第7話「神様かく語りき」

 荒谷美星アラヤアースにとって久々の休日が終わろうとしていた。

 昼間の電車はいていて、席に座ればぽかぽかと温かい。

 もうすぐ三月、春はすぐそこだ。

 夕方の帰宅ラッシュ前で、静かな車内に寝息がたゆたう。


「寝てしまった、な。……俺もずいぶんとはしゃいだものだ」


 今、美星の隣で辰乃タツノが眠っている。

 その小さな重みが、自分に寄りかかってくる。

 その寝顔を見下ろして、ぼんやりと美星は先程のことを思い出していた。


「神様も飯を食うんだな」


 第一印象はまさにそれで、あとから考えれば当然のようにも思える。かすみを食べて生きるのは仙人だし、仙人はその名の通り仙道を極めた人……ただの人間だ。

 だが、神様は神様、創造主だ。

 そして、それは龍神りゅうじんの花嫁である辰乃だって同じだ。

 美星はつい先程、世界の真理の一つに触れた。

 神様は……

 そんなことを考えていると、ムニャムニャと辰乃がゆるい笑みを浮かべる。


「美星さん……これ、凄いです……美味しい、です」


 辰乃は今、どんな夢を見ているのだろう?

 何かを食べているらしいが、その表情はとても穏やかだ。

 実はあのあと、ファミレスで神様と再会した。そして、あれよあれよというまに同席することになったのだ。

 因みに神様も、ランチステーキにライスを大盛り、そしてサイドメニューにカツ丼という豪気な食いっぷりだった。

 だが、美星が聞きたかったことの全てに神様は答えてくれた。

 その言葉を今、ゆっくりと思い出してみる。


『よいのか、じゃと? ……嫌なのか? 若いの』


 そんなはずはない。

 こんな健気けなげな少女を嫌いになどなれない。

 だが、それと辰乃本人の気持ちは別の問題だ。


『若いの、何を今更いまさら悩んでおるのじゃ? 辰乃もいいと言うておるし、何も問題はなかろう。恋だ愛だはほれ、これからはぐくめばいいんじゃ。知り合いも言っとったぞ? なんじ隣人りんじんを愛せよ、とのう』


 その間ずっと、辰乃はモギュモギュとハンバーグを頬張ほおばりながらうなずいていた。

 当人同士の気持ちは、とりあえずわかっている。

 確認もしたし、美星にも異論はない。

 だが、あまりに突然のこと、そしてそのことに驚けないでいる自分が不安だった。臆病と言ってもいい。

 そして、自然と以前のことを思い出してしまう。


『ほうほう、以前に結婚を考えておったおなごがのう……何じゃ、別れたのならよいのではないか? それはつまり、えんがなかったということじゃ』


 神様の言うことはいちいちもっともなのだが、どこか他人事だ。

 達観しているというか、俯瞰ふかんするような言葉ばかりである。

 背中を押して欲しい気もするし、太鼓判を押されたい美星にはそれが少しじれったい。そう思っていて、初めて気付いたこともあった。

 美星は自信がないのだ。

 あんなに頑張って恋愛をしてみた、その結果が今の美星である。

 自分なりに頑張ったし、未知の経験を前に奮闘したとも言える。

 だが、結局は何もみのらなかった。

 縁がないと片付けるには、まだ少し胸の傷は思い。

 そんな時に辰乃が嫁にやってきたのだった。


『気にするでないぞ、若いの。わしは何事も勉強だとか、いい経験になったとかは言わん。お主が傷付いたことも、相手だって同じだとうれいていることもわかる。わかるが、せっかく今は辰乃という嫁があるんじゃ。のう、辰乃』


 一生懸命海老えびフライに舌鼓したづつみを打っていた辰乃は、そこでようやく顔を上げた。

 うっとりと美味に酔うような、その笑顔がとてもまぶしかったのを覚えている。

 彼女は迷いのない言葉で、やっぱり美星に素直な気持ちを伝えてくれた。


『わたしは美星さんと一緒になれて嬉しいです。つ、角を隠すのが、大変なくらい……だから、あの! やっぱりこれからも一緒にいさせてほしいんです!』


 昨日出会ったばかりなのに、彼女の一途いちずさが胸に刺さる。

 忘れようとして封じたときめきが、狙いすましたように貫かれるのだ。

 じっと見詰める隣の辰乃を、思わず美星はでてしまった。翡翠色ひすいいろの髪はさらさらと手触りがよく、とてもいい匂いがする。

 そういう訳で、神様は何かあったら連絡せいとメアドを教えてくれた。

 電話番号もだ。

 これぞまさしくなのだった。

 そんなことを電車の中で思い出していると、寝ていた辰乃がうっすらと目を開く。ぼんやりと焦点の定まらぬ目で、彼女は美星を見上げて何度もまばたきをした。


「……あら? まあ、わたしは……もしかしてわたし、寝てました!?」

「うん? ああ、ぐっすりだったから」

「す、すみません! あの、何かだポカポカしてて、それに……誰かの隣にいるの、いてもらえるの……初めて、だから」


 ほおを赤らめ、身を正して辰乃は座り直す。

 やっぱりなんだかかわいくて、またポンポンと美星は頭を撫でてしまった。

 そして、脳内に流れるリフレイン。


 ――美星さ、そういうのって恋人の接し方じゃないんだよ?


 一瞬、辰乃に違う面影おもかげが重なった。

 今はもう、他人と他人になってしまった女性だ。

 そんことにハッとしていると、嬉しそうに辰乃が見上げてくる。


「美星さんに触れてもらえると、なんだか……とても温かいです。凄く、嬉しいです!」

「あ、ああ。えっと……そうだ、うん。他に何か欲しいもの、ないか?」


 服と携帯と、あとはちょっとした雑貨を少し買った。

 どうやら辰乃の頭は昭和中期あたりの日本で止まっているらしい。ちょっとした生活の利器を見るたびに、彼女は新鮮な驚きで笑顔を見せてくれたのだ。

 だが、一度胸の奥から浮かんだ追憶は、次々と蘇る。

 胸のんだ傷から飛び出してくる。


 ――欲しいものだけ与えてくれても、もっと違うの……きっと違うの。


 今日、久々に千鞠チマリに会ったから、次々と思い出す。

 つやめく辰乃の髪を撫でながら、いつもの無表情に感情が凍ってゆく。

 だが、そっと辰乃は手を伸べ、美星の頬に触れてきた。


「そういえば、お味噌みそが少なくなってました。それとお醤油しょうゆも。今夜もわたしが腕を振るいますので、食材を少し買いたいです! ……どうしたんですか? 美星さん?」

「あ、いや、そうか。うん、駅前にスーパーがあるから、寄っていこう」

「それと……欲しいもの、ないです。もう、いっぱい、いーっぱい……沢山頂戴ちょうだいしました。だから、次は……して欲しいこと、あります」


 自分があまりにも恋愛を知らなかった、そんな日々があった。

 セピア色の化石になって、琥珀こはくに閉じこもるちょうのように胸に沈んでいる。

 あの日、あの時、あの瞬間……取り戻せない失敗の全てを、不思議と辰乃が許してくれるような気がした。自分の都合の良さにあきれる一方で、じっと見詰めてくる辰乃の言葉を、黙って待つ。

 彼女の大きな瞳に今、ぼんやりとした自分の顔が映っていた。


「一緒に歩く時……手、を……手を、繋いで欲しいです!」

「……え?」

「歩く時だけじゃなく、もっと……こうして、美星さんに触れていたいです。人間は温かくて、とても柔らかくて。それは、この姿を借りてるわたしとは全然違って」

「そっか。そう、だな」


 頬に触れる辰乃の手に、手を重ねる。

 人気のない社内が小さく揺れる中で、辰乃の頭にまた角が現れた。

 誰も見てない中で、二人だけの仲がお互いを見詰めさせる。

 小さな辰乃の手は、やっぱりすべすべで柔らかくて、そして温かい。

 その愛しい感触を、辰乃も自分に感じてくれているのだ。

 美星の手を握り返して、辰乃は少し気恥ずかしそうに言葉を続ける。


「そ、それと……わたしが知ってる日本では、こんなにおおらかな男女の交際というものは、あまり。だから、わたし変かもしれません! でも」

「いや、辰乃はおかしくない。俺は……どうだろうな。前、ちょっと失敗したから」


 辰乃は桜色さくらいろくちびるを開きかけて、ギュムと口をつぐむ。

 何かを言いかけた彼女は、その言葉を飲み込んだのだ。

 きっと、気にしてるはずだ。妻として気になるのは当たり前だ。

 美星の過去に何があって、一人の女声の影が見え隠れしてるから。

 美星もまた、中々言葉にして辰乃に伝えられない。

 自分のことが未整理のまま、心のあちこちに散らばっているのだ。それから目を逸らし続けて、どんどん無感情に心を殺していたから。

 結局、説明できないことの告白を求められてるような気がして……そう勝手に思ってしまって、美星はそっと胸に辰乃を抱いた。

 そうして黙らせてしまう自分が、どうしようもなくずるいと思えてしかたがなかった。

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