第4話「嫁にはアレが生えてます」

 車庫のあるじは、バイクにしては大型だ。

 それでも、乗用車が楽に出入りする場所では小さく見える。よく晴れた二月の朝は、澄んだ空気にアイドリングの音がやけに響いた。冷気が今朝は、いつになく透き通っているように感じる。

 愛車のドゥカティを暖機だんきしながら、荒谷美星アラヤアースはぼんやりとしていた。

 何とか朝食時のことを頭の中で整理する。


「……普通じゃ、ないなあ。うん……尋常じんじょうじゃない程、よく食べるだ」


 変に冷静でいられるのは、あまりに突飛な現実に驚き過ぎているからだ。驚愕きょうがくというレベルを超えてしまって、関係ないことの方から思い出されてしまった。

 規則的なエンジンの鼓動を聴きながら、小一時間前のことを振り返る。

 一緒に朝食を取るよう勧めたら、酷く健啖家ハラペコキャラな一面を見せてくれた少女、辰乃タツノ。美星にとついできた彼女には、大きな秘密があったのだ。






 美星は驚いた。

 リアクションが薄いのはいつものことだが、確かにびっくりしていた。

 目の前の少女は、嬉しさを爆発させた。

 そして……その頭に今、

 翡翠色ひすいいろの髪から屹立きつりつするそれは、立派な牡鹿おじかの角を彷彿ほうふつとさせた。無数に枝分かれしながらも、左右対称の角が頭上に広がっている。まるで大樹のようで、葉も花もないが枝ぶりだけは圧巻だ。


「辰乃、ちょっと。角、生えてるけど」


 平静を装った訳でもないが、生来美星のテンションはこんなものだ。

 これでも心臓がバクバク高鳴っているのだが、常に平常心、フラットな人間である。

 そして、対象的に辰乃は美星の言葉に、ボンッ! と赤くなった。

 だが、構わず食卓を立った美星は彼女の前に出る。

 長身の美星に対して、小さな辰乃が腹のあたりから見上げてきた。その目がうるんで不安を満たしている。


「あ、あっ……あの、旦那様。これは、その」

「ん、少しいいか?」

「えっ?」

「昨夜のはこれだったか。ちょっと触るぞ」


 そっと触れてみる。

 硬くて、不思議な感触はなめらかだ。

 実物は知らないが、珊瑚さんごあたりはこういう感じだろうか? そして、美星の手と指で接する角は、どんな金品や宝石よりも肌に心地よい。

 興味深く角を撫で回して、ようやくはっきり美星は思い出した。

 昨夜、布団の中で彼女を抱き寄せた。

 甘やかな匂いの中で、髪を撫でようとして……この角に触れたのだ。


「だ、旦那様、これは……その」

「辰乃、君さ……もしかして、人間じゃない?」

「は、はいぃ……申し訳ありません、旦那様。あの、神様かみさまから話は」

じんさん? ああ、昨日のじいさんか。……ん、神様? 神様って」

「神様です。この世界をつくった神様の一人で、今は隠居いんきょなさってるんです。それで、ええと、わたしは……」


 意を決したように、密着の距離に辰乃が身を寄せてきた。

 過不足のない胸の膨らみが、布越しに美星に触れてくる。

 思わず美星は、まるで愛車のハンドルを操るように角を握り締めてしまった。久しく乗っていないドゥカティと違って、このままヒョイと辰乃を持ち上げられそうだ。

 辰乃は頭の角を好きにさせながら、泣きそうな顔で訴えてくる。


「旦那様、わたし……人間じゃないんです」

「ああ、今知った。そうみたいだけど」

「でもっ! あの、ちゃんと妻として大丈夫だと思います! 神様も問題ないって……しとねを重ねることも、ややこあかちゃんさずかることもできますから! あっ、安心してください!」


 辰乃は耳まで真っ赤になっていた。

 心なしか、手の中の角が温かくなってきた気がする。


「旦那様、それで……わたしは」

「うん」

。この日ノ本ひのもとで1,500年生きる、龍神りゅうじんなんです」

「わかった」

「えっ!? わかった、って」

「了解したっていうか、了承? ちょっと違うな」


 あわあわと辰乃がいよいよテンパってきた。

 だから、放した両手を華奢きゃしゃな肩にそっと置く。

 それから美星は、少し迷ったが……彼女をそっと抱き寄せた。

 胸の下にぽすんと、辰乃の顔が埋まる。

 彼女の顔が熱い中で、安心させるように美星は言葉を選んだ。非日常の中でも、奇妙な程に冷静な自分が少しおかしかった。


「辰乃は龍で、あの爺さんは神様。で、俺の嫁……で、いいんだな?」

「へ? ……は、はいっ! 辰乃は旦那様の、つ、つっ、つっ、妻です!」

「荒谷美星。旦那様はちょっとこそばゆい。美星って呼んでくれ」

「あーす……?」

「美しい星と書いてアース……アースってのは地球、この星のことだ。……すげえ恥ずかしいんだけどな」

「あーす……地球。美しい、星……わかりました、美星様! わたしの旦那様は、この星と同じ名前……わたし、嬉しいですっ!」


 腰に手を回してきて、辰乃はぎゅーっと抱きついてきた。

 そして、顔をあげるとにこりと微笑ほほえむ。

 素直にかわいいと思った。

 恋や愛とも少し違う。

 うら若き少女に見えるが、自分の何百倍も年上の女性だ。

 ただ、愛おしいという気持ちを否定できない。まだまだ謎は残るし、龍神様との新婚生活というのは現実感がないどころか、想像力が全く働かなかった。

 だが、全幅の信頼を無条件に寄せてくる辰乃。

 その背におずおずと美星も手を回してしまった。

 咄嗟とっさのこととはいえ、受け入れてしまったのだ。


「とりあえず……辰乃」

「はいっ! 何でしょう、美星様」

「様は困るな、ええと……美星さん、でいいか?」

「は、はい。では……美星さん」


 うっそりと目を細める辰乃は、まさしく咲き誇る花のようだった。舞い散るさくらのようであり、寒さの中で開花したうめにも似て、それでいて名も無き野の花のように可憐かれんだ。


「よし、辰乃も朝ご飯を食べろ。まだだろ?」

「え……一緒にですか?」

「や、疑問符が挟まるようなことか? ……ああ、そうか。ひょっとして」

「美星さんは旦那様です! わたしはあとで残ったものを頂戴ちょうだいして」

「やっぱりか。そういうの、今はあんまし。それと」


 不思議とそういう気持ちが湧いて出て、そのまま口にする。

 まるで、一足先に心の奥底が雪解けを迎えたみたいだ。

 美星の中で凍りついていた気持ちが、想いが温まってゆく。

 それは同時に、痺れるような疼痛とうつうをも思い出させた。


「まだ捨ててないと思うから……もう一つお茶碗があるはずだ。これから……これから? まあ、これから、そうだな。辰乃、飯は一緒に食べろ。ってか、食べてください」

「は、はいっ! もしかして、今の世ではそれが普通、当たり前なのですか?」

おおむねそうかな。龍もやっぱり、ご飯を食べるだろ?」

「この姿をもらってからは、そうです! で、では」


 そそくさと辰乃は台所へと戻ってゆく。

 少し浮かれたようなその背を見送って、美星はやっぱり自然と笑みが浮かんだ。

 そして……その後姿に面影おもかげが重なる。

 全く似てないのに、否が応でも思い出してしまう。

 そのことに鼻を鳴らしていると、それ以上追憶は浮かんでこなかった。

 辰乃はお茶碗に山盛りのご飯を盛ってきて、気恥ずかしそうに笑ったのだった。






 こうして美星は先程の出来事を振り返る。

 今のところ、わかったことは少ない。

 昨日の老人が本当に神様だったこと。そして、神様の紹介で龍神の嫁ができたこと。そして、龍神の辰乃はよく食べる娘だということ。

 ともあれ、今日を休日にした美星はでかけることにした。

 神様をできれば探したいし、もう少し事情を聞きたい。

 そう思いつつ、あれこれ知ってどうするかは決めていなかった。

 辰乃を突き返すのかと言われれば、それもわからないのだ。


「まあ……何はともあれ、携帯を買ってやるか。それと、色々。な、相棒」


 ポンと愛車のドゥカティに触れる。

 イタリア生まれの大きなバイクは、何も答えず静かにエンジンを暖めるだけだった。

 そうこうしていると、辰乃がやってきた。彼女は美星が預けた鍵で玄関を施錠せじょうすると、ぽてぽてと車庫の方にやってくる。

 辰乃は美星の相棒を見て、いちいち大げさなくらいに驚いてみせた。


「美星さん、こ、この子は!? 美星さんの自動二輪ですか? おっきい……」

「まあ、ドゥカティだしな」

「……どかてぃさん、ですか。はじめまして、どかてぃさん。嫁の辰乃です、よろしくお願いいたします」


 ぺこりと辰乃が頭を下げる。

 彼女を見ていると、いちいちクスリと笑ってしまう自分に美星は気付いた。自然な笑みが浮かぶなど、やっぱり久しぶりでどこか新鮮だった。


「じゃあ辰乃、メットを……あ」

「美星さん? ああ、角ですね。ヘルメットを被らなければいけないんですよね、自動二輪は」

「まあ、そうなんだけど……しまった、そうか」

「大丈夫です! あのっ、ちゃんと消せますから!」


 辰乃はそう言ってはにかむと、すっと上を向いて目を閉じた。

 彼女の角は、すっと朝の空気に解け消える。


「驚かせてしまうと思って、普段は隠してます。で、でも、その……気持ちがたかぶると、嬉しいと! そう、嬉しいと出ちゃうんです!」

「そっか。まあ、これから街に行くから消しといた方がいいかな」

「はいっ! わたしもこの時代は初めてで、だから、えと、気をつけます! 美星さんに、旦那様に失礼がないように。決してご迷惑はおかけしません!」

「うん。それで……悪いけど、やっぱり少し歩こう。駅から電車だな」


 少し辰乃が残念そうな顔をした。

 だが、ヘルメットが自分の物しかないのだ。もう一つは処分してしまったことを、今になって思い出す。

 エンジンを切られた相棒のドゥカティは、小さく抗議するように少し大きく身を震わせた。そのことに小さく溜息を零すと……美星の腕に、ぶらさがるように辰乃は抱きついてきた。頬を寄せてくる彼女のぬくもりは、まるで全てを許すような、そんな体温を感じさせた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る