第23話「愛しているから、こそ」
雨が降り出す前に、
もはや誕生日のお祝いどころではない。
だが、まだ
「美星さんっ! おかえりなさいませ、あのっ!」
「ん、どした? ……その格好、どうしちゃったんだ」
「あ、いえ、これは!
「まあ、嬉しいかもな」
「あ、ありがとうございます。でも、そうじゃなくて!」
言葉を選ぶことすらもどかしい。
だが、ヘルメットを脱ぐ美星は、いつものぼんやりとした真顔でそんな辰乃の頭をポンポンと
辰乃は少し自分を落ち着かせると、ゆっくりと喋り始めた。
「美星さん、先程
「……そっか。んで?」
「今から飛行機に乗って、ウィーンに行くそうです。それで、美星さんに会いに来たって」
「うん。まあ……夢が
美星は驚く程に落ち着いていた。
冷静を演じているとさえ思えた。
それがわかるくらいには、辰乃は美星との
「それで、飛行機の時間があるからって……ついさっき、行っちゃいました」
「そうか。うん、まあしょうがないな。辰乃、これお
「いいんですか? 美星さん……百華さんと会わなくて」
「まあ、もう終わったことだからな」
「終わってなんかいませんっ! 二人の中で、両方共……終わってなんか、いないんです」
びっくりするくらい大きな声が出た。
受け取った醤油のボトルを、両手でギュムと握り締めてしまう。
「わたし、嫌な女です……でも、それでも! 美星さんに、百華さんとのこと……決着をつけて欲しいんです。それでもし、元の
「辰乃、それはないな。俺さ……辰乃が
「でも、だからこそ……最後のチャンスになるかもしれないから」
「俺の気持ちはとっくに整理がついてるからさ」
嘘だ。
全てが嘘ではなくても、
確かに心の整理は終わっているのかもしれない。
だが、そうして片付け封印することは苦しい
自分の趣味を客間に押し込み、アニメやゲームを封印した以前の美星と同じである。本当の気持ち、本気と本音とを押し殺すのは、それはとても辛いことだ。
神の
自分で欲して望んだことの価値、
それを自ら封じるのは、血を吐くような苦しみの連続だと思う。
もし、今の辰乃が美星を奪われたら……
でも、その未来が可能性として広がる瞬間へ、美星を押し出したい。
「嘘、です……美星さん、今も苦しんでます!」
「……あんましさ、辰乃。知ったようなこと言うなよな。ちょっと変だぞ、お前」
「知らないです、美星さんと百華さんのこと! でも、わかるんです……感じるんです」
グローブを脱いだ美星の手が、そっと優しく頬に触れてきた。
その指が拭ってくれて、初めて辰乃は泣いていることに気付く。
自然と
「辰乃、その……怖いけど、聞くぞ? 煮え切らないまま、時間に解決を任せて……その、ちょっと逃げてる俺は……嫌いか?」
「そんなことないです! どんな美星さんでも、わたし……好きなんです。愛して、しまったんです」
醤油のボトルを胸に抱き締め、止まらぬ涙をゴシゴシと手の甲で
だが、心が決壊して溢れ出た想いが、言葉に勝手に変換されてゆく。
「でも、美星さんに、もっと……楽になって、ほしくて。重荷を、下ろしてほしくて」
「辰乃……お前」
「わたし、美星さんと一緒になれて嬉しいです。でも、百華さんとのことを知って、
美星を見上げて、一生懸命に辰乃は言の葉を
星をも消し飛ばす龍神の辰乃が、一人の男に全ての力を振り絞る。
「だから、美星さん……百華さんに会って、ちゃんと気持ちを伝えてください。その結果がどうなっても、わたしは美星さんを祝福します。そして……晴れやかな気持ちで、またわたしを選んでもらえたなら」
美星はバリボリと頭をかいて、バツが悪そうに目を
だが、彼の気持ちはちゃんと辰乃に向けられている。
真っ直ぐにぶつける辰乃の想いが、真っ直ぐに跳ね返ってくる。
「……俺はさ、辰乃。
美星の
「今は、自分なりにやりたいこと……守りたいものが見つかった気がした。それは、突然の押しかけ女房で、世間知らずで浮世離れしてて……でも、大切にしたいと思ったよ」
「美星さん……」
「ありがとな、辰乃。気持ちの整理が本当についてるなら、それを見せる必要があるみたいだ。百華に……なにより、辰乃に」
「は、はいっ! わたし、美星さんをいつも応援してます! どうか、どうか心のままに」
「だな」
そして、突然のことに辰乃は驚く。
美星はいきなり、辰乃を抱き締めてきた。
力強い
思わず醤油を落としてしまったが、辰乃も一生懸命に美星を抱き返した。美星の体温と匂いを、全身で受け止め自分の中に圧縮してゆく。
最愛の旦那様を、身体の全てで感じて受け止める。
例えこれが最後の抱擁になっても構わない。
美星が自分で未来を選ぶために、過去に決着を付けて欲しい。
どんな結末でも、それを選んでほしいのだ。
「よし、じゃあ」
「は、はいっ! いってらっしゃいませ、美星さん」
「ん。ちょっとひとっ走り、だな……必ず帰ってくる。お前のところに戻ってくるよ、辰乃」
それだけ言うと、美星は
再びバイクに
辰乃は、精一杯の笑顔を作ろうとした。
だが、泣き笑いでぐしゃぐしゃな顔を向けるしかできない。それでも、エンジン音を再び響かせる美星をしっかり見守った。
「んじゃ、行ってくる。それとな、辰乃」
「は、はいっ!」
「コスプレ、かわいいぞ。ひょっとして……俺、今日は誕生日か?」
「そ、そうですっ! ケーキも買ってあるんです。わたし、つい先日気付いて」
「そっか。夕飯までには戻る、と、思う」
そうして美星は、再び愛車ドゥカティに乗って走り去った。
通りまで出て、その背を見送る辰乃。
今、美星は自分で選んだ。
美星の旅立ちを前に、試練のように空は
雲が低く垂れ込める中、遠雷がゴロゴロと近付いていた。
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