第22話「選び抜くことがまだ、未選択」

 辰乃タツノは驚きで固まった。

 全身も思考も、硬直してしまった。

 自分が抱きついたのは、最愛の夫ではなかった。

 そればかりか、かつておっとが愛した女性だったのだ。


「あー、えっと、たつのん? そだ、この間は大丈夫だった? 具合悪くなっちゃった?」


 さしておどろいた様子もなく、百華モモカは辰乃を見下ろしている。

 そして、彼女は不意にプッ! と笑い出した。


「ちょっと、たつのん! 何? その格好。今日、何かのお祭り? コスプレ?」

「はわわ、こ、こっ、これは……え? 百華さん、今日が何の日か御存知ないんですか?」

「んー、なんだっけ? それよりさ、美星アースいる?」


 意外だった。

 辰乃は正直、驚いた。

 現代の若者の間では、恋人同士の誕生日というのは重要な記念日ではないのだろうか? だが、今まで辰乃が見守り、物理的にも守ってきた人間達は違ったはずだ。

 特に、未来を共にしようとする男女には特別な日だった。

 百華は、ぽかんとしてしまった辰乃を優しく引きがす。


「アタシさ、今日これから出発するから……一応、ね。たつのんのためにも、やり残したことを片付けようと思って」

「わたしのため、ですか?」

「そ! ……あれ? 美星、出かけてるのかあ。あちゃ」


 玄関を見ただけで、百華は美星の外出を察したようだ。

 魔法少女まほうしょうじょラジカル☆はるかのコスプレ衣装のまま、辰乃はおずおずとたずねる。よく見れば百華は、服装こそ革ジャンにジーンズと以前通りだが……抱えたバイオリンケースとは別に、大きなトランクケースを置いていた。通りにはタクシーがウィンカーを点灯てんとうさせている。

 そして、辰乃は記憶を掘り出す。

 確かに以前、千鞠チマリは言っていた。

 百華は音楽の都ウィーンへ行くのだと。

 先日の豊かなバイオリンの旋律をも思い出す。


「も、もしかして百華さん……バイオリンをウィーンで?」

「うん。アタシ、貯金も溜まったし、ドイツ語とかの勉強も終わったからさ。ちょっと行ってくる!」

「まあ……おめでとうございますっ! 百華さんのバイオリンなら、きっとウィーンの方々にも通用しますわ。素敵ですっ!」

「まーね! ……なんて言っても、ちょっと正直ブルってるんだけどさ。だから、美星に会いに来た。けど、いないかあ……しゃーないな」


 百華は背後のトランクに手を伸ばす。

 このまま去るのかと思って、咄嗟とっさに辰乃は引き止めてしまった。

 そして、心の中で後悔する。

 このまま百華がいなくなれば、美星の中で彼女は風化して消えるのでは?

 だが、答はいなだ。

 きっと、このまま去られては美星は救われない。辰乃も、百華には勝てないままずっと過ごすのだ。そう、勝ちたい……美星の中から彼女を追い出し、自分だけの愛で満たしたい。

 そんなことを考える自分が恥ずかしく、それも構わないとも思えた。

 百華は素晴らしい人間で、女性としても美しく活力に満ちあふれている。快活で闊達かったつ、何より気持ちのいいさっぱりとした好人物だ。そんな彼女の面影おもかげを、美星の中で綺麗な化石になど、させない。琥珀こはくに浮かぶちょうのようになど、させたくない。


「待って下さい、百華さんっ! 美星さんが戻ってくるまで、待っていただけないでしょうか」

「ん、でも……飛行機の時間が」

「少し、ほんのすこしでいいんです!」

「はは、いいよ。ちょっと待ってて。タクシー代、精算してくる」


 百華は一度、通りで待つタクシーに戻っていった。

 急いで辰乃は家の中へ取って返す。

 お湯をかしてお茶の準備をし、来客用にと取ってあった茶菓子を出した。着替えるのも忘れて、魔法少女の衣装をヒラヒラさせながら居間へと茶道具を運ぶ。

 百華は「おっじゃまー!」と、まるで我が家のような気軽さで入ってきた。


「おー、変わってないなあ。この家、古いけどいいよねえ。アタシ、好きだったなあ」

「あ、あのっ! どうぞ、座って下さい。今、お茶をお出ししますっ!」

「サンキュ、たつのん。で……美星とはどう? 上手くいってる? あいつさ……まだアレを隠してんの?」

「アレ、とは」

「その、オタク趣味っての? アニメとかゲームとか。……でも、たつのんのその格好を見ると、違うみたい。よかったよ」


 へらりと百華は笑う。

 辰乃は驚き、急須きゅうすを持つ手を止めてしまった。

 百華と恋人だった頃、美星は自分の趣味を隠していたと聞いている。千鞠が先日驚いていたので、隠し通せていたと思っていた。

 だが、真実は違った。

 

 美星がいわゆる、オタクと呼ばれる人種だったことを。


「そ、それで……それで美星さんとの仲を解消したんですねっ! わたし、千鞠さんから少し聞きました。ああした趣味の殿方は嫌われると。でも、でもっ!」

「ちょい待ち、んとね……アタシ、付き合い始めてすぐ気付いたよ。でも、それからもしばらく付き合ってたし、うん……ずっと一緒だった」

「えっ? じゃあ、どうして」


 あぐらをかいて座る百華は、考え込む仕草で視線を上を向く。

 そして、真っ直ぐ辰乃を見詰みつめてきた。

 その瞳に迷いは感じられず、綺麗にんだ光が満ちている。


「たつのんさ、合コンってあるじゃん?」

「ごうこん? ごうこん、ごうこん……?」

「ありゃ、知らないの?」

「し、しっ、知ってます! ……もしや、合婚ごうこん? 合体結婚!? もしくは、合同結婚式!?」

「何それ、面白い。ふふ、ほんとにアンタ、面白ね」

「まさか百華さん、美星さんの正妻せいさいの座を? それとも、わたしが正妻で百華さんが側室そくしつということでしょうか。それは、ちょっと、嫌です……でも、百華さんなら」

「おーい、たつのん?」


 思わず暴走しかけた辰乃の頭に、百華はポスンとチョップした。

 そして、そのまま腕組み語り出す。


「合コンってのはね、複数の男女で宴会えんかいすんの。で、気に入った異性がいたら、お付き合いしたり、まあ……一夜いちやを共にしたり? そういう感じの、言ってみればお遊びかな」

破廉恥ハレンチです! 男女の交際にあるまじき不純さ、不真面目さ!」

「まあまあ、たつのん。でね……合コンだと、もう男達も頑張っちゃうのね。自分をよく見せようとする。嫌われないよう、好かれるように頑張るの。それ、さ……結構ダサいとか見苦しいとか言う人もいるけど、アタシは好き」


 視線を外した百華が庭をながめる。

 どこか遠くを見るような目の向く先を、辰乃も黙って見詰めた。

 やはり、遠くから黒い雷雲らいうんが雨と共に近付いていた。


「美星はさ、アタシにれてくれた。アタシも、好きだったよ? で、さ……アイツ、アタシに嫌われないようにって、オタクなとこ隠してた。オタク、やめちゃったんだよね、あれ。そういうのさ……そう頑張れちゃうの、アタシ嫌いじゃないんだ」

「……美星さんは時々、頑張り方が変だから」

「そう! そうなの。でも、さ……美星と一緒で本当に楽しかった。けど、アタシが一番好きなのは、やっぱりバイオリンなの。アタシのために、好きなことを捨ててくれた美星とは、一緒にいられなくなっちゃった。アタシは何よりも真っ先に、バイオリンを取るから。バイオリンだけがいいから」


 辰乃はその時、百華がさびしそうに笑うのを見た。

 そして、その物憂ものうげな表情が美しいと思った。

 だが、美星の今の妻は自分で、百華は元カノとか言うらしい。つまり、前妻ぜんさいだ。そして、彼女は美星よりもバイオリンに生きる道を選んだのである。

 しかし、その事自体が辰乃はせなかった。


「あの! 美星さんとお付き合いしながら、バイオリンは続けられないんですか?」

「んー? 何? たつのん、アタシと美星がよりを戻した方がいい?」

「そっ、そそ、そんなことないです!」

「またまたー、アタシはじゃあ二号さんでいいけどー?」

「駄目ですっ! ……嫌、です。でも、お話を聞いてたら、少し」


 変なコスプレ衣装のままの辰乃は、頭を百華に撫でられた。

 何だか子供扱いされてる気がしたが、辰乃の人間としての肉体は十代の少女なのだ。残念ながら、大人の魅力に満ちた百華とは違い過ぎる。


「バイオリンをやりながら、美星と暮らす……これからも美星と生きてく。いいね……最高だと思う。でも、アタシにはできない。別に、求道者きゅうどうしゃを気取ってる訳じゃないんだ。ただ、アタシはバイオリンが世界の中心じゃないと駄目なの。その周囲に美星はいて欲しい、アタシの周りを回っててほしい……けど、駄目」

「ど、どうしてですか?」

「美星は、そのためにさらなる我慢をして、次はバイクもやめちゃうかもしれない。知ってる? たつのん。アタシみたいな無名のバイオリニストってさ……すんごーい! 貧乏なの! 仕事がないの! 収入もないの」


 そう言えば、初めて出会った時……百華は商店街の路上で大道芸のようにバイオリンをいていた。とても綺麗な音色は、今の耳の奥で歌っている。


「美星はさ、アタシに惚れてるから頑張ってくれそうだけど……そういうの、後ろめたいからアタシの音をにごらせる。アタシの決意をにぶらせるんだ」

「……それは、わかります。だって美星さん、いつもわたしのために」

「でしょ? でも、今のたつのんを見たらわかったよ。たつのんは、美星のキモオタなとこも受け入れてる、美星も自分を見せられてるんだね。その格好見たら、すっごいわかった!」


 改めて辰乃は、自分の姿を思い出して赤面にうつむいた。

 だが、百華は笑ってたたみの上に立ち上がる。


「今日はさ、だから……精算しに来たんだ。こんな自分勝手で傲慢ごうまんなアタシが、勝手にいなくなったのに……まだ美星は、好きだと思ってくれてる。そーれがわかっちゃうんだなあ。だから……。お別れを言いに来たの」

「そう、だったんですか」

「でも、タイムアップかな? 飛行機の時間、間に合わなくなっちゃう」


 彼女は手首の腕時計に目を落として、また寂しげな笑みを浮かべる。


「アタシさ、バイオリン仲間のツテもあってウィーン行きが決まった時……そのまま美星に言ったんだ。ウィーンに行くって。あいつ……引き止めなくてさ。それっきり。お別れもしなかったし、嫌われてもやれなかった。中途半端にしちゃったの、アタシだから」

「美星さんは、夢を追いかけてる人を引き止めるなんてしないです。それが好きな人なら、尚更……だから、辛くて、苦しくて……でも、いつもぼんやりしてて」

「そうそう、平気な顔しててさ。かわいくないんだ、アイツ。アタシも……かわいい彼女じゃなかったなあ」


 辰乃には、引き止めることができなかった。

 百華は今日、日本からウィーンに行ってしまう。自分を我儘わがままな悪い女のまま、それでも好いてくれてる美星の中に思い出を残して。宙ぶらりんなままで去ってしまうのだ。

 辰乃はただ、祈った。

 この瞬間にも、美星が帰ってきてくれることを。

 どんな形であれ、二人の間に行き交う言葉が欲しかった。

 それで二人が復縁して、自分の居場所がなくなっても……狂おしい程の切なさから解放されるなら、それでもいいと思った。人の心は今、龍神りゅうじんの精神力でも制御できない熱を発しているのだった。

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