第3話「二人の朝」

 目覚めてすぐ、荒谷美星アラヤアースは枕元のスマートフォンを手に取った。

 時刻は六時半を少し過ぎたところだ。

 あれだけ痛飲つういんして酔っ払ったからか、やけにのどかわく。まだまだ酒精しゅせい余韻よいんが残る身体は、律儀りちぎな気だるさで加齢を伝えてきた。

 29歳とちょっと、もう無理ができる若さじゃない。

 アラサーな自分を自覚して身を起こせば、普段と全く違う朝が広がっていた。


「歌……? この声は。それより、味噌汁みそしる? いい、匂いだな」


 薄荷はっかを溶かしたような朝の冷たさを、弾んだ声が震わせていた。

 知らない国のわからない言葉で、歌が静かにたゆたう。

 その調べに乗って、味噌汁のあたたかな香りが寝室まで漂ってくる。ふと隣の布団を見れば、もうすでに綺麗にたたまれていた。そして、自分が寝ぼけながらも抱きしめていたぬくもりも、今は布団の中にはなかった。


はだか、だった……いや、でも、


 上手く思い出せないが、断片的な記憶を脳裏に拾い集める。

 確か、そう、奇妙な老人と酒を飲んだ。

 それで、よめがどうとかいう話になったのだ。

 顔を手で覆いつつ、もそもそと美星は立ち上がる。パジャマ代わりにしているスウェット姿で、そのまま真っ先に台所へと向かった。

 日頃から適度に自炊するが、ここ最近は忙しくてそれどころではなかった。

 そもそも帰宅しても洗濯とシャワー、着替えしかしてなかったのだ。

 手狭てぜまな古めかしい台所には、少女の後ろ姿があった。

 思い出した、あのふわふわした服に翡翠ひすいのような長い髪……昨夜の彼女だ。


「ええと、おはよう?」


 おずおずと声をかけると、歌が途切れる。

 おたまを手に振り返った少女は、美星を見てパッと表情を明るくさせた。

 まるで、春待ちの二月に突然の花が咲いたみたいである。


「おはようございますっ、旦那様! 朝餉あさげの用意ができてますので、すぐそちらに」

「ああ、うん。ありがとう」


 言われるままに美星は隣の居間でテーブルに腰掛ける。

 少し大きめのテーブルは、かつて二人暮らしだった時の名残だ。

 少女は二つあるコンロの片方で味噌汁を作っていた。そしてもう片方では、片手鍋でいたお米をお茶碗ちゃわんによそい始める。

 ちらりと美星が視線を滑らせる先には、ごく一般的な電子ジャーがあった。

 何故、電子ジャーで炊かないのだろうか?

 そう思ったが、目の前にあつあつの白米が置かれて思わず喉がゴクリと鳴った。

 他には味噌汁だけだが、おわんの中には色とりどりの野菜がたっぷり入っている。


「大したものもできませんでしたが、どうぞ」

「ん、いただきます。……君が?」

「はいっ! 旦那様の家の冷蔵庫は変わってますね……最初、気付きませんでした。中にお野菜だけがいくつか……でも、ちょっと古くなっていたので、傷んだ場所を捨ててお味噌汁にしてみました」


 水分と塩分を欲する身体は、少女の声にうながされて味噌汁を一口。

 美味い。

 なんてことはない味だが、自分で作るのとは別物だ。

 特別な材料を使ったわけではないだろうが、普段の自分と同じだしや味噌とは思えない。何より、人の手で作ってもらった料理の味は久しぶりだった。

 ごはんもふっくら柔らかめで、それでいて米が立っている。

 つい夢中で頬張ほおばってしまったが、美星は一心地ついてからはしを止めた。

 生来の無感動気質もあって、酷く冷静な自分が少し変だった。


「えっと、君は?」

「あ、はい。あとで頂きます。旦那様がまずは先ですから」

「いや、それもあるけど……名前、とか。その、何も知らないからさ」

「あっ、そ、そそ、そうでしたっ!」


 畳の上に突然、少女は膝を折った三つ指をついた。

 流麗な所作しょさで、健気けなげなまでに徹底した作法を美星は感じた。


辰乃タツノと申します、旦那様。不束者ふつつかものですが、末永くよろしくお願いいたします」

「あ、思い出した……そこまでは焼き鳥屋で、やまがみで聞いた。でも、辰乃……君の名前なんだ」

「はい!」

「……名字は?」

「家名、ですか? それは……」

荒谷辰乃アラヤタツノ……語呂ごろは悪くない、か」

「まあ、旦那様……ありがとうございますっ!」


 相当に奇妙な娘だ。

 今時ちょっといない、アンティークを通り越して化石みたいな大和撫子やまとなでしこだった。

 それより、と立つよう言って美星はふむとうなる。

 とりあえず、昨夜の老人にもう一度会う必要があった。

 それで色々確かめねばならないし、自分にはまだ妻をめとる準備ができていない。酒の席でそういう流れになったが、手続きだってあるだろうし……何より辰乃は未成年に見える。

 どう見ても辰乃は、自分と一回りは違う十代の女の子だ。

 親御おやごさんはどうだろうかとか、色々些細ささいなことが気になる。

 だが、それでも今は朝食がひたすらに美味おいしかった。


「えっと、じゃあ……嫁?」

「はいっ!」

「俺の、妻?」

「ええ」

「つまり……結婚?」

「そうです! あ、おかわりをお持ちしますね」


 美星のお茶碗を受け取り、辰乃はおかわりを取りに台所へ行ってしまった。

 甲斐甲斐かいがいしい背中を見ながら、ぼんやりとだが美星は思った。アリだな、と……だが、アリはアリでも、社会的にはナシだろう。ただ、ちょっとだけ美星は昔を思い出した。それはまだ、心の中でかさぶたにならずにんでいる傷だ。

 それに、常識的に考えてこのような婚姻関係こんいんかんけいはありえない。

 だが、見ただけで気立ての良さが伝わる少女を邪険じゃけんにはできなかった。

 すぐにスマートフォンをタッチして、会社の後輩へと電話をする。


「あー、もしもし? 莱夏ライカか? 朝早くすまん、俺だ」

『おはよーございます、先輩っ! ふあ……今、何時スか? 超眠いんスけど』

「ん、申し訳ない。で、すまないついでに一つ頼まれてくれるか?」


 回線の向こうで、若い女があくびをする気配が伝わってくる。

 自分の部下で後輩、プログラマーの響莱夏ヒビキライカだ。快活かいかつ闊達かったつ、元気のかたまりみたいな女の子である。そして何故なぜか、子犬のように美星になついていた。

 莱夏はどうやらまだ寝入っていたらしい。

 彼女も昨日まで激務に忙殺されていたのだ。

 そう考えると、申し訳無さが溜息ためいきとなって小さくこぼれる。


『なんスか? アース先輩の頼みならなんなりと! あ、でもお金ならないスよ』

「いや、お前にそこは期待してない。心配はしてるけどな」

『ウシシ、面目めんぼくないッス! 先月お借りした分、後日きっちり返済させてもらうスよ。ほいで……何かありました?』

「うん、今日な。ちょっと有給を取ろうと思うんだが。あとで部長にも連絡しておくが、お前には今日だけチームの仕切りを任せたい。……いい機会だしな」

『おお! 了解ッス。いよいよ自分の真の力が……ムフフ。とりあえず、昨日の納品で一段落してるんで、今日は残務整理の予定スね。あとは、ユーザーさんからの連絡の対応と、あとは……不具合報告とか、来ないとおもうスけど、まあ身構えておくって感じで』


 莱夏は手塩てしおにかけて育てた後輩だけあって、対応には安心感がある。

 それからニ、三の確認をして美星は電話を切った。

 そして視線を感じてその元をたどると……お茶碗を盛ったまま辰乃が固まっていた。


「だ、旦那様……それは? あの、今何を!?」

「電話だけど。初めて見る? ……田舎いなかから出てきた子にしたって、スマホくらいは」

「線がないです、旦那様! あ、ひょっとして……す、すみません、不躾ぶしつけなことを聞きました! 旦那様がおっしゃるなら、それは電話です!」

「……そゆ気のつかかたはよしなさいって。ほら、これ。電話なんだよ、本当に」


 辰乃の優しさが、ちょっと痛かった。

 だが、特に怒るでもなく美星はスマートフォンを差し出す。

 まるで宝物を受け取るように、辰乃は両手でうやうやしく受け取った。


「こ、これが電話……ダイヤルも受話器もないです。……あ、わかりました!」

「そう、理解が早くて助かるよ。それで今日の予定なんだけど――」

「これが最近うわさになってる、あのというものなんですね!」

「……そうきたか」

「あ、あら? 旦那様……わたし、何か変なことを言いましたか?」


 小首をかしげる辰乃が妙にかわいくて、そしておかしくて。

 気付けば美星は口元に笑みを浮かべていた。

 笑ったことなど久しぶりで、その前はいつだったかもう覚えていない。


「あ、いや、ごめん。とりあえずまあ……辰乃もその電話、欲しいかい?」

「えっ? あ、でも、こちらの家にはてれほんかあどがありますし」

「それは俺の。あと、テレホンカードじゃなくてスマートフォン」

「すまーとほん……旦那様の?」

「そう。今は一人に一台電話を持つんだ。携帯電話って……で、これからどうするにしろ連絡取り合える方がいい。辰乃も俺をかいさず実家と話したいこともあるだろうし。それに、美味しいご飯のお礼だな」


 辰乃は大きな瞳をことさら大きく丸くした。

 次の瞬間……彼女はスマートフォンを抱きしめたまま笑顔になった。

 そして、異変が美星の前で思い出せる。


 確かに彼女は生えていた。


 今、生えてきた。


「旦那様っ! わたしもこのような、えと、すまーとほん? を頂戴ちょうだいできるんですか?」

「あー、うん。買ってあげる、けど」

「ありがとうございますっ! わたしが、電話を持つ……凄いですね、旦那様!」

「うん、よかった。で……それ、生えてるけど……辰乃。君、何者?」


 言われて辰乃は、ハッとした。


 そう、彼女には今、生えていた。


 裸の彼女を抱き締めた昨夜、美星が触れた硬くて立派なモノ。


 辰乃の頭に立派な、何の生物とも言えぬ不思議な一対のつのが生えていた。

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