第24話「風となって、馳せる」

 海岸線を疾走するバイクの上で、美星アースはちらりと空を見上げた。

 低く垂れ込める暗雲は、とうとう切なげに泣き出す。

 その雨粒がヘルメットのバイザーを濡らす中、加速。

 愛車のドゥカティは官能的かんのうてきなエグゾーストをかなで、さらに速く美星を運命の場所へと運んでいった。そう、運命……自分が向き合い、終えるべきさだめが待っている。

 三者三様に望み、欲しても得られなかった瞬間を求めて、走る。


「降ってきたか……こういう降り始めの路面が一番怖い。浮き上がった油や汚れが、タイヤのグリップ力を奪うからな」


 自分の中で暴れる心臓をなだめるように、必要のない独り言をつぶやいてしまう。

 本降りになる前に、空港へとつければいいが……気持ちばかり急いてしまい、もどかしい。既に限界まで飛ばしてるつもりだが、危険な領域へと躊躇ちゅうちょなく美星は踏み込んだ。

 すさぶエンジンを抱くように身を沈め、空気の壁を切り裂きせる。

 そんな美星の脳裏に、在りし日の言葉がリフレインした。


『美星さ、バイクが趣味? そんだけ? えっ、なになに? アタシのメット? 一緒に乗るかって? やたっ、もーらいっ! どこ行こうか』


 百華モモカとの日々は、とても豊かで、穏やかで、そしてまぶしかった。

 疲れた日々の中でアニメに出会ったように、バイク仲間の千鞠チマリを通じて百華に出会った。巡り合ったのだ。そのときめきは、今も美星の中にある。

 心の整理ができているなんて、嘘だ。

 整理できぬまま、封じて閉じ込めた気持ちがある。

 時間を凍らせたまま、永久に保留ペンディングしていた言葉があるのだ。


『なんかね、美星。こうしてると……アタシがバイオリンになったみたい。美星はこうして、毎夜毎晩アタシを奏でるの。え? 俺にとってはストラディバリウスだって? ばーか、何億円すると思ってんの。アタシ、そんなお高い女じゃないつもりだよ?』


 確かに愛した。

 愛し合った。

 その記憶も感触も、ずっとくすぶっている。

 まだ熱を感じるし、冷めてゆくのは感情ではなくて思考だった。

 百華のためにアニメやゲームを捨て、オタク仲間とも疎遠そえんになった。

 そうまでして、百華との日々を続けたかったし、失いたくなかった。

 それなのに……百華は自分より夢を、バイオリンを取った。

 自分が何かを犠牲にしてでも守りたかった、その百華が自分を犠牲に旅立つような気がした。そのことを、思ってしまって、でも言えなかった。


『美星っ、見て! ツテでね、前からバイオリニストの研究生けんきゅうせいを探してる楽団がくだんがあってさ。こないだ、ちょうど担当者と指揮者が来日してて、聴いてもらったの! ほら、アタシって本番に強いタイプじゃん? バッチシよ、春からウィーン!』


 咲き誇る笑顔を前に、何も言えなかった。

 何かを言おうとして、最初におめでとうの言葉を絞り出した。

 でも、聞けなかった。

 怖くてただせなかったのだ。

 そして、言えば問い詰めるような口調になる。

 聞けば、返ってくる答が期待を裏切る気がしたのだ。

 だから、言えなかった。

 言わなかったのだ。

 二人のこれからと、バイオリン……そのどちらかを百華に選ばせるのも傲慢ごうまんだ。それでも、バイオリン一つを武器に音楽の都に乗り込んでいく、そんな恋人との関係性をこれからも続けたかった。

 それが彼女の負担になるとわかっていても、続けていきたかった。

 そのために今度は、最後の趣味であるバイクを捨ててでも……そう思った。


『今ね、向こうで暮らす家を探してるの。お金、ないからさ……ルームシェアかな? 小さいアパートで。でも、寝る場所さえあれば他にはなにもいらない。バイオリンだけあればいいの』


 他に何もいらない。

 バイオリンだけあればいい。

 オタクである自分を隠し、大好きなアニメやゲームと離れてまで好かれたかった美星。その美星を愛してくれた人は、自分よりバイオリンを選ぶのだ。

 そして、美星は気持ちが凍結したままで考えた。

 祝福し、送り出してやらねばならない。

 アニメでも漫画でも、こういう時の男は大きくなければいけないのだ。

 寛大かんだいで、うつわが大きくて、夢に生きる人の味方でなければいけない。

 だが、美星は創作物の主人公にはなれない。

 どうしても、一途に想っていた百華の、突然の旅立ちに混乱してしまっていた。だから、二人でゆっくりは話さなかった。百華は海外行きの準備でドイツ語を習うかたわら、軍資金のためにアルバイトを増やした。

 美星も仕事の多忙さを理由に、距離を置いてしまったのだ。


『もしもーし、百華です。留守電、入れとくね。最近ずっと忙しくて……そっちは? ごめんね、ずっと会えなくて。そうそう、千鞠がね、何か髪をバッサリ! 失恋だって……それ、どういう意味かなって。アタシ、あんましいいお姉ちゃんじゃないから。……チャンスがあると思ったらしいんだ。でも、駄目だって。なーんで確かめもせずに諦めちゃうかなー? ね……諦めたくないよ、アタシは』


 メールとメッセージが、擦れ違い続ける日々だった。

 一言、ほんの一言でも言葉をかけてやればよかった。

 そして、百華の言葉をもっと聞くべきだった。

 だが、彼女と話して今後のことを語る時……美星は彼女を祝福し続ける自信がなかったのだ。


 ――俺を捨ててウィーンに行くのか?


 ――俺も一緒にとか、そういうことを言ってくれよ!


 ――俺は、キモいと思われたくなくて、趣味をほとんど捨てたのに。


 ――お前は、そんな俺を捨てて大好きなバイオリンを選ぶのか!?


 自分勝手な言い分だ。

 だが、はっきり百華にそう明言されるのが怖かった。

 そして、それが分かる程度にはお互いに近過ぎて、触れ過ぎて、交わり過ぎた。彼女がバイオリンにかける情熱を、痛い程知っていた。真剣に弓を当ててげんを歌わせる、その姿は綺麗だった。つむがれる音はもっと綺麗だった。


「そうか……俺も、これは嫉妬か。辰乃と違って、相手は……バイオリンだけどな」


 恋敵こいがたきへの嫉妬しっとに、小さな花嫁は怯えていた。

 悠久ゆうきゅうとき超越者ちょうえつしゃとして過ごしてきたゆえに、人間ならではの小さな感情のゆらぎに驚き、持て余し、告白してくれた。

 気付けばとっくに、美星は辰乃タツノが好きになっていた。

 都合のいい美少女の押しかけ女房にょうぼう……だからではない。

 百華を忘れるために全てを灰色の無感動に塗り潰していた、そんな世界にいろどりをよみがえらせてくれたから。お陰で今、百華そのものまであざやかに浮かび上がる。

 だから今、ケリをつける。

 そうすることが、百華と辰乃のため……何より、自分のためだと思った。

 誰かのためにと言い訳せず、自分のためにベストを尽くす時が来たのだ。


「雨が強くなってきたな、クソッ……空港、何時の便なんだ? ええい、ままよっ!」


 さらなるスピードの領域へと、美星は飛び込んでゆく。

 バイクが好きだからこそ、バイクで死ぬようなことがあってはならない……ライダー達は皆、誰もがそう思って走る。全身をさらけ出して駆るバイクは、命を乗せる一体感があらゆる乗り物よりも最も強い。

 自分の肉体同然に、乗り慣れたドゥカティが馴染なじむ。

 もっといける、もっと速くと焦燥感しょうそうかんを駆り立てる。

 危険な加速を続ける中で、ゆるいカーブを美星は曲がった。


「――ッ! マジかよっ!」


 タイトなコーナーではない。

 流してゆるりと抜けられるイージーな道だった。

 だが、そこには……。その向こうにバス停が見えて、そこから一瞬が無限に引き伸ばされる。

 きっと、バスで来る誰かを迎えに来たのだ。

 雨だから、車で。

 それを、避けてハンドルを切る。

 瞬間、衝撃音と共に足元の感覚が消えた。

 ガードレールをゆがませ、美星はバイクごとちゅうへと舞っていた。

 小高い崖の下には、海が広がり白い波涛はとうを寄せている。

 雨の海は暗く、どこまでも続いていた。


走馬灯そうまとうって、こないもんなのな」


 思わず呟いた、その時にはもう……美星は落下していた。

 そして、ドゥカティの車体が界面に水柱を屹立きつりつさせる。

 それを美星はぼんやりと見ていた。

 そう、空から見下ろしていた。


「美星さんっ!」

「あ、あれ? 辰乃、か? お前……辰乃、なのか?」

「はいっ! あの、雨が……それでわたし、心配で!」


 そこには、翡翠ひすいのようなうろこに覆われた巨大な龍が翼を広げていた。海よりも深い碧色みどりいろの瞳が、あの日の涙を今日も浮かべている。

 美星は今、見えない力で辰乃の手にいだかれていた。

 するどい爪が並ぶ大きな手が、優しく美星をつかんでいる。

 間違いなく、愛しい辰乃の体温が感じられた。

 本来の姿に戻った辰乃は、そのまま風を斬ってぶ。

 高速で風景が飛び去る中、不思議と空気の抵抗を感じない。気圧も風圧も、まるで龍の辰乃を避けるように触れてこなかった。

 彼女の力が守ってくれてるのだとわかった。

 そう、感じられた。


「ごめんなさい、どかてぃさん……今は美星さんを! ごめんなさいっ!」

「いや、辰乃……謝るのは俺の方だ。……俺の大事な……愛車」


 ドゥカティを飲み込んだ海が、あっという間に見えなくなった。

 驚くべき速度で、辰乃は空を馳せる。

 ただ一言、本当は来たくなかったとだけ、彼女はこぼした。いかつい龍の顔を見上げて、美星は感謝の言葉を口にする。元カノに会いに行けと、彼女は言ってくれた。送り出したが、不安だったはずだ。それでも、美星を心配してわざわざ来てくれた。

 そして、今……美星を百華に会わせるために飛んでいる。

 何かが変わってしまう、その瞬間へと美星をみちびく彼女は、やっぱりちょっと嫌だと寂しく笑うのだった。

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