく中、シャワーを手に取った。

 温かな湯で背の泡を追い払いながら、ぼんやりと考える。

 そういえば、まだ一度も辰乃と夫婦めおとちぎりを交わしていない。

 勿論、美星の肉体は健全な成人男性だ。だが、そこに宿った気持ちに自信がない。一途な辰乃に対して、自分の全てが彼女を向いていないような気がしている。

 そして、心の奥では一人の女性が今も引っかかっているのだ。


「辰乃、さ……無理しなくていいからな? あと、俺も多分……無理なことがまだあって」

「あ、いえ! それはもう! あの、美星さん……わたしこそ、その、少し……性急過ぎました。ごめんなさい……嬉しくて、つい」

「それはいいのさ、いいんだ。だから、あとは俺の問題。よしよし、綺麗になったな。湯船ゆぶねで温まるか」

「は、はい」

「……ある意味、さ。辰乃って俺みたいな人間の夢というか、希望? 違うな、なんかこう……とりあえずまあ、こっち来て」


 二人で湯船につかれば、お湯があふれて排水口にうずを巻く。

 ちょっと狭いが、美星は自分がひたるお湯よりも辰乃が温かくて、そして熱かった。自分の上にチョコンと座った辰乃からは、石鹸のいい匂いがする。長い長い髪が湯船に広がって、それを見下ろす美星の胸の中に確かな存在感を訴えてきた。

 少し気恥ずかしそうにしながらも、辰乃はどこか嬉しそうだった。

 それが美星には、なによりなことだと不思議な安堵感を広げてゆく。


「今日は、美星さんと……一緒にお風呂に入りました! これは、凄く進展です!」

「ああ、うん。そうなの?」

「はいっ! 辰乃はこれからも、一生懸命勉強します。ぐうぐるさんにもご教授願って、美星さんの妻として頑張ります!」

「……まあ、無理しない程度に頑張ってくれ」

「お任せください、美星さん! 辰乃は妻として、嫁として……色々頑張りますっ!」


 グッと拳を握る辰乃の頭を、美星はポンポンとでる。

 いじらしい妻は、歳上の龍神だ。今も角と尻尾が、無言で人ならざる存在を教えてくれる。だが、角も尻尾も生えているが……辰乃は美星のお嫁さんとして来てくれたのだ。自分が感じ取れずリアクションもできない感動が、常に彼女から発散されてる。

 清潔感を保つだけの意味を感じなかった入浴が、今夜だけは不思議と美星を長湯ながゆさせるのだった。

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