第2話「こうして彼女が嫁に来た」

 荒谷美星アラヤアースは疲れていた。

 二十代も最後の歳となると、無理がきいた若い頃とは違う。

 徹夜明けの連勤れんきんで身体は重いし、節々ふしぶしにぶく痛む。

 システムエンジニアというのは、独身男性としての実入りはいいが中々の重労働だった。

 そんな訳で、納品が終わって地獄のデスマーチから解放された。

 デスマーチとは、徹夜と終電しゅうでんの日々が続く過酷な勤務形態ブラックろうどうのことだ。

 最寄もより駅で降り、家まで徒歩15分……道中にはコンビニが一件だけ。

 だが、もはや遅めの夕食を作るのも買うのも酷く億劫おっくうだった。


「へい、いらっしゃ! ……お、アースじゃねえか!」


 美星が選んだ選択肢は、飲んで食って寝る、これだ。

 そんな訳で駅前商店街の一角、焼き鳥屋のやまがみへと入店した。出迎えてくれたのはこの店の二代目で、同い年の山上真司ヤマガミシンジだ。人懐ひとなつっこそうな表情は美星とは正反対で愛想あいそがよく、やや童顔だがたくましい長身で筋肉質だ。

 美星は「よう」とだけ言って、当たり前のようにカウンターに座った。

 混雑する店内はもう、えんたけなわ……時刻は丁度9時を過ぎたあたりだった。

 メニューも見ずに美星は、向かいにやってきた真司に注文を告げる。


「生ビールと焼き鳥定食、タレで」

「……おい待てお前、大丈夫か? 目が死んでるのはいつもだが、表情そのものがアレだぞ」

「ん、少し疲れたからな。腹も減ってるが、さっさと酔って寝たい。40時間くらい寝たい」

「ビールと白飯、一緒に飲み食いする奴だよなあ……お前」

「腹に入れば一緒だ」

「米と麦、穀物同士だぞ!?」


 いつもの調子で真司が笑う。

 彼はいつも屈託くったくのない笑顔で、これぞまさしく好青年という雰囲気だ。

 年中無表情の鉄面皮てつめんぴ仏頂面ぶっちょうづらしか知らない美星とは対象的だった。

 すぐに冷えたジョッキで生ビールが運ばれてくる。

 昼食を取る暇もなかったので、かなりの空腹だった。だから、一気に半分ほど飲むと、空きっ腹に酷く染みる。喉越のどごさわやかな琥珀色こはくいろは、食事の必要性を思い出させてくれた。

 真司は若い連中に指示を飛ばしつつ、なかなか美星の前からいなくならない。


「忙しそうだなあ、アース。ちゃんと寝てるか? 今日のアースはいつにもまして酷い顔だぜ」

「おい馬鹿やめろ、その名前を連呼するな」

「いい名前じゃねえか。母なる星だぜ? 地球だぜ? 美しい星つったら、やっぱ地球だよな」


 全然嬉しくない。

 若くて活力に満ちた真司の声に、客達はまばらな視線をよこす。

 そして、その前でビールを飲んでる美星に目を丸くするのだ。

 『美星』と書いて『アース』……このキラキラネームで、美星は中々に波乱万丈はらんばんじょうな人生を送ってきた。小学校では入学や進級、クラス替えのたびに「美星と書いてアースです、よろしくお願いします」と説明せねばならなかった。

 どうせキラキラネームなら、もっと格好いいものがよかったと思うこともある。

 中学になると英語の授業が本格的に増えて、アースの意味を交えたからかいが始まった。

 アースだから地属性、なんか弱そうというのはゲーマーだった友人の言葉だ。

 逆に女子からは妙に人気があったが、自分の顔が造形美として遜色そんしょくないことを美星は知らない。自覚がない。その頃にはとっくに、感情が顔に出ない無表情な毎日になっていたから。

 そんなことを思い出していると、真司が焼き鳥五品と味噌汁みそしる、そしてごはんを出してくれた。


「ん、いただきます。それと真司、生ビールをもう一つだ」

「飲むか食うかにしろよー、お前はもー! はは、よしきた! 生いっちょぉ!」


 秘伝のタレがたっぷりの焼鳥は、どれも香ばしい美味だった。それを贅沢ぜいたくに一本まるまる頬張ほうばってから。白米をかっこむ。そして、ビール。

 黙々とエネルギーを補給するように、食事という作業に美星は没頭していた。

 ようやく酔いが回ってきたところで、追加の焼き鳥を今度は塩で頼む。

 店内は少しけむたくて、煙草たばこの臭いにあぶらの跳ねる香りがバチバチと歌っていた。

 その頃には真司も「ゆっくりしてけよ」と言って仕事に戻っていった。

 美星にとって焼き鳥屋のやまがみは、飲みも食事も同時にすませられる密かな秘密基地だ。会社のある市街地を離れると、まだまだこうした小さな店が繁盛している。

 自然と酒を焼酎しょうちゅうへと変えて、それをロックでちびちび舐めながらスマートフォンをいじる。離れて暮らす母親からのメールを処理していると、不意に隣で剣呑けんのんな声が響いた。


「若いの、随分と面白い飲み方をするのう。米を麦と一緒に飲み込んで、次は芋焼酎いもじょうちゅうか」


 顔をあげると、カウンターですぐ横に一人の老人が並んでいた。

 真っ白なひげを伸ばした、これぞまさしく好々爺こうこうやといったおだやかな笑顔である。

 老人は熱燗あつかん手酌てじゃくで飲みながら、細めた目で美星を見詰めていた。

 酒場はえば人恋ひとこいしくもなる。

 それは感傷的な心情センチメンタルとは無縁の美星でもそうらしい。

 毎日が過酷な勤務で、最後に布団ふとんで寝た夜をもう思い出せない。会社に泊まり込んでの追い込みの中、納期ギリギリで今日やっと納品できたのだ。

 怒号どごう悲鳴ひめい、そして舌打したうちの中から解放された美星に老人の目が妙に優しい。


「まあ、その……腹に入れば一緒なんで」

「うんうん、まずはたんと食わねばのう。しかし、見たところ相応そうおうの身分とお見受けしたが……なりわいは何じゃ?」

SEエスイーです。システムエンジニア……ようするに、コンピューターのプログラムを作るチームリーダーみたいなもんですよ。会社だと、主任という役職ですね」

「ほうほう、えすいーとな……こんぴゅうたあ。ホッホッホ、若いのに大したことじゃあ。しかし、随分と疲れておるようじゃが」

「ちょっと修羅場しゅらばでした。でも、納期前は程度の差こそあれこんな感じです」


 美星も不思議と多弁になった。

 それくらい隣の老人は穏やかで、自然に言葉が引っ張り出される。

 文字列と数列が行き交う中、社内メールばかりのやり取りが多かった。逃げるように抜け出た喫煙所では、同僚達もうつろな目で紫煙をくゆらすばかりだった。自販機前では、新人社員が泣き出してるのを見たこともある。

 なんてことはない、

 だが、来月に決算を控えるこの時期は、特に忙しかったのだ。

 そのことをつい、らしくもない饒舌じょうぜつさで語ってしまう。

 美星の仕事内容には理解が及ばない様子で、それを隠そうともしない老人。それでも、彼はいちいち相槌あいづちを打って大きくうなずき、親身な言葉でねぎらってくれた。


「そうじゃなあ、やはりモノを作るというのは大変なことじゃ。ワシもそういう仕事をしていたがのう」

「もしや、何かの職人さんですか? あ、失礼……なんというか、雰囲気が」

「なに、。それも引退して、こうして悠々自適ゆうゆうじてき人界じんかい生活じゃ」

「はあ……世界? 人界……ああ、芸術方面か? 人里離れた山奥とか」

「まあ、そういう感じじゃなあ。で、若いの」


 ずい、と老人が身を乗り出してきた。

 その頃にはもう、美星も随分と酔っ払っている。

 久しぶりに人間らしい会話を交わして、少し愚痴ぐちらしきものもこぼした。

 それを受け止めてくれた見ず知らずの老人が、なんともありがたかったのは事実だ。

 だから、ひょんな事を言われてもおかしいとは思わなかったし、よくある話なのかとも思った。歳を取ると誰もがおせっかいになるもので、こうした話を持ち出すというのはよく聞いている。


「見たところ、ひとじゃなあ。……嫁さんはおらぬのか」

「いや、まあ……今はちょっと恋愛とか、そういうのは。仕事ですよ、仕事が一番」

「その仕事に没頭するお前さんを、支えてくれる人じゃよ。欲しいと思わんか?」

「掃除機や洗濯機じゃないですから……ま、まあ、少しは」

「うむ、そうじゃろう」

「でも、ちょっと前時代的じゃないですか? 内助ないじょこうが欲しいなんて、今の時代じゃとても口には。だから、まあ、パートナーみたいなのはいないです。……できませんでした」


 脳裏をにがい思い出が蘇る。

 それを封じて沈めるために、この忙しさの中へと没頭していたのだ。

 多忙極まりない修羅場が、ありがたいとさえ思ったこともあった。

 美星には今、恋愛に関することを遠ざけたい気持ちがあったのだ。

 そういう心の疲れた自分に、不意に嫁だ妻だの話を老人は持ちかけてくる。取り繕うように苦笑しようとしても、感情をよく知らぬ表情筋は引きつるだけだった。

 だが、老人はしわくちゃの顔をさらにしわだらけにして笑う。


「なに、あの子も前時代的じゃからちょうどよかろうて。正直、以前の仕事でやりのこしたことはそれくらいよ。まあ、年寄りのおせっかいと思って一つ、どうじゃ」

「え、どうじゃ、ってのは」

「とにかく、会うだけでもいいんじゃよ。恋だ愛だは、暮らしていけばいくらでもはぐくめるもんじゃ。ほれ、顔だけでも」


 お見合い写真でも出されるのかと思ったが、違った。

 老人は笑って背後を親指でさす。

 彼と一緒に振り返ると、そこには……一人の少女が立っていた。

 にぎやかな酒場の空気の中、まるでひっそりと芽を出した野の花のような可憐かれんさ。めにつるという言葉がぴったりで、真司には悪いが場違いな雰囲気をまとっている。清楚せいそで控えめな印象そのままに、彼女はぺこりと頭を下げて喋り出した。

 まるで清水が奏でるせせらぎのような声音こわねだった。


神様かみさま、あの……こちらの方、でしょうか? ……わたし、嬉しいです」


 美星は酔っ払っていて、普段の何倍も無感情、無感動になっていた。そう思っていた。

 だが、違った。

 驚きに揺さぶられて、見惚みとれてしまう程の美少女だった。

 普段以上に心情がフラットなのは、少女の美しさにしびれていたのだろう。

 奇妙な服はまるで羽衣はごろものようで、長く伸ばした髪は翡翠ひすいの輝きにも似て綺麗だ。

 あおい目の少女は、顔を上げて美星に微笑ほほえんだ。


「神様……? あ、ああ、おじいさんは……じんさんってこと、ですか?」

「まあ、そういう感じじゃ。では、あとは若い者同士で……やれやれ、ようやく肩の荷が降りたわい。これもえにし、仲良くのう」

「は、はあ。いや、あの」

「どれ、一献いっこん! 祝杯じゃよ、祝杯。これこれ、おしゃくをしてあげなさい」


 少女が近くに来て、ほのかにもものような香りがした。

 彼女が焼酎しょうちゅうのボトルを手にしたので、慌てて美星はグラスをかわかす。もうそろそろ限界というくらいには飲んでいたが、そうせねばと思った。そうしたいと感じたのだ。


不束者ふつつかものですが、末永すえながくよろしくお願いいたします……旦那様だんなさま


 慣れぬ手付きで少女がいでくれた芋焼酎は、カランと小さく氷を鳴らす。

 こうして、どういう訳か嫁ができた。

 そのことを夢で思い出していた美星は、徐々に朝の光に覚醒しつつある。そう、また一日が始まる中で……どこか現実感がないなりに、驚いていた。

 自分の心が動いた、動揺と混乱と、それとときめき。

 それをもたらした少女のいる朝が、始まろうとしていた。

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