第18話「触れてはいけないのは、過去か」

 駅前の商店街を、神様かみさまは我が物顔で歩く。

 早瀬百華ハヤセモモカも負けじと、意気揚々いきようようと続いた。

 二人は完全に意気投合したようで、まだ準備中でのれんも出てない焼き鳥屋『やまがみ』へと入ってゆく。御迷惑ではと急いで追いかけた辰乃タツノは、見てしまった。

 美星アースの友人、山上真司ヤマガミシンジが「あっ!」という顔をした。

 百華と辰乃を見て、一瞬表情を強張らせたのだ。

 それでも彼は、従業員達に指示を出しつつこちらへやってくる。


「おいおいじいさん、ってかじんさん? いつも言ってるよな、開店は五時からだって」

「すまんすまん、すまんついでに……ワシもいつもいっておる。ありがとう、本当に助かるわい」

「全く……そっちのすみに座ってくれ。大したもんはまだ出せないけどな」


 どうやら神様は、開店前に上がり込む常習犯らしい。

 たちまち百華は革ジャンを脱いで、シャツ一枚になるとメニューを手に取る。あっという間に生ビールを二人分注文し、辰乃にも「アンタは?」と笑いかけてきた。

 とりあえず、反射的に同じ物をと言ってしまった。

 どうしても百華のことが気になって、上の空だったのだ。


「で? アンタ、名前は? 歌、やってるの? いいのどしてる、プロ? それともアイドルの卵系? この爺さんがプロダクションの社長とか?」

「え、ええと、その」

「わはは、すまーん! アタシ、質問し過ぎ。あ、おにーさん! 生ビールこっちこっち」


 問答無用のマイペースで、百華はどんどん話を進めてく。

 神様と辰乃にグラスを振り分け、できる焼き物を何か適当にと言って店員を追い返す。

 ようやく落ち着けそうで、辰乃は改めて身を質すと名乗り出た。


「わっ、わたしは辰乃です! ……荒谷アラヤ、辰乃です」

「ぷはーっ! うんめえ、この一杯のために生きてる! え? ああ、辰乃ね、辰乃……たつのん!」

「は、はあ。それで、あの……百華さんは」

「あ、そだね……ごめーん! 乾杯かんぱい忘れてたた。んじゃ、えっと、爺さん? 神さんも。ほらほら、たつのんも!」


 終始流れを握られっぱなしのまま、辰乃はおずおずとグラスのビールで乾杯する。

 同時に、自然と喉がゴクリと鳴った。

 家では美星もあまり飲まないから、基本的に辰乃は飲酒はしない。だが、それは別として……豊穣ほうじょうなる大地のめぐみと、人類の文明が巧みに支え合った極上の嗜好品しこうひんである。

 確か古い友人には、素行そこうが悪くて人にあだなすあまり、酒の弱みをかれて人間に討伐された者もいるほどだ。


「ぷぁ、はあ……お、美味しいです! これは、八岐大蛇ヤマタノオロチさんじゃなくても泥酔でいすいしてしまいそうです!」

「んー、たつのんイイ飲みっぷり! どんどんいこー!」


 神様はただ、ニコニコと笑っているだけだ。

 辰乃も大事なことを色々聞きたいのに、気付けばグラスがからになってしまう。酒精しゅせいを身に招くのは数百年ぶりだが、現代の冷えたビールは格別に美味しかった。

 すぐに百華がおかわりを頼んでくれる。

 これから美星の夕食を準備しなければいけないのに、何だか申し訳ない。

 だが、本質的に辰乃は龍神で、本能的に酒が大好きだった。

 そうこうしていると、運ばれてきた焼き鳥のくしを手に神様が話し出す。


「で、辰乃や。新婚生活はどうじゃ? 楽しくやっておるか?」

「は、はいっ! す、凄く……とても大事にされてます。けど」


 ちらりと百華を見やる。

 喉を鳴らして豪快にビールを飲んでは、ぷはーっ! と大げさに感嘆かんたんのため息。そうして百華は、視線を感じたのか身を乗り出してきた。


「へー、たつのんって人妻? 幼妻おさなづまってやつ? 団地妻だんちづま?」

「だ、だんちづま、とは」

「まー、ある意味男のロマン? 男の子ってバカだからさー」


 何だか、美星を馬鹿にされた気がした。

 つい、むっとした気持ちが表情に出てしまったかもしれない。

 辰乃は改めて二杯目のビールを一口飲んでから、話題を切り出す。

 少しいどむような口調になってしまったが、百華はゆるい笑みを浮かべているだけだった。


殿方とのがたざまにいってはいけません! 殿方に限らず、誰でも自分なりの了見りょうけんを持ってるんですから」

「おお……たつのん、何か難しいこと言った。あと、

「えっ!? ひっ、ひげ!? そんな、うそ、やだ……美星さんにも見せたことないのに!?」


 咄嗟とっさに辰乃は慌てて両頬を手で覆った。

 だが、どうやらビールのあわが鼻の下についていたらしい。

 ホッと一安心すると、肉とねぎとを脱いだ串が向けられる。

 百華はテーブルに頬杖ほおづえ突きつつ、小さく首をかしげて笑った。


「荒谷辰乃……ああ、アースの妹! は、いないはずだよね。じゃなきゃ、千鞠チマリにあんなに構わないし。……もしかして。人妻って」

「は、はいっ! わたしは荒谷美星の妻、荒谷辰乃ですっ!」


 言った。

 言ってやった。

 堂々と鼻息荒く宣言してしまった。

 だが、百華の反応は薄かった。


「ふーん、そ。で? ねえ、歌は誰かに習ったの? 最後のあれ、日本語や英語じゃないよね……凄く、よかった。詳しく聞かせて!」

「えっ、いえ、あの……わたし、美星さんの」

「アースはどうでもいいからさ。何か、ケルトっぽかったような、ロシア民謡のような……でも、不思議。言葉は理解できないのに、自然と光景が目に浮かんだよ」


 龍の言語は人間には理解できない。

 そして、龍が力を込めて歌えは、それは魔法の呪文にも等しいのだ。真言マントラ言霊ことだまごとく、人間を無意識に操ったりできるし、大自然の摂理せつりや法則を意図的に操ることも可能である。

 だが、辰乃は意外だった。

 自分の歌を綺麗だ、美しいと言った人間は過去に何人かいた。

 でも、理解をしめして良さをもっと知ろうとした人間は、恐らく百華が初めてだ。


「あの歌は……空、です。空を飛ぶ時、龍が歌う歌」

「ふーん、それでかな? それってさ、一人で飛ぶんでしょ? たつのん、詩人しじんだなあ。そっか、龍の歌かあ」

「百華さん……人間、ですよね?」

「そだよ? たつのんと同じ。としは26で……あ、次は何飲む? ほらほら、神さんも飲みなって」


 本当に楽しそうに百華は笑う。

 そして、全く辰乃を相手にしないかと思えば、深い奥へと言葉を届けてくる。不快感や忌避の感情が働く前に、独特な性格にグイグイと辰乃は引き込まれていた。

 再び真司が現れ、ビールを起きつつ辰乃に耳打みみうちする。

 彼の視線は、神様と最後の一本になった焼き鳥を取り合う百華に注がれていた。


「辰乃ちゃんさ、百華……やっぱ気になるよな。アースから話、聞いてる?」

「少しだけ」

「まあ、元カノは元カノ、だから。昔の女ってやつ。そゆの、アースはきっちりしてるから気にすんなよ」


 それだけ言って背筋を伸ばすと、真司はポンと辰乃の頭をでた。

 ひょろりと細長い美星と違って、たくましい体格の真司は笑顔も頼もしかった。

 だが、気をつかわれるとつい心配になってしまう。


「あの、えと……不躾ぶしつけですが、少し美星さんのことをお聞きしてもいいでしょうか。もしや、百華さんも美星さんの財宝を見て……ええと、キモ? そうです、肝がどうとか」

「んー、あいつ元からキモいとこあるからなあ。ご飯とビールを一緒に飲み食いするし。でも、違うんだよ。こいつに好かれたくて、あいつはオタクっての? そういう趣味、すっぱり全部捨てたの」


 真司がこいつと言って親指を向けるのは、百華だ。

 彼女はほろ酔いで真司に、空になったグラスを突き出す。

 別の店員が追加の焼き鳥を持ってきたので、彼女と神様はそっちの方へと意識を向けてしまった。

 辰乃は不思議と胸がドキドキ高鳴った。

 ときめきとは違う、不安をあおるような調子で心臓が踊る。

 酒気に頬が熱く、えりのボタンを外す。二つ三つと外して、火照ほてった肌を空気で冷やす。

 そして、静かに黙って真司の言葉を待った。


「アース、さ……前は何か楽しそうな友達が結構いて、よくうちで飲んでたよ。俺ぁ詳しくないけどさ、アニメとかゲームの話してた。でも」

「でも? な、何でしょう」

「ちょっとちょっと、辰乃ちゃん。無防備過ぎだって……暑い?」

「も、もっと教えてください! 美星さんのこと、知りたくて」


 気付けば辰乃は、全身が燃えるように熱かった。

 自然と店員の男達の手が止まる。

 だが、大きく前をはだけて彼女は自分を冷やした。そういうことに頓着とんちゃくがないのは、もともと服を着て生きる生活習慣がないからだ。

 人間の肉体を得て暮らす中、初めて旦那様の秘密に触れようとしたら……身体の発熱が収まらない。まるで、火あぶりか何かで罰を受けているようだ。


「でも、ある日をさかいにあいつ……友達と来なくなったんだよ。で、代わりにそいつと、百華と来るようになった。何かさ、服も小洒落こじゃれた感じになったし、ちょっと格好つけてた。まー、そういうのあるんだよ。男には。も少し若い時にやっとくべくだったけどな、アースは」


 不思議と幻滅は、ない。

 だが、どんどん身体が熱くなってゆく。

 胸の奥が黒くにごって熱を発しているのだ。

 自然と手で抑えた瞬間だった。


「辰乃や、それは……嫉妬しっと、じゃな?」


 ドキリとした。

 気付けば神様が、日本酒の熱燗あつかんを飲みながら辰乃を見詰めていた。


「龍は我ら神にも等しい、超越者ちょうえつしゃ。しかし人の身を得れば心もその中に圧縮されるが道理ぞ? 辰乃、胸が苦しかろう」

「は、はい」

「じゃが、まず一つ。人前でみだりに肌をさらしてはいかん。それと」


 真司がゴホン! と咳払いをして、店中の従業員が慌てて仕事を再開した。

 そして、辰乃は肩があわわになるほど襟を開いている自分に気付く。


「嫉妬……ですか? この感情が。わたし、そう、かも……だって、百華さんは」

「んー? どしたの、たつのん。え、何? 脱ぐの? アタシと張り合うの!? なんてな、わはは」

「もっ、百華さん! あの、えと、その」

「ああ、ごめんごめん。けむに巻いてたつもりはないんだ。ただ、アースとはとっくに終わってるからさ。。アタシ……アイツよりこれを取ったから」


 百華はかたわらのバイオリンケースを、ポンと叩いた。

 その横顔がとても凛々りりしくて、でも、はっきりと悲しそうに見えてしまった。


「わっ、わたし! ちょっとお花をみに行ってきますっ!」

「ごゆっくりー、って、たつのん? ね、ちょっと……首んとこ、うなじ! なんか光ってる」

「えっ?」

「ちょっと待って、取ったげる」


 断る暇もなかった。

 百華はすらりと長い手で、辰乃の髪に分け入ってくる。興奮していたからか、久々の酒も手伝って辰乃の感情は高まっていた。そして、それを制御する逆鱗げきりんが光っていたのだ。

 そして、白い手が触れた瞬間……ガクリ! と辰乃の身体が震える。

 神様が「む!」と、珍しく深刻な声を出した。


「う、あ、んっ……す、すみません! 神様、百華さんも! 今日は、こ、これで! 失礼しますっ! あと……美星さんはわたしの旦那様ですっ!」

「あ、うん。たつのん、ほんとにお嫁さんなんだあ」

「そ、そうですっ! 妻なんです! だから……音楽を取ったのに、そんな顔……ずるいです。駄目ですっ! ……いや、です」


 限界だった。

 辰乃はそのまま、やまがみの玄関を蹴破けやぶる勢いで往来おうらいへと飛び出すのだった。

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