第19話「太陽と月の夜」

 美星アースが帰宅すると、自宅は闇に包まれていた。

 温かな明かりがともる、辰乃タツノの待ってくれる我が家……そこは今、冷たい夜気の中で静まり返っている。


「辰乃? ……まあ、突然来たよめだしな」


 いつも通りの無感動な言葉が自然に出た。

 そうだと思ったのに、心が落ち着かない。

 唐突な押しかけ女房にょうぼうが、また唐突にいなくなる。

 そういう話は、主に打ち切りの漫画なんかでよく見るパターンだ。そして、帰ってみたら実はハッピーエンドという、とってつけたようなオチなのだ。

 そう自分に言い聞かせれば、不思議と早足になる。

 玄関の鍵は開いていた。

 そして、出迎えてくれる辰乃の姿はない。


「ただいま……辰乃? おいおい、まさか!」


 くつを脱ぎ捨て急いで家にあがる。

 辰乃がいなかった頃の、あの一人暮らしに戻ってしまったかのような家。明かりを点けて見回せども、探し求める少女の姿はない。

 台所には火を使った形跡がなく、夕食の準備もされていない。

 ちょっと所要しょようでという感じではなさそうだ。

 文字通り、辰乃が消えてしまった。


「……なんだよ、これ。ん、もしかしたら!」


 慌ててスマートフォンを取り出す手がもどかしい。

 神様かみさまのメールアドレスを引っ張り出し、むしろ手早くLINEをと思ったその時だった。

 ゴトリ、と音がした。

 寝室の方だ。

 振り向けば、ちょうどふすまがパタンと閉じる。

 美星は考える前に駆け寄った。


「辰乃か? そこにいるのか! なあ、辰乃!」


 自分でもびっくりする程大きな声が出た。

 辰乃を責めている訳ではない。むしろ、安堵あんどの気持ちを確定させたくて気がいたのだ。だが、ふすまに手をかけた瞬間、奥から泣き声が響く。


「美星、さん……」

「辰乃! どうした、何かあったか?」

「……ごめんなさい、美星さん」

「話が見えん、けど気にするな。いいか、開けるぞ?」


 そっと開いたふすまの向こうに、闇が広がっていた。

 窓からの月明かりすら入ってこない、暗黒。

 そして……不意にその中に巨大な太陽が現れた。

 何かと思ったが、それは大きな大きなひとみだ。

 青みがかった深いみどりは、辰乃の優しい色である。


「辰乃、なのか……?」

「お、おかえりなさい、美星さん……ごめんなさい、あの」

「い、いや、いい。どした? 部屋に入るぞ――!?」


 部屋一杯に何かが詰まっている。

 それは、入口に目をまたたかせる辰乃の身体だった。廊下の光を拾ってうろこを波立たせる、巨大なりゅうが寝室に詰め込まれていた。


「美星さん、わたし」

「きっ、気にするなって、辰乃。なあ……どした? 調子、悪いのか?」

「……あの、わたし……今日」


 ――百華モモカさんに、会いました。


 瞬間、美星の心臓が跳ね上がる。

 鼓動が不穏に高鳴る、その音が耳の奥に反響する。

 その名をずっと、心に刺さりっぱなしにしていた。

 そして、それに一番触れて欲しくない少女が、告げる。

 背を向け逃げてきた存在が、真正面から美星の今を揺さぶっていた。


「商店街で、神様と一緒に……百華さんと、お、お酒を」

「あ、ああ。うん、そうか」

「お天道さまが高いうちから、それで、あの」

「いや、辰乃は1500歳だからな。未成年に見えるけど、大丈夫だ。それに、毎日家事を頑張ってるんだからそれくらい、いい。息抜きにもなるし、それに、あれだ、うん」


 不思議と多弁になる。

 何かを辰乃に語りかけて無いと、不安になる。

 そして、目の前の大きな瞳はじっと美星を見詰めてきた。

 言い訳がましい言葉しか浮かばない。

 何から説明したらいいのか、辰乃はどこまで知っているのか。

 どうすれば、自分は一番救われるのだろうか?

 泣いてる妻を前に、自分勝手なことが脳裏を掠めた。

 だが、許しを乞うように辰乃の涙声なみだごえが続く。


「それで……その、焼き鳥屋さんで」

「ああ、やまがみ? あそこ、いいよな。真司シンジは元気だったか? って、そうじゃなくて、ええと」

「暑くて、身体が熱くて……それが、嫉妬しっとだって神様が」

「嫉妬! ……それは、その、百華に」

「はい……それで、全身が火照ほてって、胸の奥がチリチリして……思わず」

「思わず!」

「脱いで、しまって」

「脱いで!」

「……百華さんに、逆鱗げきりんに……れられて、そこからもう」


 目の前の瞳が、じんわりとうるんだ。

 何を言っていいかわからない。

 ただ、辰乃に失望されたくないとしか思えなかった。

 それは同時に、自分を守りたいという考えをも連れてくる。

 勝手だ。

 酷い男だと美星は自分にうんざりした。

 そして、どうにか言葉を絞り出す。


「逆鱗に触ると、どうなる……?」

「気持ちが、感情が……制御、できなくなって」

「まさか、辰乃!」

「……誰にも見られて、ないと、思います。でも」


 辰乃は店を出るなり、自分の輪郭りんかくほどけていくのを感じたという。

 幸運にも、駆け込んだ路地ろじには誰もいなくて……そこで、本来の姿に戻る中で空へ逃げたのだ。そして今、寝室にパンパンに詰まって丸くなっている。

 龍の瞳はまるで宝石みたいで、美星が吸い込まれそうな程に大きい。


「さっきまで、人の姿に戻ってて……落ち着こう、落ち着こうって」

「あ、ああ」

「でも、美星さんが帰ってくる音が聴こえて、それで、また」

「……そっか」


 美星は少し安心した。

 辰乃はいなくなってはいなかった。

 そして、何かがあったなら……夫として妻を守り、なぐさめ、元気づけてやらなければいけない。それを自分が一番望んでいることが純粋に嬉しかった。


「なあ、辰乃……まず、百華のことだけどな」

「恋人だと」

「昔の話だ。……ただ、俺がまだ引きずってて、それでも……あいつ、さっぱりしてただろ? そういう女なんだよ」


 瞳がうなずく気配を見せてくれた。

 そして、美星は本心を吐露とろする。


「ごめんな、辰乃。もっと先に、ちゃんと、ずっと……話しておけばよかった」

「美星さんは悪くないです! ……わたし、嫉妬というものを、知りました……」

「誰でもそれくらい、あるっ! それに……お、俺は、嬉しい。ヤキモチ、焼いたか?」

「は、はい……百華さんはあんなにいい方なのに、わたしは、いやな気持ちが」

「あ、あいつのことは気にするな!」


 自分でまだ気になってる、そのことをまた隠してしまった。

 突然のことがありすぎて、何から言っていいかわからず混乱する。その中でも、自分の奥へ奥へと逃げそうな本音を引きずり出す。


「俺はさ、辰乃……怖かったよ。帰ったら家が真っ暗で、辰乃がいなくて……嫌だった」

「美星、さん?」

「辰乃が突然いなくなって、それにも平気な顔でいられる気がして、嫌だった。でも、そうじゃなかった……俺は、辰乃がいない毎日にもう、いたくない」


 辰乃の涙腺るいせんが決壊した。

 廊下にバシャリと涙があふれて水浸みずびたしになる。

 美星はスーツがれたが、構わずそっと手を伸べた。大きな大きなまぶたは硬くて、そして温かかった。そっと触れて、でてやる。


「辰乃が嫌な女でも、でっかいドラゴンでも……俺は嫌いにならないからな。俺、自分で思ってたよりずっと……お前のこと、好きだった。今、もっと好きになった」

「美星さん……でも、百華さんは」

「あいつな、ひどい女なんだよ! あいつこそ嫌な女でさ。はは……」

「そんな……思ってもないこと、言わないでください。美星さん、らしく、ないです」

「……すまん。でもな、辰乃。あいつは過去で、お前は今だ。そして、未来であってほしいんだよ。ずっと」


 そっとふすまが閉じた。

 そして、中でガタゴトと音がする。

 しばらくの沈黙のあと、おずおずと裸の辰乃が部屋から出てきた。人間の姿をした、小さな小さな美星の奥さんだ。

 彼女はバツが悪そうに俯きつつ、両手で胸と股間を隠す。

 そんな彼女の頭をポンと撫でると、美星も安心に自然と溜息が出た。


「辰乃、つの尻尾しっぽも出していいぞ。ここは、お前の家で、今は俺と二人だろ?」

「は、はい。……ごめんなさい、美星さん」

「謝るのは俺の方だ、辰乃。とりあえず……腹、減ったな。辰乃は?」

「わ、わたしは」


 その時、キュゥゥゥ! と彼女のお腹が鳴った。

 それで辰乃は恥ずかしさで真っ赤になる。そして、ボンッ! と角と尻尾が現れた。

 龍神の少女は、その金色こんじきの角がぼんやりと光っている。己を抱くように身を縮める彼女は、ひたひたと濡れた廊下を落ち着きなく尻尾で叩いていた。

 だが、そんな彼女の裸体を抱き寄せ、胸の中に抱き締める。


「俺は、百華を忘れる。もう、本当にお別れする。だから……辰乃、これからも」

「美星さん……あ、あの」

「腹、減ってるよな? 今日は、外で食うか」


 見上げる辰乃の泣き顔が、小さく頷いた。

 この時、はっきりと美星は自覚した。

 自分がアースの名の通りに地球なら……彼女はそれを照らしてくれる碧色みどりいろの太陽なのだ。あの巨大な龍の瞳が、本当に星々の中心たる太陽に思えた。

 だから、今は月を遠ざける……百華のことを忘れようとする。

 だが、まばゆい太陽が浮き上がらせる月影つきかげは、どんどん心の奥底へと昇り始める。

 真昼でさえ白くぼんやりと、百華という月はまだ、美星の中に居座り続けていた。

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