第4話「嫁にはアレが生えてます」
車庫の
それでも、乗用車が楽に出入りする場所では小さく見える。よく晴れた二月の朝は、澄んだ空気にアイドリングの音がやけに響いた。冷気が今朝は、いつになく透き通っているように感じる。
愛車のドゥカティを
何とか朝食時のことを頭の中で整理する。
「……普通じゃ、ないなあ。うん……
変に冷静でいられるのは、あまりに突飛な現実に驚き過ぎているからだ。
規則的なエンジンの鼓動を聴きながら、小一時間前のことを振り返る。
一緒に朝食を取るよう勧めたら、酷く
美星は驚いた。
リアクションが薄いのはいつものことだが、確かにびっくりしていた。
目の前の少女は、嬉しさを爆発させた。
そして……その頭に今、一対の見事な角が生えている。
「辰乃、ちょっと。角、生えてるけど」
平静を装った訳でもないが、生来美星のテンションはこんなものだ。
これでも心臓がバクバク高鳴っているのだが、常に平常心、フラットな人間である。
そして、対象的に辰乃は美星の言葉に、ボンッ! と赤くなった。
だが、構わず食卓を立った美星は彼女の前に出る。
長身の美星に対して、小さな辰乃が腹のあたりから見上げてきた。その目が
「あ、あっ……あの、旦那様。これは、その」
「ん、少しいいか?」
「えっ?」
「昨夜のはこれだったか。ちょっと触るぞ」
そっと触れてみる。
硬くて、不思議な感触はなめらかだ。
実物は知らないが、
興味深く角を撫で回して、ようやくはっきり美星は思い出した。
昨夜、布団の中で彼女を抱き寄せた。
甘やかな匂いの中で、髪を撫でようとして……この角に触れたのだ。
「だ、旦那様、これは……その」
「辰乃、君さ……もしかして、人間じゃない?」
「は、はいぃ……申し訳ありません、旦那様。あの、
「
「神様です。この世界を
意を決したように、密着の距離に辰乃が身を寄せてきた。
過不足のない胸の膨らみが、布越しに美星に触れてくる。
思わず美星は、まるで愛車のハンドルを操るように角を握り締めてしまった。久しく乗っていないドゥカティと違って、このままヒョイと辰乃を持ち上げられそうだ。
辰乃は頭の角を好きにさせながら、泣きそうな顔で訴えてくる。
「旦那様、わたし……人間じゃないんです」
「ああ、今知った。そうみたいだけど」
「でもっ! あの、ちゃんと妻として大丈夫だと思います! 神様も問題ないって……
辰乃は耳まで真っ赤になっていた。
心なしか、手の中の角が温かくなってきた気がする。
「旦那様、それで……わたしは」
「うん」
「わたしは、龍です。この
「わかった」
「えっ!? わかった、って」
「了解したっていうか、了承? ちょっと違うな」
あわあわと辰乃がいよいよテンパってきた。
だから、放した両手を
それから美星は、少し迷ったが……彼女をそっと抱き寄せた。
胸の下にぽすんと、辰乃の顔が埋まる。
彼女の顔が熱い中で、安心させるように美星は言葉を選んだ。非日常の中でも、奇妙な程に冷静な自分が少しおかしかった。
「辰乃は龍で、あの爺さんは神様。で、俺の嫁……で、いいんだな?」
「へ? ……は、はいっ! 辰乃は旦那様の、つ、つっ、つっ、妻です!」
「荒谷美星。旦那様はちょっとこそばゆい。美星って呼んでくれ」
「あーす……?」
「美しい星と書いてアース……アースってのは地球、この星のことだ。……すげえ恥ずかしいんだけどな」
「あーす……地球。美しい、星……わかりました、美星様! わたしの旦那様は、この星と同じ名前……わたし、嬉しいですっ!」
腰に手を回してきて、辰乃はぎゅーっと抱きついてきた。
そして、顔をあげるとにこりと
素直にかわいいと思った。
恋や愛とも少し違う。
うら若き少女に見えるが、自分の何百倍も年上の女性だ。
ただ、愛おしいという気持ちを否定できない。まだまだ謎は残るし、龍神様との新婚生活というのは現実感がないどころか、想像力が全く働かなかった。
だが、全幅の信頼を無条件に寄せてくる辰乃。
その背におずおずと美星も手を回してしまった。
「とりあえず……辰乃」
「はいっ! 何でしょう、美星様」
「様は困るな、ええと……美星さん、でいいか?」
「は、はい。では……美星さん」
うっそりと目を細める辰乃は、まさしく咲き誇る花のようだった。舞い散る
「よし、辰乃も朝ご飯を食べろ。まだだろ?」
「え……一緒にですか?」
「や、疑問符が挟まるようなことか? ……ああ、そうか。ひょっとして」
「美星さんは旦那様です! わたしはあとで残ったものを
「やっぱりか。そういうの、今はあんまし。それと」
不思議とそういう気持ちが湧いて出て、そのまま口にする。
まるで、一足先に心の奥底が雪解けを迎えたみたいだ。
美星の中で凍りついていた気持ちが、想いが温まってゆく。
それは同時に、痺れるような
「まだ捨ててないと思うから……もう一つお茶碗がある
「は、はいっ! もしかして、今の世ではそれが普通、当たり前なのですか?」
「
「この姿をもらってからは、そうです! で、では」
そそくさと辰乃は台所へと戻ってゆく。
少し浮かれたようなその背を見送って、美星はやっぱり自然と笑みが浮かんだ。
そして……その後姿に
全く似てないのに、否が応でも思い出してしまう。
そのことに鼻を鳴らしていると、それ以上追憶は浮かんでこなかった。
辰乃はお茶碗に山盛りのご飯を盛ってきて、気恥ずかしそうに笑ったのだった。
こうして美星は先程の出来事を振り返る。
今のところ、わかったことは少ない。
昨日の老人が本当に神様だったこと。そして、神様の紹介で龍神の嫁ができたこと。そして、龍神の辰乃はよく食べる娘だということ。
ともあれ、今日を休日にした美星はでかけることにした。
神様をできれば探したいし、もう少し事情を聞きたい。
そう思いつつ、あれこれ知ってどうするかは決めていなかった。
辰乃を突き返すのかと言われれば、それもわからないのだ。
「まあ……何はともあれ、携帯を買ってやるか。それと、色々。な、相棒」
ポンと愛車のドゥカティに触れる。
イタリア生まれの大きなバイクは、何も答えず静かにエンジンを暖めるだけだった。
そうこうしていると、辰乃がやってきた。彼女は美星が預けた鍵で玄関を
辰乃は美星の相棒を見て、いちいち大げさなくらいに驚いてみせた。
「美星さん、こ、この子は!? 美星さんの自動二輪ですか? おっきい……」
「まあ、ドゥカティだしな」
「……どかてぃさん、ですか。はじめまして、どかてぃさん。嫁の辰乃です、よろしくお願いいたします」
ぺこりと辰乃が頭を下げる。
彼女を見ていると、いちいちクスリと笑ってしまう自分に美星は気付いた。自然な笑みが浮かぶなど、やっぱり久しぶりでどこか新鮮だった。
「じゃあ辰乃、メットを……あ」
「美星さん? ああ、角ですね。ヘルメットを被らなければいけないんですよね、自動二輪は」
「まあ、そうなんだけど……しまった、そうか」
「大丈夫です! あのっ、ちゃんと消せますから!」
辰乃はそう言ってはにかむと、すっと上を向いて目を閉じた。
彼女の角は、すっと朝の空気に解け消える。
「驚かせてしまうと思って、普段は隠してます。で、でも、その……気持ちが
「そっか。まあ、これから街に行くから消しといた方がいいかな」
「はいっ! わたしもこの時代は初めてで、だから、えと、気をつけます! 美星さんに、旦那様に失礼がないように。決してご迷惑はおかけしません!」
「うん。それで……悪いけど、やっぱり少し歩こう。駅から電車だな」
少し辰乃が残念そうな顔をした。
だが、ヘルメットが自分の物しかないのだ。もう一つは処分してしまったことを、今になって思い出す。
エンジンを切られた相棒のドゥカティは、小さく抗議するように少し大きく身を震わせた。そのことに小さく溜息を零すと……美星の腕に、ぶらさがるように辰乃は抱きついてきた。頬を寄せてくる彼女のぬくもりは、まるで全てを許すような、そんな体温を感じさせた。
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