第2話「こうして彼女が嫁に来た」
二十代も最後の歳となると、無理がきいた若い頃とは違う。
徹夜明けの
システムエンジニアというのは、独身男性としての実入りはいいが中々の重労働だった。
そんな訳で、納品が終わって地獄のデスマーチから解放された。
デスマーチとは、徹夜と
だが、もはや遅めの夕食を作るのも買うのも酷く
「へい、いらっしゃ! ……お、アースじゃねえか!」
美星が選んだ選択肢は、飲んで食って寝る、これだ。
そんな訳で駅前商店街の一角、焼き鳥屋のやまがみへと入店した。出迎えてくれたのはこの店の二代目で、同い年の
美星は「よう」とだけ言って、当たり前のようにカウンターに座った。
混雑する店内はもう、
メニューも見ずに美星は、向かいにやってきた真司に注文を告げる。
「生ビールと焼き鳥定食、タレで」
「……おい待てお前、大丈夫か? 目が死んでるのはいつもだが、表情そのものがアレだぞ」
「ん、少し疲れたからな。腹も減ってるが、さっさと酔って寝たい。40時間くらい寝たい」
「ビールと白飯、一緒に飲み食いする奴だよなあ……お前」
「腹に入れば一緒だ」
「米と麦、穀物同士だぞ!?」
いつもの調子で真司が笑う。
彼はいつも
年中無表情の
すぐに冷えたジョッキで生ビールが運ばれてくる。
昼食を取る暇もなかったので、かなりの空腹だった。だから、一気に半分ほど飲むと、空きっ腹に酷く染みる。
真司は若い連中に指示を飛ばしつつ、なかなか美星の前からいなくならない。
「忙しそうだなあ、アース。ちゃんと寝てるか? 今日のアースはいつにもまして酷い顔だぜ」
「おい馬鹿やめろ、その名前を連呼するな」
「いい名前じゃねえか。母なる星だぜ? 地球だぜ? 美しい星つったら、やっぱ地球だよな」
全然嬉しくない。
若くて活力に満ちた真司の声に、客達はまばらな視線をよこす。
そして、その前でビールを飲んでる美星に目を丸くするのだ。
『美星』と書いて『アース』……このキラキラネームで、美星は中々に
どうせキラキラネームなら、もっと格好いいものがよかったと思うこともある。
中学になると英語の授業が本格的に増えて、アースの意味を交えたからかいが始まった。
アースだから地属性、なんか弱そうというのはゲーマーだった友人の言葉だ。
逆に女子からは妙に人気があったが、自分の顔が造形美として
そんなことを思い出していると、真司が焼き鳥五品と
「ん、いただきます。それと真司、生ビールをもう一つだ」
「飲むか食うかにしろよー、お前はもー! はは、よしきた! 生いっちょぉ!」
秘伝のタレがたっぷりの焼鳥は、どれも香ばしい美味だった。それを
黙々とエネルギーを補給するように、食事という作業に美星は没頭していた。
ようやく酔いが回ってきたところで、追加の焼き鳥を今度は塩で頼む。
店内は少し
その頃には真司も「ゆっくりしてけよ」と言って仕事に戻っていった。
美星にとって焼き鳥屋のやまがみは、飲みも食事も同時にすませられる密かな秘密基地だ。会社のある市街地を離れると、まだまだこうした小さな店が繁盛している。
自然と酒を
「若いの、随分と面白い飲み方をするのう。米を麦と一緒に飲み込んで、次は
顔をあげると、カウンターですぐ横に一人の老人が並んでいた。
真っ白な
老人は
酒場は
それは
毎日が過酷な勤務で、最後に
「まあ、その……腹に入れば一緒なんで」
「うんうん、まずはたんと食わねばのう。しかし、見たところ
「
「ほうほう、えすいーとな……こんぴゅうたあ。ホッホッホ、若いのに大したことじゃあ。しかし、随分と疲れておるようじゃが」
「ちょっと
美星も不思議と多弁になった。
それくらい隣の老人は穏やかで、自然に言葉が引っ張り出される。
文字列と数列が行き交う中、社内メールばかりのやり取りが多かった。逃げるように抜け出た喫煙所では、同僚達も
なんてことはない、どこにでもある普通のデスマーチだった。
だが、来月に決算を控えるこの時期は、特に忙しかったのだ。
そのことをつい、らしくもない
美星の仕事内容には理解が及ばない様子で、それを隠そうともしない老人。それでも、彼はいちいち
「そうじゃなあ、やはりモノを作るというのは大変なことじゃ。ワシもそういう仕事をしていたがのう」
「もしや、何かの職人さんですか? あ、失礼……なんというか、雰囲気が」
「なに、ちょちょっと世界を創る程度の仕事じゃよ。それも引退して、こうして
「はあ……世界? 人界……ああ、芸術方面か? 人里離れた山奥とか」
「まあ、そういう感じじゃなあ。で、若いの」
ずい、と老人が身を乗り出してきた。
その頃にはもう、美星も随分と酔っ払っている。
久しぶりに人間らしい会話を交わして、少し
それを受け止めてくれた見ず知らずの老人が、なんともありがたかったのは事実だ。
だから、ひょんな事を言われてもおかしいとは思わなかったし、よくある話なのかとも思った。歳を取ると誰もがおせっかいになるもので、こうした話を持ち出すというのはよく聞いている。
「見たところ、
「いや、まあ……今はちょっと恋愛とか、そういうのは。仕事ですよ、仕事が一番」
「その仕事に没頭するお前さんを、支えてくれる人じゃよ。欲しいと思わんか?」
「掃除機や洗濯機じゃないですから……ま、まあ、少しは」
「うむ、そうじゃろう」
「でも、ちょっと前時代的じゃないですか?
脳裏を
それを封じて沈めるために、この忙しさの中へと没頭していたのだ。
多忙極まりない修羅場が、ありがたいとさえ思ったこともあった。
美星には今、恋愛に関することを遠ざけたい気持ちがあったのだ。
そういう心の疲れた自分に、不意に嫁だ妻だの話を老人は持ちかけてくる。取り繕うように苦笑しようとしても、感情をよく知らぬ表情筋は引きつるだけだった。
だが、老人はしわくちゃの顔をさらにしわだらけにして笑う。
「なに、あの子も前時代的じゃからちょうどよかろうて。正直、以前の仕事でやりのこしたことはそれくらいよ。まあ、年寄りのおせっかいと思って一つ、どうじゃ」
「え、どうじゃ、ってのは」
「とにかく、会うだけでもいいんじゃよ。恋だ愛だは、暮らしていけばいくらでも
お見合い写真でも出されるのかと思ったが、違った。
老人は笑って背後を親指でさす。
彼と一緒に振り返ると、そこには……一人の少女が立っていた。
まるで清水が奏でるせせらぎのような
「
美星は酔っ払っていて、普段の何倍も無感情、無感動になっていた。そう思っていた。
だが、違った。
驚きに揺さぶられて、
普段以上に心情がフラットなのは、少女の美しさに
奇妙な服はまるで
「神様……? あ、ああ、おじいさんは……
「まあ、そういう感じじゃ。では、あとは若い者同士で……やれやれ、ようやく肩の荷が降りたわい。これも
「は、はあ。いや、あの」
「どれ、
少女が近くに来て、ほのかに
彼女が
「
慣れぬ手付きで少女が
こうして、どういう訳か嫁ができた。
そのことを夢で思い出していた美星は、徐々に朝の光に覚醒しつつある。そう、また一日が始まる中で……どこか現実感がないなりに、驚いていた。
自分の心が動いた、動揺と混乱と、それとときめき。
それをもたらした少女のいる朝が、始まろうとしていた。
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