第17話「龍は歌い、人は奏でる」

 辰乃タツノは朝からずっと、ごきげんだった。

 もう二月も末、春間近である。そして、年度末というのがあって、美星アースはこれからまた少し忙しいらしい。だから、その分二月中は必ず定時で帰ってくるというのだ。

 あれから、辰乃と美星の暮らしに進展はない。

 同衾どうきんすれども交われず、夫婦めおとの一線を超えられない夜が続いていた。

 だが、申し訳なく想いながらも辰乃は幸せだった。


「でも、というのは大変なお仕事なんですね……何か精のつくものを美星さんに食べさせてあげましょう!」


 旦那様の美星はSE、つまりシステムエンジニアである。

 その身を支える妻として、家を守る辰乃もついついりきんでしまうのだ。

 駅前の商店街を歩く辰乃は、今日も張り切っていた。昼下がりの午後、自然と歌が口をついて出る。たゆたう声を連れて歩けば、誰もが辰乃の美貌を振り返った。

 だが、気にせず歌声を弾ませ、彼女は今にも舞い上がりそうな勢いだ。


「それにしても、というのは凄いんです。昨日のも、とっても素敵……流石さすがはわたしの旦那様、美星さんの集めた財宝です!」


 昨夜も、夕食のあとに二人でアニメを見た。

 美星と並んで見る物語は、大空の彼方に城が浮かんでいるというものだった。宿命の少女は、運命の少年と共に天空の城へと旅をする。

 とても素敵な物語だった。

 辰乃は拳を握って身を乗り出し、恐ろしさに震えて美星に抱き付いたりした。まるで目の前で本当に人間が生きてるかのようで、絵とは思えぬ迫力だった。


「でも、不思議ですね……悪徳の国ラピュタは昔、わたしがきっちり痕跡こんせきすら残さず滅ぼしたはずなんですけど。天照アマテラスさんといい、どうして偉い人はお城を飛ばしたがるんでしょうか」


 人間が知らぬ歴史の影を思い出し、辰乃は腕組み首をひねる。

 まるで当時を見てきたかのように、昨日のアニメでは描写されていた。

 だが、辰乃が神様の頼みで天罰をくだした真実よりも、何倍もドラマチックだったのも確かである。

 自然と昨日のアニメの歌が思い出され、今度はそれを口ずさむ。

 再び軽やかに歩き出した、その時だった。


「ねえ、アンタさ……いい声ね。いいよ! とても綺麗な歌声」


 ふと、呼び止められた。

 振り返るとそこには、背の高い女性が立っていた。

 年の頃は、美星と同じくらいか、少し若くて二十代半ばか。

 だが、はじけるような笑顔はまるで少年のようだ。伸ばしに伸ばした蓬髪ほうはつを、ざっくばらんに頭の上で縛っている。武家の女剣士といった風体だが、革ジャンにジーンズだ。

 そして、手には何か楽器の入ったケースを持っている。


「あ、や……き、聴かれてたなんて! 恥ずかしいです」

「ん、いいじゃん? ね、もっと歌って。その歌、アタシも知ってるから」


 そう言って彼女は、手にしたケースを地面においた。

 石畳いしだたみの上で、中から出てきたのは……バイオリンだ。

 それを構えて弓を当てると、そっと静かに空気がふるえる。

 流れる調しらべは和音をつらねて、まるで楽器自身が歌っているようだった。


「まあ、この曲は」

「さっきのさ、何かの映画の歌だよね。ほら、ボサッとしてないで歌って!」

「へ? は、はいっ!」


 言われるままにおずおずと辰乃が歌う。

 瞬間、バイオリンの音色が調和をかなでた。

 歌と音とが呼び合い結ばれ、そして商店街の寒さが消えてゆく。

 誰もが脚を止める中、気付けば辰乃はバイオリンの女性と囲まれていた。


(こ、これは……恥ずかしい、です!)


 思わず声が上ずる。

 調子がずれて音程を飛び越す。

 だが、視線で羞恥しゅうちを訴えても、隣の女性は笑うだけだった。

 悪戯心いたずらごころを忍ばせた子供のような笑顔だった。

 そして、周囲の買い物客はどんどん増えてゆく。

 人だかりの中で、徐々に緊張が辰乃を強張こわばらせた、が――


「さ、もっと歌って……自由に、のびやかに。さっきみたいに」


 女性はそう言って、どんどんヴァイオリンの音色を豊かにしてゆく。げんつむぐ音楽が、辰乃の中から次々と歌詞を引き出していった。

 そうして、何とか二人は一曲を一緒に歌い終える。

 同時に拍手はくしゅが沸き立ち、瞬時に辰乃のほおを赤く染めた。

 見渡す限りの買い物客が、老若男女を問わず手を叩いている。皆が笑顔で頷き合い上がら、徐々に手拍子がアンコールを求めてリズムを刻んだ。

 どうしていいかわからず、辰乃は隣を見上げる。

 してやったり、という顔で女性は再びバイオリンを構えた。

 そして、周囲の盛り上がりの中から、聞き覚えのある声が響く。


「辰乃、見事じゃったぞ。ほれ、もっと歌わんかい」

「あ……神様かみさま! な、何やってるんですか?」

「なに、隠居暮いんきょぐらしじゃからな。そこの焼き鳥屋でこれからちょいと」

「もーっ、まだお昼ですよ? お天道てんとうさまの高いうちから」

「そのお天道さまを作ったのもワシ等じゃからのう。それより、ほれ! 次は何ぞ龍の歌でも歌ってやるのじゃ。お前は昔から歌が好きじゃったからのう」


 なんとそこには、神様がいた。

 この日本を担当していた、本当の神族……引退して今は、ただの老人として人の輪の中にいる。好々爺こうこうやそのものといった風体で、トレンチコートに帽子で紳士しんしを気取っていた。

 辰乃は顔から火が出そうだ。

 だが、周囲も期待の目で見詰めてくる。


「え、えと、では……古い古い歌、です。まだ人間達が国家や社会を築く前の物語」


 辰乃は咳払せきばらいをして、胸に手を当て歌い出す。

 龍は皆、歌が好きだ。

 嬉しい時も悲しい時も、神々に歌をほうじてなぐさめをうのだ。万能たる神は完全な存在、そして万物に平等ゆえに自らできることは限られる。故に、そうした神々の意思を体現する者として龍は産み出された。

 龍、それはこの宇宙で最強の高位生命体オーバーネイチャー

 星をも消し去り銀河を沸騰ふっとうさせる、その力。

 だから、かなしいのだ。

 完全無欠である故に、あらゆる生命が持つ限界を知らない。

 

 そのことを歌ったら、周囲がシンと静まり返った。そして……


「……いい歌だね、なら……こうかな? あ、そのまま! そのまま」


 隣の女性が再びバイオリンと一つになる。

 そして、より深く深く、奥底へと引き込むような音色が厚みを増した。

 辰乃の歌に即興アドリブで、あっという間に伴奏ばんそうが一体化する。

 どこか物悲しく、なげくように弦は歌った。

 その中に女性の技術と情熱が、小さな希望をともしてゆく。

 人間の言語ですらない辰乃の歌の、その本質を編み上げていくかのような演奏だ。不思議な感覚の中で、辰乃は気付けば頬に一筋の涙をこぼしていた。

 歌い終えて、一瞬の沈黙。

 そして、先程にもまして激しい大喝采だいかっさいが商店街を包んだ。


「すげえ……何? 何かの撮影? プロモーションか何か?」

「あの娘、どこからデビューすんのかな……ちょっと凄くない?」

「まあまあ、何かしら。とってもいい歌ね……外国の歌い手さんかしら」

「やっべ、動画! 今取った動画をUPしないと! 拡散、拡散だ!」


 大騒ぎになる中で、あわてて辰乃は我に返った。

 そして、涙を拭うや女性に頭を下げる。


「あ、あのっ! ありがとうございました! わたしっ、買い物がありますので!」


 だが、そうして顔をあげると……そこには、やっぱり悪ガキのような笑顔の女性が屈み込んでいた。今、彼女のバイオリンケースには沢山の小銭が投げ入れられている。

 それを集めつつ、締まらない顔でにたりと笑った……幼くあどけない、屈託くったくのない笑顔なのにどこか不遜ふそんで自信過剰な表情だ。

 魅力的な、しかしどこか奇妙な女性は辰乃を呼び止める。


「待って! ね、お礼させて。大繁盛だいはんじょうしちゃったし」

「そんな……わたし、そんなつもりじゃ」

「ゴメーン! アタシ、バッチリそんなつもりだった。一人でやってもいいけど、何かないかなーって歩いてたら……アンタの歌が聴こえたの。イタダキ! って思って」

「はわわ、そんな」


 ジャラジャラと小銭がぎっしりの巾着袋きんちゃくぶくろかかげて、ニシシと女性は笑った。

 入れ物まで用意してあるあたり、いわゆる確信犯であった。

 そして、大道芸の片棒を担がされたのに、辰乃は不思議と嫌な気分を感じなかった。あまりに無邪気な女性に、呆れつつも自然と笑みが浮かぶ。

 二人の話を聞いた神様が、その時ポンと手を打った。


「そうじゃ、辰乃。この方がお礼をと言うておるしのう……厚意を受けるのも、また厚意。好意もしかりじゃ」

「で、でも、神様」

「さあさ、お嬢さん! この老いぼれにも一杯奢らせてもらえんかね? そこにほれ、焼き鳥屋があるじゃろ? やまがみは馴染なじみの店じゃ、ワシだけは準備中でもフリーパスじゃからの、ホッホッホ」


 あっという間に神様は、バイオリンの女性と打ち解け意気投合してしまった。

 周囲が笑顔を連ねて解散の流れになる中……勝手に女性は辰乃の手を取り歩き出す。夕食の支度もあるし、そのための買い物もまだだ。

 だが、唯我独尊ゆいがどくそんで歩く女性の笑顔に逆らえない。

 そして、辰乃は運命の人の名を知る。


「行こうよ、えっと……アタシ、百華モモカ! 早瀬百華ハヤセモモカよ。アンタは?」

「あ、えっと」

「ま、とりあえず来てよ、これ決定。ほら、あのお爺さん行っちゃうし」

「待って、ください……百華? どこかで、その名を」


 結局、神様が振り向く先へと辰乃は引っ張られる。

 半ば拉致らちするような強引さだが、憎めない笑顔で百華が白い歯を零す。

 その人物が自分にとって、そして美星にとってどんな存在かを、これから辰乃は思い知ることになるのだった。

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