第9話「新婚の朝のはじまり」

 長いようで短い有給休暇は、波乱の夜で幕を閉じた。

 リトライの初夜で、再び荒谷美星アラヤアースは驚きに触れる。

 やはり、うちの嫁には生えてます……

 そのことを思い出して、驚いた自分の方が美星には驚きだった。


「まあ、その、なんだ……辰乃タツノといるときないな」


 ぼそりとつぶやき、出社直後の社内を自分のデスクへと向かう。

 いそがしい朝だが、直属の上司に無理を言って社長と会ってきた。二人の前で結婚の報告をし、総務の方にも妻をめとったことを申請したのだ。社会に出るとこうした手続きは必ず必要で、おめでとうと言われる度に不思議な実感が胸に満ちてゆく。

 勿論もちろん、神様にもメールして辰乃の戸籍こせき等の用意をお願いした。

 公文書偽造こうぶんしょぎぞうという罪があるが、神様に言わせれば『元からあったこととして過去から現在までを修正するだけ』らしい。つまり捏造ねつぞうではなく再構築だとか、難しい長文メールが数分で返ってきた。

 やはり神様だけにだ。

 そうして自分の部署に戻ると、いつものように元気な笑顔が迎えてくれた。


「あっ、アース先輩! おはよーございまする!」

「おう、莱夏ライカ。おはようございます」

「昨日は特に緊急の案件はなかったッス。納品後だし、うちのチームは半分くらい有給取ってましたね。ユーザー側からも特に連絡やクレームはナシでっす」

「サンキュな、莱夏。今度、安くて美味うまいもんをおごってやろう」

「デシシ! やったぜ!」


 会社の後輩、響莱夏ヒビキライカは大型犬みたいな笑顔を向けてくる。

 気のいい奴で、トラブルメーカーにしてムードメーカー、何より頑張り屋で頼れる部下である。つい先日まで過酷な労働環境の中にいた美星達だが、彼女の空元気からげんきはいつも皆を励ました。時々イラッとするが、おおむねありがたかった。

 少年みたいなベリーショートの頭をバリボリかきつつ、彼女は笑う。


「で、先輩っ! 社長達と何を話してたんスか? ま、まさか……他社に移籍とか?」

「ばーか、俺が抜けたらここがブラックなだけの会社になっちまう」

「激しく同意ッスー、先輩はブラックコーヒーに一滴いってき落としたミルクのような存在ッス。残業代も手当も出るとはいえ、徹夜と終電のコンボはきついッスー」


 毎回という訳ではないが、修羅場は確かに存在する。

 だが、そうまでして納期とクオリティを守るからこそ、社会で信頼され上司からも信用してもらえるのだ。それに、一応主任という立場から、美星も最大限の便宜べんぎで仕事と部下とを守る。

 そういう時に感情の揺れ幅がない自分は便利だった。


「なんてことはない話だ。結婚の報告とかだ」

「なるほどー! ……は? 結婚!? 結婚って」

「異性と婚姻こんいん関係を結んだという意味だ」

「そりゃそうスよ、知ってるッス! 同性と結婚したらセンセーショナルじゃないですかー! 先輩が結婚……自分という女がありながらー!」

「わざとらしい小芝居こしばいはやめなさいって」


 わざとしなを作ってなよなよと莱夏が崩れ落ちる。

 だが、すぐに立ち上がった彼女の笑顔は輝きを増していた。


「なにはともあれ、おめでとうございまっする! いやあ、めでたい!」

「ま、喧伝する必要はないがお前には伝えておく。ありがとな」

「はぁ、先輩が大人の階段を登ってしまった……自分の分まで幸せになって欲しいッス」

「や、断る。お前はお前で幸せになれ」

「うぃス! りょーかい!」


 敬礼の仕草で身を正しつつ、莱夏はやっぱり笑ってくれる。

 この笑顔が美星は嫌いじゃない。

 だから、唐突に予想外な言葉が襲ってくると、ギャップが会話の切れ味を鋭くした。


「あの人と一緒になったんスよね? 以前ちょっと見た、あの美人さんの」

「……いや、違う。あいつじゃない……百華モモカじゃないんだ」

「そうそう、百華さん! って、ありゃ? 恋人さんとゴールインじゃ」

「ん、まあ色々とあってな」


 ――その女の名は、百華。

 生涯忘れないであろう、最初の恋人で最後の失恋そのものである。

 最後だと言い切れるのは、辰乃が一緒にいてくれるだからだ。

 だが、最後の瞬間は終わり切らずに続いている。

 美星の心を圧縮しながら、永遠に続くかもしれないのだ。

 そのことを思い出したくなくて、美星はすぐに話題を変える。


「ところで、莱夏。お前……生えてるか?」

「は? ええと、生えてるかというと」

「股間に」

「ああ、そゆ意味ッスか! 朝からド直球な内角低めのセクハラ発言! ……ちょっと濃い目スかね。あと、最近手入れをサボってるッス」


 律儀に答えんでもいいと思ったし、アンダーヘアの話ではない。

 だが、臆面なくこういう会話が成立し、互いに不快と思わぬ深い仲だった。


「どうしたスか、先輩……あ、奥さんに生えてないとか!? むしろ、そういう趣味の為に百華さんじゃなくて違う人を」

「いいから奴の名は出すんじゃない、それと……生えてた。凄いのが」

「……え、あ、おう。今度は惚気のろけッスね!」


 そこで始業のチャイムが鳴ったので、とりあえず莱夏は座って仕事を始める。

 美星もその隣の机で、メールのチェックに取り掛かった。デスク上には部下達の連絡事項がメモ用紙を連ねている。それにも目を通しつつ、パソコンの画面を向きながらも莱夏との会話が続いた。

 どうにかんだ記憶からは遠ざかれそうだ。


「デリケートな話スから、自分以外にそーゆーこと言わない方がいいッス。残念な子って思われますよ? 自分以外に先輩をそう思う人がいたら、いやッス」

「お前に残念がられても、それはそれで困るけどな」

「はあ、しかし結婚……いいスねえ。どんな人ですー?」

「えっと、まず人じゃない」

「おっと、いきなりの上級者発言!」

「小さくて、凄い年上で、見た目は十代。スタイルはいいけど、思考がレトロな感じだな。優しい子だ」

「何それしゅごい……それなんてエロゲ? エロゲ案件ッスよ!」

「俺もそう思う」

「そして、凄いのが生えてる……ちょっと性癖こじらせ過ぎじゃないですかー、先輩」

「言っとくが俺が選んだわけじゃない。……ま、満足度はそれなりだが」


 美星は自然と昨夜のことを思い出す。

 くちびるを重ねた時から、辰乃は立派なつのを頭上に広げていた。

 嬉しいと出てしまうらしいから、喜んでいたのだ。

 その期待に答えられなかったのは、思い出しても申し訳ない。

 そして、辰乃の股間の感触だけは忘れられない。

 昨夜はあのあと、少し彼女と話した。基本的に神様のたぐいには性別がないことや、それでも嫁入りしたくて女性の肉体を選んだこと、人間の姿でいることはそれなりに緊張すること……そしてやっぱり、嬉しくなるとアレコレ生えてしまうこと。


「ま、気にしても始まらん。そういうもんだと思っておくか」

「そそ、ポジティブシンキングが大事! 先輩、得意じゃないスか……開き直るの」

「まあな。莱夏ですら生えてそうで生えてないから、ちょっと驚いただけだ」

「自分だって大人ッスよ、エロティカルな亜熱帯のジャングルなんスよ!」

「声がでかい。まあ……お前に生えてたら千切れんばかりに振ってそうだけどな。お前、いつも楽しそうだし」

「ん? 何スかそれ」


 そこで電話が鳴って、莱夏はすぐに受話器を手に取る。

 仕事モードになると、彼女は声だけキャリアウーマンへと変貌へんぼうするのだ。

 そんな後輩の横顔を眺めながら、美星もまた本格的に仕事へ手をつけ始める。


「ま、生えてても構わないけどな……


 辰乃とは昨夜、約束をした。

 家で二人きりの時は、角も尻尾も出してていい、リラックスしてて欲しいと。

 つやめくうろこで飾られた辰乃の尻尾は、それはもう長くてしなやか、立派なものだった。

 そんなことを思い出していると、完璧な電話対応でついつい頭を下げつつ……莱夏がメモを回してくる。走り書きの字を見て、美星は片眉かたまゆを跳ね上げた。


「……は? 今夜、俺ん家に行くって……安くて美味いもの、焼き鳥? ああ、やまがみに前に連れてったか。今日か……ふむ」


 断る理由がさしてなかったので、あとで辰乃に電話しようと心に止めておく。

 少し悪いが、莱夏の前では人間の幼妻おさなづまでいてもらうことになるだろう。

 そんなことを思い出していると、また心の奥にこびりついた女の幻影が笑う気がした。

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