編集済
原文(一)への応援コメント
田中芳樹先生の名が出ましたね。
銀英伝のファンですか?
私、アニメのリメイク版を見てる最中です。
が、戦艦内部や艦隊戦の砲撃やらビジュアル面では感涙に咽んでしまいますが、キャラが駄目ですね。
ラインハルトが美男子じゃない。冴えないヤンの面影が無い。ロイエンタールがただの美青年。キャラは30年前の方が絶対良い。
追記)
アニメ旧版は最初の映画だけ見れば十分です。テレビアニメは、低予算だったせいで、観るに耐えません。それでもアニメファンは齧り付きますが。
作者からの返信
田中芳樹先生、昔好きでした。
銀英伝ももちろん読んでます!
アニメや舞台等のメディアミックスはまだ観てないんですよ。時間を作って旧版のほうのアニメを観てみます。
10代の頃はアルスラーンのほうが好きだったのですが。
はい……7巻までは。
漢文:馳月基矢(氷月あや)のあとがきへの応援コメント
とても素晴らしい作品でした。
この作品に会えたことを嬉しく思います。
企画に参加して頂き、本当にありがとうございます。
更なる創作を心より応援しています。
作者からの返信
最後までお付き合いいただき、またお楽しみいただけて、訳者冥利に尽きます。
応援コメントもレビューも頂戴し、嬉しかったです。
趙萬年は私にとって、かけがえのない心の友と呼びたい存在です。
彼をこうして紹介することができてよかった。
本当にありがとうございました!
超訳への応援コメント
個人的には『武備志』、『武經總要』巻十三が興味深かったです。
先の弩の記載にもありましたが、資料発掘の際に意識している点などあったら聞きたいです。
作者からの返信
最初は普通に検索です。
そこで出てきた現代語の情報をもとに、必ず自分で原典に当たるようにしています。
中国の古文書はかなり大部分がウィキソースなどで公開されているので、必要なものは丸ごとダウンロードして手元に保存しています。
そしてキーワード検索からのヒットを足掛かりに資料をガンガン読み進めるという、手法自体は割と普通の調べもののやり方だと思います。
Twitterで「中国武具刀剣bot」というアカウントがあるんですが、武備志や武経総要に最初にたどり着いたのはこのアカウントの呟きがヒントだったと思います。
調べものが広がる、深まる通常パターンは、論文の最後に付いている参考文献が最強です(というところまでやると、もはや小説内の世界構築ための調べものの範疇を超えてきますけれども)
参考になれば幸いです。
ウェルカム・トゥー・沼!
編集済
漢文:馳月基矢(氷月あや)のあとがきへの応援コメント
完結おめでとうございます。
ということで訓読しに来たんですけど。
やられた。。。佐藤さんが先に訓読やってんじゃん!
ちょろっと漏らしただけなんだけどなあ。
それでは、訓読の検討をば。
> 開禧八〇九年夏、
氷月さんって1200歳くらいでしたかねえ。。。
って、違う!寧宗が竹内宿祢と化してる。
長生きしすぎ!
> 吾ハ母校ノ書庫ノ中ニ於キテ宋ノ趙萬年ノ著セル所ナル『襄陽守城錄』ヲ発見セリ。
「於」は「より」と読む場合があるので、この場合はこちらかな。
「吾は母校の書庫中より宋の趙萬年の著す所の『襄陽守城錄』を発見せり」
> 吾ハ始メ喜悦セド、尋チ消沈ス。
「尋」はこの場合、「尋いで=ついで」がよいですね。
「吾は始め喜悦すれども、尋いで消沈す」
> 則チ趙氏ノ慧眼ヤ鋭悧ヤ烈義ヲ知リ、筆鋒ハ迫眞ヲ核實シ、
これ、慧眼と筆鋒はともに趙氏のものなので、まるっと「知」で括るのがベターそう。「核實」はともに「さね」、果物などの真ん中にある種を意味しますので、概ね「要を抑えて真に迫る筆であった」という訳になるかと思います。
「趙氏の慧眼は鋭悧にして烈義、筆鋒の核實迫眞なるを知り」
> 當ニ蠧蝕ニ埋没セザルベキナリ。
「蠧蝕」は虫などに蚕食されて失われてしまうことなので、動詞扱いで。
「當に蠧蝕埋没するべからざるなり」
> 蒙古襲來ノ追窮ヲ多イニ知悉セント欲シ元代ノ文献ヲ海底ヨリ発掘セルモ、但シ宋代ト金代ノ戰鬪技術ヲ研鑽セルニハ及バズ。
和漢っぽいですね。ちょっと読みにくく感じてしまいます。
「但」は「ただ~のみ」と読むとオシャレな感じになりますね。
「多くは蒙古襲来を知悉するに元代文献を追窮せん欲して海底を発掘するも、但だ宋代と金代の戰鬪技術を研鑽するに及ばざるのみ」
> 前史ノ先驅ノ曉ラカニ非ザレバ、安ンゾ後代ノ事績ヲ握レル能ハンカ。
この辺は好みの違いですね。
「前史先驅に曉らかに非ざれば、安んぞ能く後代の事績を握らんや」
> 惟ダ史学ノ研究ハ單身ニテノ完遂ハ可ナラズ、吾ガ『漢文超訳襄陽守城錄』ヲ撰ズル所ノ、史学者ノ眞實ヲ求メ尋ヌルヲ益セルニ資セルヲ願フ。
「惟」は「ただ」とともに「思」と同じ意味もありますので、ここは後者がよさそう。後は好みの範疇です。倒置するとオシャレです。
「惟うに史学研究は單身にて完遂するべからず、願わくば、吾が撰じる所の『漢文超訳襄陽守城錄』の、史学者の眞實を求め尋ぬるに益資せんことを」
> 趙氏ノ生シ死セルハ八百餘前、本貫ヤ字ヤ號ヤ年齡ヤ面貌ノ一切は喪失セリ、而シテ吾ハ卻リテ遠方ニ在居セル朋友ノ如ク意ユ。
ほとんど違いないです。
「趙氏は八百餘前に生まれて死し、本貫、字、號、年齡、面貌の一切を喪失せるも、吾は卻って遠方に在居せる朋友の如く意えり」
> 吾ハ戯レニ想フ、若シ吾ガ斯ク信ヲ書カバ、則チ彼ハ吾ガ信ヲ見ンカ。
「斯」は「かく」とともに「ここに」の意味もありますので、ここでは後者かな、と。
「吾れ戯れに想うに、若し吾れが斯に信を書かば、則ち彼れは吾が信を見んか、と」
> 然シ吾ガ信ハ虛シクモ何人モ讀マズ、遠方ノ朋友ハ竟ニ來ザルナリ。
これも好みの違い程度です。
「然れども吾が信は虛しく何人も讀まず、遠方の朋友は竟に來らざるなり」
云々。
作者からの返信
三つ巴の応援コメントと相成りました(笑)
訓読ありがとうございます!
寧宗ー!
玉座の上でミイラ化しておられる(;゚∇゚)
そして私の年齢も、「新撰組の人」だったころには「幕末も生きてたんでしょ」疑惑があるだけだったのですが、最近は「13世紀も余裕で生きてたよね」になってきました。
それ言い出したら、魏晋南北朝の皆さんはもっと凄いことになりますけどね(笑)
原文からして怪しげな和製漢文でした。
一応それなりに読める格好をしていたようで、よかったです。
趙萬年ではないですが、文法的にはきわめてシンプルな感じ。
韻を踏むような芸当はできませんしね。
「萬年」という名のペンネームっぽさは、私も思いましたね。
本当にペンネームなら、趙姓を避けてほしかったですが(小説版の字面的に)
ほんと、何者だったんでしょうか。
ラストの遊びにまでお付き合いくださり、ありがとうございました!
編集済
漢文:馳月基矢(氷月あや)のあとがきへの応援コメント
開禧八〇九年夏、吾ハ母校ノ書庫ノ中ニ於キテ宋ノ趙萬年ノ著セル所ナル『襄陽守城錄』ヲ発見セリ。吾ハ始メ喜悦セド、尋チ消沈ス。吾ガ探ゼル所ハ即チ宋末ノ蒙古ニ對セル戰史ナレバ、金ニ對セル戰史ニ非ズ。然レド『襄陽守城錄』ヲ讀ミタレバ、則チ趙氏ノ慧眼ヤ鋭悧ヤ烈義ヲ知リ、筆鋒ハ迫眞ヲ核實シ、吾レ誠ニ此ノ書ニ魅セラルル所ト爲リ再ビ喜悦セルコト甚シ。此ノ書ハ普遍ノ可法ヲ載ス、當ニ蠧蝕ニ埋没セザルベキナリ。
近年日本ノ東洋史学者ノ如キハ、蒙古襲來ノ追窮ヲ多イニ知悉セント欲シ元代ノ文献ヲ海底ヨリ発掘セルモ、但シ宋代ト金代ノ戰鬪技術ヲ研鑽セルニハ及バズ。前史ノ先驅ノ曉ラカニ非ザレバ、安ンゾ後代ノ事績ヲ握レル能ハンカ。惟ダ史学ノ研究ハ單身ニテノ完遂ハ可ナラズ、吾ガ『漢文超訳襄陽守城錄』ヲ撰ズル所ノ、史学者ノ眞實ヲ求メ尋ヌルヲ益セルニ資セルヲ願フ。
趙氏ノ生シ死セルハ八百餘前、本貫ヤ字ヤ號ヤ年齡ヤ面貌ノ一切は喪失セリ、而シテ吾ハ卻リテ遠方ニ在居セル朋友ノ如ク意ユ。吾ハ戯レニ想フ、若シ吾ガ斯ク信ヲ書カバ、則チ彼ハ吾ガ信ヲ見ンカ。然シ吾ガ信ハ虛シクモ何人モ讀マズ、遠方ノ朋友ハ竟ニ來ザルナリ。
ふむふむ、ほう、……ふむ。
なるほど、ロマンですね……
ともあれ、完結おめでとうございます!
※
いやぁもう、「知らない人」の漢文をやるのも大切ですが、氷月さんのように書かれた意図をきっちり覚えていらっしゃる方の漢文訓読なんて、これはもうお宝にもほどがあるだろう、とw
河東さんならきっとされるだろうなーとも思ったのですが、ご両名にご教示いただける機会は逃せるまい、と一も二もなくチャレンジさせて頂きましたw
>趙氏の慧眼は鋭悧にして烈義、筆鋒の核實迫眞なるを知り
の辺りとか、読点で訓読を切ってしまう病が結構深刻になっていることに気付きました。ああそうだ、句点まででひとまとまりだ、となってしまいました。
「多」の扱いとか、いい加減この手の表現で They になること把握しろよって感じではありますね。なんかものすごい変てこな訓読を晒してしまいました。一発でそこそこに仕立て上げられるようになりたいなあ。
「但」どうしてもただし、と呼んでしまう。ただ~のみの用法はカッコイイので奮って使いたいものの筆頭なんですが、この字に関してはなぜか我慢をしていました。謎だ……。
「惟」これ、辞書読むと「思う」の方が先に来るんですね……ぎひい。安心しきってた。「慣れてる字ほど辞書を引け」は鉄板の話ですのに。
それにしても、「蠧蝕ニ埋没ス」という響きのかっちょよさがヤバいです、おそらく自作でもどこかでうっかり使っちゃうかとは思いますが、その時は笑って流してくだされば幸いですw
では、今回も素敵な挑戦の機会を、ありがとうございます! 新しい遠方の友人と、またどこかの書で出会えますように。
作者からの返信
何か物凄い応援コメント来た!(笑)
原文からして怪しい漢文の訓読、ありがとうございます。
1行目から噴きました。
開禧八〇九年……!
そして、のんびりしてたら、河東さんも訓読してくださいました。
佐藤さんの応援コメントを踏まえた上での応援コメントとなっておりますので、ぜひご参考に。
……私が返信する内容なくなったー(;゚∇゚)
遊びにお付き合いくださり、ありがとうございました!
漢文:馳月基矢(氷月あや)のあとがきへの応援コメント
完結おめでとうございます!
趙萬年のあとがき含めて、四人のあとがきがある作品(笑)
最後の氷月氏あとがき、キュンときました。
長い長い時間をこえて、文字だけで繋がる……。
この本を守り、残してくれた先人たちにも感謝です。
萬年〜!
あなたは記録のつもりで書いたのだろうけど、面白かったよー!
作者からの返信
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました!
あとがき、漢文で書けば原著者や歴代編者にも読めるだろう、と(笑)
この本に向き合うのは楽しかったです。
こんな出会いはなかなかないと思うので、やっぱり名残惜しいですね。
原文への応援コメント
お邪魔致します。
天文現象を見ると、つい調べたくなるのです……。
天文教育普及研究会の会報「天文教育」2006年5月号で
http://tenkyo.net/kaiho/kaiho80.html
「凶兆としての流星」
http://tenkyo.net/kaiho/pdf/2006_05/2006-05-04.pdf
という記事を見つけました。
日本の話が多いですが、「5.中国の伝承と天狗星」の節に、『晋書』「天文志」と『史記』「楽書」でのめでたいこと扱いの例も載っているようです。
私は「晋っていつですか」な人間なので(汗)、時代的に全然見当違いだったらすみません……。
作者からの返信
おお、天文の視点からのコメント!
ありがとうございます!
流星や二十八宿、日食や月食などの記録は正史に頻繁に登場するのですが、実のところ、歴史的事象を追い掛けるために正史を読む(一般的な)東洋史学の視点では「お、また載ってる」くらいの認識です。
流星が多少降ろうが、基本的に読み飛ばします。
「正史に掲載された天文系の記録について調べてやるぞ!」という意識を持って読んだことのある人は、意外に少ないのではないかと思っています。
そして私は自分の時代(宋史、元史、明史)ばかり読んでおり、おそらく時代によって流星の記録の出現率が違うんだろうなとも感じています(戦乱が多い時代ほど「まじない」率が高くなる気がしたり)
リストアップしてみないとハッキリしたことは言えませんけれども。
天体や気象について意識して読んでみると、本当に面白い研究ができそうなのです。
そのためにはまずちょっと天文学を勉強し直さないと。
コメントありがとうございます。
原文への応援コメント
こんばんは。
今回はこの一文が飛び抜けていますね。
〉候傍虜營、令弩手先踏上箭平盤子、聽一鼓齊放。
さて。
「令弩手先踏上箭平盤子」を意味を無視して考えると、「弩手をして先ず箭平の盤子に踏上せしむ」の可能性が高そうです。意味が分からないのは、盤子の前の箭平です。
用例を探すと、時代は下りますが『朝鮮王朝實録』巻一百三十四、凶禮儀式一の設氷に次の一文がありました。
「工曹は繕工をして氷槃を造るを監せしむ。其の制は時宜に從い、長十尺、廣五尺四寸、深三尺なり。尺は營造尺を用う。外の四面には各々大鐵環を釘す。疊布を以って環に穿ち、擧ぐるに便にするなり。又た棧牀を造る。鄕に箭平牀 と名づく。長八尺、廣三尺四寸、通足高一尺五寸。牀上の周回には欄干を施し、高一尺なり。內に竹網を施し、衣をして外に向かずして濕を受けしむるなり」
ざっと見て、箭平牀は竹を編んだ網を張った箱様のものと分かります。箭には篠の意味がありますから、おそらくそれでしょう。
しかし、用途がイマイチ分かりません。同じく正祖實録の十三年に以下の記述がありました。
「進み詣りて梓宮を箭平床の傍邊に奉安し、號哭して叩擗す」
すなわち、霊柩を傍に置いたことが分かります。推測するに、設氷という点から考えると、竹で編んだ盤子に氷を入れて遺体を冷却したのではないかと考えます。盤子というと、大皿を想像しますが、時代を下ると台の意味を持つようになります。
元の文の意味をとるならば、弩手を竹製の台上に上げた、と理解するのがよいのかな、と思います。が、何かこの一節はおかしい気がするので、もう少し考えてみます。
作者からの返信
おたすけマン登場! ありがとうございます!
「地名海子」とここだけ、全く読めませんでした。
「箭平」の可能性ですね。
竹製の台と考えると、場面には合いそうです。
弩があって箭字が来たので、矢とは別の意味合いがあることに頭が行かなくなっていました。
『朝鮮王朝実録』といえば、演習(准教授とマンツーマン)でひたすら読みました。
対清関係にまつわる記事を集中的にやっていました。
清の皇帝から「おまえのところの国民が国境侵犯してウチの山に薬用人参をかっぱらいにくるのをどうにかしろ」とお叱りを受けるエピソードばかり。
今回も詳細なコメントありがとうございました!
編集済
原文への応援コメント
こんばんは。
残念ながら(?)訓読にはツッコミ所がありませんので、史書における流星に関する雑談をば。
〉是夜、有流星墜虜營中。
戦の最中に敵陣に流星が落ちる、という記事はかなり例が多く、一番有名なのは、『後漢書』光武帝本紀の昆陽の戦の記事にある「夜有流星墜營中」の一文かと思います。
これは王莽の軍中に流星が落ちたという記事ですが、流星が落ちた軍は「必ず負ける」のです。知る限り例外はありません。
思うにこれは、史書の約束事、または、大勝の際には敵陣に流星が落ちるという指標があり、それを踏襲したのかな、と。
実際には、戦に勝った後に理由づけとしてそういう噂がまことしやかに流れ、それを後で聞いて書き残したのだろうなあ、と思います。
そういう訳で、史書にはこの種のお約束もありますので、見聞した事実の他に民俗学的な説明体系から来たものが混じる場合もあるということを知っておくと、史書をより面白く読めるかも知れません。
でも、落ちない場合もありますので、何か基準があるのかも知れませんが、そのあたりは謎です。。。
【返信を受けて】
こんにちは。
流れ星はアレですが、超新星爆発なんかは史料に記載されている場合があるようですね。気候は平安貴族の日記に梅や桜の開花の記事が日付とともにあって便利だとか、自然科学と歴史学の絡みはわりとありそうですね。
〉中国の史書では星は凶兆として書かれるものなんでしょうか。
宋元の頃にはあまり記事がないのですね。古代にはわりとよく見た記憶ありです。
星は規則的に動くので、そこから外れた動きは歓迎されない感があります。天子の不徳か凶兆かって感じで、撤楽減膳する記事がセットという印象です。吉兆と観た例はあるのかなあ。気を付けておきます。
ちなみに、『續三國志』第一回にも、「五丈原の陣中に将帥の落命を暗示する流星が堕ちて諸葛亮は世を去り、ついに奸雄が志を得る」てな下りがあります。原文は「星が堕ちて」とかそんな感じでしたかね。明代にもお約束の一つとして認知されていたようです。
〉数字がけっこう多くて、穀物をどれだけどこに送ったという記事が目に付く
それは興味深いですね。
士大夫層が数字を扱ったとは思えませんので、胥吏にやらせたんでしょうかね。モンゴルあたりになると実際性重視でしょうから、士大夫より胥吏の方が重用される場合もあったかも。
ちなみに、西魏の蘇綽の改革では計帳を扱えることが官吏の資格とされましたが、そういう施策は隋には継承されませんでした。これも遊牧民的だなあと思います。
〉日食・月食・オーロラ・天体と、旱魃・大水・地震、このへんを史書からリストアップして自然科学分野の人に提供する
天体はともかく、災害は被災範囲の特定が難しいかもしれないです。しかし、面白い取り組みですね!
作者からの返信
残念ながら(笑)
流星の件の追加記事、ありがとうございます!
やはり、よく星が落ちるんですね。
「空の変なところに見知らぬ星がある」もそうですが、中国の史書では星は凶兆として書かれるものなんでしょうか。
星に願いを、ではないんだなと。
小説的な文章にする場合には、書き方に注意しないといけないあたりです。と再確認。
現代日本人の直感とは違います。
流星その他の天体の凶兆に関しては先行研究がありそうですね。
私がよく見る範囲(宋史、元史、元典章)ではあまり流星を見掛けない気がします。
南宋はボロ負け一方で、元はメンタリティが違うからかもしれません。
元史における南宋モンゴル戦争で個人的に面白いと感じるのは、数字がけっこう多くて、穀物をどれだけどこに送ったという記事が目に付く点です。
連年、旱魃やイナゴにやられたせいもあり、政策的な人と穀物の移動が見えます。
この件を気候変動(に伴う人の移動と植生の変化)の研究者に教えたら喜んでいました。研究テーマにドンピシャ。
最近、木の年輪から年毎の気候変動を調べ、史書や日記に残された気象の記事と照合する、といった学際研究があちこちで提案されつつあるそうです。
と気候変動の研究者が言っていました。
日食・月食・オーロラ・天体と、旱魃・大水・地震、このへんを史書からリストアップして自然科学分野の人に提供する、というコラボを私もやってみたいと思っています。提供先をサーチ中。
と、いつもながら変な方向に話が。
コメントありがとうございます!
編集済
原文への応援コメント
こんばんは。
今回はボリュームありますね!
気になった箇所は以下の通りですが、いずれにせよ解釈にはほとんど影響しないです。
▼所以亟創土山、意在必取襄陽。
所以に亟やかに土山を創るに、意、必ず襄陽を取るに在り。
恩賞大盤振る舞いを受けた後文ですが、主語を明示するとこのようになるかな、と。
所以(虜人)亟創土山、(虜主)意在必取襄陽。
そうなると、前文と後文は別に扱うのがよいかと思いました。
(虜人の)亟やかに土山を創る所以にして、(虜主の)意は必ず襄陽を取るに在り。
これなら、「大盤振る舞いした。それが兵士がすみやかに土山を造る理由であり、そのようにした虜主は襄陽を必ず落とそうと考えているのだ」で分かりやすいかな、と。後段の「所以難於毀拆=だから壊すのが難しかった」と用法が違うのはやや気持ち悪いですが、所以の用例としてはありかと思います。
▼公前日出兵用竹籠絆馬、恐虜人別生狡計措置。
公の前日に出兵するや、竹籠を用ゐて馬を絆するに、恐らく虜人、別に狡計を生じて措置せん。
ここは後文との繋がりを考えると、前後とも「公」が主語でよいかと。
公は前日に兵を出して竹籠を用ゐて馬を絆すに、虜人の別に狡計を生じて措置せんことを恐る。
意味は全然変わりませんね。
▼至二更、兵從南隅羊馬牆而出、令先以四百人銜枚、各提水一桶、疾走往虜人燒火去處、潑滅、分布前進。
二更に至り、兵、南隅の羊馬牆從り出で、先づ四百人を以て銜枚し、各々水一桶を提げ、疾走して虜人の燒火の去處に往きて、潑滅し、分布して前進す。
「虜人燒火去處」の去字がどうにもジャマなんですよね。「燒火處」でいいように思いますし、衍字じゃないですかね。
二更に至り、兵は南隅の羊馬牆從り出で、先ず四百人の銜枚するを以って各々水一桶を提げしめ、疾走して虜人の火を燒やす處に往きて潑滅し、分布して前進せしむ。
去字は屯字の誤りかなあ、とか想像してしまいますが、分かりません。でも何かヘン。
▼緣創築土山之內盡用大木穿貫如屋、上用排椽、積柴束・草牛・覆土於上、所以難於毀拆。
創築せる土山の內、盡く大木を用ゐて穿貫すること屋の如く、上、排椽を用ゐ、柴束・草牛・覆土を上に積むに緣りて、所以に毀拆に難し。
大木を柱にしてその上に棟木とたるきを巡らせて小屋のようにし、小屋の内に柴や草の束を積み上げてそれに土を被せたのではないかと想像します。もう一つの考え方は、小屋の上に柴や草の束を積んで土を被せるやり方ですが、この場合は中が中空になって崩落しそうなので考えにくいかと思います。
創築せる土山の內は盡く大木を用ゐて穿貫すること屋の如く、上は排椽を用ゐ、柴束・草牛を積みて土を上に覆うに緣り、所以に毀拆に難し。
「名為火牛、置於土山之內、以火焚之、方填草間」の「方填草間」が説明しやすいように思いました。
今回は妙に難しい気がしました。。。
※
【返信を受けて】
〉今回、単純に難しかったというか、筆が荒かった感じがします。
確かに、忙しかった(生命の危機付き)でしょうから責められませんね。
〉動詞+目的語+去字
なるほど、白話文との汽水域ならではですねー。方向を補う去字ですか。訓読する場合は殺すしかないのかな。
「他看棒球去了」の「去」はgoの意味があるので、講談調なら「他は棒球を看るに去(行)き了(おわ)れり」になりそうです。
そう言えば、『續三國志』も明代小説なので竹田さん、尾田さんが似たような白話的言い回しを力づくで訓読していました。「殺出」を「殺(き)り出(いだ)す」とか。この「殺」は「殺到」と同じ使い方ですから、無理があります。
「疾走往~去」は往と去が同義なので、タチが悪いですね。江戸期なら「疾く走りて〜に往き去る」にしたと思いますが、力づく感ハンパないです。
以下は私見となります。
司馬遼太郎&陳舜臣の対談の中に、「漢文って記録用圧縮言語よな」という発言があり、深く納得しました。日本語の助詞、助動詞に相当するものがかなり不足していますから、日常会話には適さない言語です。過去か現在かも文脈次第ですし。
訓読は漢文を古文にする行為で日本人はそこから意味を理解します。その中に無理くり位置付けると、白話文は訓読文と近い位置にあると考えます。漢文「往〜」→白話文「往〜去」=訓読文「〜〝に〝往く」→理解「〜に行く」と言う流れですね。
現代中国の方は白話文経由に近い理解で、日本人は訓読文経由の理解をするだろう、と。
そうすると、白話文と訓読文は共に意味を脳裏に図像化する前の中間言語であって、記録用圧縮言語である漢文の解凍結果という点では同じだと考えます。(漢文を訳すと、ふえるワカメみたいに字数が増えまくりますよね)
なもんで、白話文は訓読文とは違う形で解凍されているので、白話文を訓読するなら、白話文→漢文→訓読文という形で、一回遡行して読み下すしかないのかも知れません。が、結果はたぶん白話的な補助語を落としただけ、になるように思います。
というのが、言語学者ならぬ明代小説に四苦八苦している身の認識ということで、一つ。
※
〉佐藤さんちの『漢文ごっこ』所載の文章たちが正統派の美形ぞろいで、ちょっと感動しましたー。
たしかに。ああいう綺麗な漢文は久しく読んでいませんね。。。
作者からの返信
解釈ありがとうございます!
大ボリュームでした。途中で切るわけにもいきませんでしたし。
所以……「ゆえん」か、「ゆえに」か。両者のニュアンスの違い。
原文を書いている人々の頭の中では、書き下す我々日本人ほどには大きく違わないのかもしれませんね。
どっちで読むのがスムーズか、ちまちまいじってしまうことが多々あります。
ここは主語を補うと、確かに「ゆえん」のほうが訓読文がわかりやすくなりますね。
(主語を無断でころころ変えるんじゃない! >阿萬)
恐……「おそらく」か、「おそる」か。
上からだだだーっと読んでしまう癖があるので、機械的に「おそらく」で脳内処理しました。
「おそらく」以下が公の脳内セリフになりますね、この場合。
「おそる」のほうが訓読文として読者に優しいです。
去字の扱い、困るんですよね。
別の謎字だったら、バッサリ衍字だと言えるんですが。
というのも、現代中国語を勉強したときも去字に困ったんです。
以下、漢文じゃなくて現代語の話なので、ちょっとずれるかもしれないんですけれども。
「来(こちら向き)」と「去(あちら向き)」は、方向性のニュアンスを表す語として頻出します。
しかも、動詞+目的語+去字、という位置で出てきます。
「他看棒球去了」で「彼は野球を観に行った」
漢文風に訓読しようとしても「他は棒球を看て去り了る」になって意味がずれる。
さってないし、おわってないし。
「去」で方向性のニュアンスを補い、「了」で時間的なニュアンスを補う格好になっています。
で、困ったことに『襄陽守城録』にも同じニュアンス用法が出てきます。
特に「了」は頻出。「~しちまったぜ」的な。
古典的な訓読の観点からは読みにくくて仕方がないです。
この現代中国語的な文法解釈で行っていいなら、問題の箇所は「疾走往~去」がセットということになるんですが、どう訓読せよと?
だから「去処」というのもヘンな読みになってしまうんですが……。
(-"-)ウーム
言語学者、カモン。プリーズ。
土山の構造に関しては「柴束・草牛を積みて土を上に覆うに緣り」ですね。
これは訓読文、ハッキリ間違いです。
実際に造ったことがないので(当たり前だ)、想像力を働かせながらの訓読になりました。
学生時代、図形問題を考えるのがあまりに苦手で、パターンを十数種類も丸暗記してテストに臨んでいたんですが、図を頭の中に描きながらの訓読は図形問題と似たようなところがあります。
知恵熱が出そうでした(笑)
今回、単純に難しかったというか、筆が荒かった感じがします。
忙しい中で書き殴ったのか、興奮冷めやらぬままに記録したのか。というのは単なる空想ですけれども。
ありがとうございます!
續三國志の続き、お邪魔しに行きますー。
***
【ふたたびあらわる】
なるほど、漢文ふえるワカメ説。
明代の小説は確かにチカラワザが必要になってきそうです。
白話文の訓読にも定型があれば、そういうものであると割り切れるんでしょうが、何とも厄介なところですね。
しかも、日本語にするには変なところに補語がくっついてますし。
(-"-)
意味を取る場合には、訓読文なり現代中国語なり、何かしらのルートを自分の中に持っている必要があるんですよね。
とりあえず大学時代に中国語に苦労しておいてよかったです。
こうした文型にはこれからも出会うでしょうから、引き続き、きちんと頭の中に置いておきます。
佐藤さんちの『漢文ごっこ』所載の文章たちが正統派の美形ぞろいで、ちょっと感動しましたー。
編集済
原文への応援コメント
こんばんは。
今回もシンプルな文が大半ですが、以下はある種の悪文ですね。
▼豈非精誠所禱、感格而然。
豈に精誠に禱る所、感格して然るに非ざらんや。
解釈は御説のとおりと思いますが、この場合、「感格」は「天に通じる」の意でしょうから、上のように「誠実な人の祈りが天に通じてそのようになったのではないか(いや、天に通じてそうなったのだ)」で意味が通りますが、下も通りそうです。
豈に精誠の禱る所に非ずして、感格して然らんか。
「誠実な人の祈りでなくして天に通じてそのようになることがあるだろうか(いや、誠実な人の祈りであったから通じたのだ)」
どっちも通じそうですが、藪の中というパターンですね。
※
比較すると前者は天の存在を自明としておらず、後者は自明としているので、時代性を考えると後者のがいいのかも知れません。意訳すると、前者「天は精誠の人が祈ると叶えてくれるぜ」、後者「俺らは精誠なんだぜ」ですものね。
作者からの返信
こんばんは。
お察しの通り「どっちやねん(-""-;)」と悩んだ箇所です。
しかもスピリチュアル系が絡んできているので、ニュアンスを汲み取るというのもまたなかなかに困難でした。
(易経の魔法陣ぐるぐるより、はるかに可愛らしいものですけれども)
天の存在を自明とするか否か、というポイントですね。
なるほど(*・∀・*)
確かに、後者のほうがスッキリする感じがしますし、文章そのものも読みやすいですね。
カッコよさげな中二病的文章は読者に意味が伝わらないから禁じ手、という小説のお作法を提示してあげたくなる一文でありました。
編集済
原文への応援コメント
こんばんは。
> 十五日、探知虜賊複來城南紫陽觀、及於寺院等處再造攻具。遂遣方溥・訓練官朱建部官兵三十六人前去、燒毀雲梯二百餘連、奪到騾一頭並鞍轡。
この文の「及」の解釈が気になっているんですけど、『宋史』の用例を見る限り、「丁丑,南唐進長春節御衣、金帶”及”金銀器」のように並列の用例が多いんですね。古代から隋唐までの文を読む感覚とはちょっと違います。
あのあたりだと、「及~、遂~(~するに及び、遂に~す)」と構文的に読むことが多いので、宋代にはなくなっているのかなあ、と興味を持っています。ただ、用例が多すぎて調査に時間がかかりそうなんですよね。
そういうわけなので、もう少し調べてみるようにします。
ってか調べ切れる量なのかなあ。。。
【返信を受けて】
〉中二病的な感じで(笑)
『襄陽』を読んで分かりましたが、興味の多寡が白話要素の量と反比例しているようです。
慣れとは怖ろしいもので、奪到とか殺了が現れると、「そこはウチの畑じゃね」となるんですね。
やはり「〜せずんば非ず」とか「〜するや〜せり」とか古めかしい言い回しを使いたいのです。
古くなると並列は「與」が用例最多でしょう。
「及」は記憶にないですが、バイアスもあるでしょうね。
〉『徳安守城録』
時期も近いので用例収集に良さげですよね。
『墨子』からみで読みたいリストに入れています。あ、『墨攻』おもしろかったです。何で読んでなかったのか不思議。
〉いちばん読んでるのは清代(考証学エッセイと漢方薬関係)じゃないかな。
清代はまさに対極、暗黒大陸みたいになってます。
全員辮髪というのはちょっと。。。辮髪混じりは可(江戸時代も全員辮髪と言えば辮髪)
全然関係ないですけど、台北の民俗博物館で「世界の首狩り族の分布図」を見た時に、日本も首狩り族になってて納得しました。「あ、そう言えば、ウチらも首狩るわ」みたいな。
外から見るって大事ですよね。
〉趙萬年の文章って平べったいです。
そうですね。
士大夫層特有の「同じ単語を繰り返したら負け」の謎ルールもありませんし。報告文書ってこんなもんでしょうね。逆に新鮮です。
作者からの返信
「及~、遂~(~するに及び、遂に~す)」
こっちのほうがカッコいいですよね。
中二病的な感じで(笑)
「及」がどれくらいの頻度で並列的に使われるのかについては、私も今回調べました。
最初はやっぱり「~に及ぶ」で、結論的なニュアンスで読んでみていたのですが、ここではやっぱり並列だなと感じるんですよね。
宋代の公式文書と私的な文章と、いろいろ比べてみたいところです。
『徳安守城録』も読もうかと思っています。
実は宋代はそこまでしっかりやってません。
翻訳仕事の都合もあって、結局いちばん読んでるのは清代(考証学エッセイと漢方薬関係)じゃないかな。
何というか、趙萬年の文章って平べったいです。
特にこのへんの事実報告の羅列のあたりは、雛形があれば初心者さんでも簡単に返り点を打てるだろうなと思います。
【再返信】
ざっくり「漢文」と言っても、時代幅もあれば個々人の書き癖もあり、各言語ごとの訛りもありますよね。
私はモンゴルだったり高麗だったり朝鮮だったり日本だったり満州族だったり、訛った漢文ばっかり読んできたクチです。
アタマは辯髪(いろんなタイプあり)だらけですね。高麗・朝鮮以外は。
首、刈りますね。
私のタブレットもPCも、漢文の「解釈」をしたいのに先に「介錯」を候補にあげるくらい、首を落としたがっています(違)
『守城録』シリーズ、読みたいなあ。
でも、この時期は締め切りが目白押しでバタバタですー。
編集済
原文への応援コメント
こんばんわ。
今回は事実を記載する定型文が多かったですね。
超訳のコメントで話題になった箇所を見てみました。
▼時有番軍在地名海子裏往來
時に番軍の海子と名づくる地の裏に在りて往來する有り
なかなかの悪文です。
この解釈はちょっと複雑な入れ子構造になっておりまして、模式図として書くとこのようになります。
時有【番軍】往來
⎿在【地】裏
⎿名海子
主文は、時有番軍往來=時に番軍の往來する有り、となりますが、【番軍】は「在地裏」に修飾され、【地】は「名海子」に修飾されている、と理解するのがよいように思います。
次に、”海子”の解釈ですが、二十四史の初出は「超訳」でも言及されているとおり、『元史』のようです。
順帝至正十四年の是歲條に次の一文があります。
帝は內苑に龍船を造らしめ、內官供奉少監の塔思不花に工を監するを委ぬ。帝は自ら其樣を製り、船首尾長一百二十尺、廣二十尺、前は瓦簾棚、穿廊、兩暖閣、後は吾殿樓子、龍身并びに殿宇は五彩の金粧を用い、前に兩爪有り。
上には水手二十四人を用い、身に紫衫を衣て金荔枝の帶をす。四は頭巾を帶び、船兩旁下に各々篙を執るもの一あり。
後宮より前宮山下の海子內に至り、往來して游戲し、行く時、其の龍首、眼口、爪尾は皆な動けり。
元代は守備範囲外なので上文の意味を詳しく把握はしていませんが、問題は最後の一文だけです。後宮からおそらく前庭にある海子まで船を往来させて楽しんだことが分かります。
この「海子」は明らかに「池」です。
モンゴルでは「海子」は大きな水たまりを指すという「超訳」のご説明のとおりですね。
さて、『宋史』には「海子」の用例がないことを考えますと、「地の海子と名づくる」で省略されている主語は漢人ではなく番軍であると考えられますから、ここで言う「海子」は地名ではなく、一般名詞と考えるのがよいと思われます。
意訳すると次のようになりそうです。
ちょうど金兵が「海子=池」と呼んでいるところをウロウロする金兵がいた
無名の沢を金兵たちが便宜上「海子」と呼んでいることを捕虜から聞き知り、阿萬はこういう書き方をしたのかも知れませんね。
【返信を受けて】
お役に立ったなら何よりでした。
「柤中」もそうですが、「地名〜」の表現は伝聞だけで実見していない地名や公式記録に載らない通称に使われる用例が多いように思います。
著述者が実見していないことから、「なぜここだけそんな曖昧な書き方をするのか?」という違和感は当然かと思います。
〉ここも趙萬年自身の文章でないものが原本として存在するのかもしれませんね。
冒頭に定型文が多いと書いた時、この文章は軍功を記録した簿冊からの引用ではないかと踏んでいました。
軍勢には軍功と軍令を記録する軍官がいたらしいというのは、『續三國志』の「第百十回 晋の王侯は先鋒を択ぶ」に以下の追記を加えた際に認識しました。
▼「軍政司」は軍令を記録する官、「紀功主簿」は軍功を記録する官と考えるのがよい。
だとすると、原文の記述にも生かされたはずであり、勢い定型文が多くなるのは当然かと思いました。
原文は回顧録のような個人的記録ではなく、軍功簿や軍令簿を使って編纂された記録と考えるのがよさそうですね。
作者からの返信
解釈をいただいて、謎がいろいろと氷解しました。
ありがとうございます!
「地、~と名づく」に読めなかった理由は、「なぜここだけそんな曖昧な書き方をするのか?」でした。
襄陽付近の陸地も水場も、ここ以外は固有名詞が上がっているのになぜここだけ? と。
「海子」という表現・発想をするのが異民族由来だとするなら、ここだけ違和感のある文章になるのも辻褄が会います。
趙淳の台詞や手紙がどうやら引用のようだ、という推測が立つ箇所もありましたし、ここも趙萬年自身の文章でないものが原本として存在するのかもしれませんね。
該当箇所は訓読のほうだけ修正を加え、超訳文はそのままにしておきます。
本当にありがとうございます!
編集済
原文への応援コメント
こんばんは。
今回も読み応えありますね。しかも、宋代以降の漢文の苦手な側面が出てきた感じです。
「回」は回帰のように「返」と同じく「出た場所に戻る」以外に、「転」に近い「向かう先を変える」という場合もあるように思います。用例は回頭が近いのかなあ。「自青泥回去救援」は後者でしょうね。
ただ、訓じるとともに「回りて」なので判断は文意によるよりないトラップ仕様です。
「了」は講談調では「了はる」とする例が多いのですが、日本語は完了形と過去形の別が曖昧なので、翻訳上は文末が過去形になるだけ、江戸時代は無理くり読んでいたわけですが、訓読上はなくす方がいいのかなあ。
そうなると、秦漢以前の「焉」が文末にあって読まない場合と扱いが近くなりますね。
「歸得」「斫到」「奪到」あたりになると、白話の翻訳が混じってやりにくくなってきます。無理やり訓読できても細かいニュアンスまでは伝えられません。
お手上げです\(T-T)/
以下、気になった点二つばかり。
▼邵世忠部弩手於灘磧上下並射、
邵世忠、弩手を部し、灘磧の上下に於ひて並射するに、
:邵世忠は弩手を配し、灘磧の上流側と下流側からともに射かけ、
この一文は微妙に読み方が分かれるように思いますが、この一文を含む一段はかなり写実的なのではないかと考えています。
遣旅世雄・裴顯並將官邵世忠從水路分劫虜賊。
:旅世雄・裴顯コンビと邵世忠は分かれて水路沿いに敵営に向かった。この時点で二段階の攻撃が計画されているはず。
旅世雄・裴顯於渲馬灘劫中、虜賊退走、奪渡船四隻・竹簰筏一坐。
:旅世雄・裴顯コンビが奇襲、ただし、ここで言う渲馬灘は中洲と両岸を結ぶ敵営の襄陽側と推測、敵は灘磧に退いて、襄陽側に置いていた船と筏はコンビに奪われた、という理解。
邵世忠部弩手於灘磧上下並射、
:奇襲を受けて灘磧に退いた金兵に対する邵世忠の待ち伏せ攻撃、という理解。
虜賊入水甚多、餘皆狼狽敗走。
:待ち伏せを受けて対岸に向かう金兵のみなさんのご様子。
こう考えると、灘磧で逃げる金兵を待ち構えるため、邵世忠だけは船で移動していなくてはならないと考えられます。また、一時並射の用例より考えると、
邵世忠、弩手を灘磧に部し、上下より並射するに、
と読んで、邵世忠はいきなり灘磧に居て、しかも上流側と下流側の両方から射かけたんだぜ、というニュアンスを持たせる方が阿萬らしいかな、と思いました。
渲馬灘の場所を特定できなかったのが痛い。。。誤差範囲の相違ですが、ニュアンスとして、ですね。
▼不知駙馬果何人、豈非貴戚為頭目者。
豈に貴戚に非ずんば頭目の者と為らんや
:貴戚じゃない者が頭目になるはずもないだろう。
意訳してみると、軍人の阿萬が軍功による立身出世を全否定しているような。。。
豈に貴戚の頭目為る者に非ざらんや
:貴戚で頭目を務めていた者のことだろう。
こちらの方が穏当かと思いました。
【返信を受けて】
宋代までは『大漢和』でいけるかと思ったら、やっぱり『漢語大辞典』が要るって感じですか。
なんだかんだ言っても、正史は知識層が著したわけですから、白話化は遅かったんでしょうね。
異民族の漢化は社会の上層から始まって末端に向けて進み、白話化はその逆、という理解でいいのかなあ。。。
とは言っても、『宋史』になるとかなり手こずりますから、やっぱり自分の下限は唐末あたりです。訓練した時代しか読めないです。
古代から明清までカバーした戦中戦後の史学者は偉大ですね。
作者からの返信
「ニュアンス」がたくさん出てくる回でした。
連続的に読んでいるうちに、「何かこの人の文章、すごい砕けてるぞ」と感じました。
それを文法的に考えてみたら、漢文というより近現代の中国語に近い気がするという。
今回はなかったんですが、清代や江戸時代の漢文の中に出てくる字が漢和辞典に載っていないときは現代中国語(簡体字)の辞書を引くと発見できたりします。
簡体字として制定される以前に、字の崩し方や略し方には既に定型ができていたようです。
それにしても、文法が白話的に変化し出すのは元代からかと思っていたのですが、南宋で既にこんな感じでした。
「焉」という漢文らしい漢字、久しぶりに見ました(笑)
邵世忠部弩手於灘磧上下並射
詳細分析、ありかとうございます。
イメージをより正確に伝える訓読のためには、知恵を絞らないといけませんね。
「上下より並射」に書き換えました。
こうした写実的な記録を飾らない文章で残してくれているのはありがたいことです。
灘や中洲の形が当時のままとは思いませんが、現在の地図上にそれっぽい地点を想定し、それを眺めながら敢勇軍の動きをイメージすると面白いですね。
豈に貴戚の頭目為る者に非ざらんや
ですね(^-^; 直します。
反語は毎度、ぐるぐる考えてしまいます。
超訳への応援コメント
こんばんは。
〉正々堂々の一騎討ちや決闘なんかやる余裕があるのは、講談に登場する英雄だけだ
名のある武将が乱兵に害されたらみんなガッカリするじゃないですかー(笑
北方謙三『大水滸伝』はリアルに描かれていますが、戦闘の一騎打ちの多さだけは講談風ですよね。
『續三國志』のご紹介まで頂きましてありがとうございましたm(_ _)m
作者からの返信
名乗りと見せ場は大事ですよね(笑)
特撮の戦隊ヒーローやセーラームーンのような戦うヒロインが必ず名乗り、そのシーンを邪魔してはならないという暗黙のルールも、「やあやあ我こそは~」の古風な武家文化や中国講談を好んで受け入れた頃の日本人の嗜好をそのまま引っ張っている気がします。
水滸伝と名の付く作品は特に読者の誰もが「一騎当千!」を期待しますから、やっぱり、派手な一騎討ちは必須です。
『續三國志』、残りも頑張ってください!
襄陽守城録で見掛ける地名が出てくると、勝手にテンションが上がります(笑)
編集済
超訳(二)への応援コメント
夫人城と聞いて(変なところに反応する)
朱序と苻堅もこんなやり取りをしていたんだろうか、
と妄想すると萌えます。
そう言った舌戦あってこそ、苻堅は朱序を尚書に取り立てたんでしょうし。
そして夫人城、サイテーに悲惨な胸糞物語に仕立てたい
暗い情熱を胸中に秘めていますので、
夫人城に関する情報がある、と伺い、早くも涎が止まりません。
晋書朱序伝、あそこに関してのぼかし方が
どうとでも解釈できるようになっててタチ悪くて素敵です。
作者からの返信
夫人城は、私はチラッとだけ触れました。
チラッとでもいいから触れておきたかったというか。
ガッツリ語るのはお任せいたします。
胸糞物語、楽しそうです。
私はあまり(歴史上の)人を知らないので、今回こうして襄陽周辺から出会っていっている感じです。
愉快な人がいたら追跡したい。とりあえず、朱序、もうちょっとしっかり調べてみます。
舌戦、面白いですよね。
正史ではなかなかここまで具体的に描かれないですし。
編集済
原文への応援コメント
こんばんわ。
漢文訓読に参りました。
▼(*5)虜箭を打す
「打」=doなんですね。知りませんでした。
軍記物では「打ち跨る」を頻用しますが、
何を「打つ」のか不思議だったんですよね。
おそらく、この用法がそのまま日本に伝わって
「打」が日本語に溶け込んだ結果なんでしょうね。
▼仍りて木牌及び板門・窗槅を將て身を遮り、攻城器具を搬運す。
この場合、主語は前文と変わらず「賊眾」なので以下のように
訓じる方が美しいかと思います。
※これは私が「遮」を「廻」と誤読していました。。。異論なしです。すみませんm(_ _)m
仍りて木牌及び板門・窗槅を將て”身に遮らせ”、
攻城器具を搬運す。
▼公、身づから兩箭を被り、城內に射入する者、數計すべからず
ここは「被兩箭於身」と同義の文でしょうから、「身」は「身に」とするとスッキリしてよいかと思います。
公、”身に”兩箭を被り、城內に射入する者、數計すべからず
▼公、令して、先づ火藥箭を用ゐ、番賊搬する所の竹木・草牛並びに炮木等攻具を射燒せしむ。
「用」を「以」と同義に使う用法がありますので、「用て」とする方が個人的に好みではありますが、文意は相違ないので嗜好の範囲ですね。
公、令して、先づ火藥箭を”用て”番賊搬する所の
竹木・草牛並びに炮木等攻具を射燒せしむ。
>煙焰四起し、城上の弓弩炮石、一時に並びに發す。
副詞としての「並」は意外に使いにくく、「並びて」「並びに」が通常ですが、これは「並發」のままか、「一時に並び發す」の方が音読しやすいかと思います。これも好みの問題ですね。
煙焰四起し、城上の弓弩炮石、一時に”並び發す”。
▼公、四隅をして虜箭を打し、及び城外廟宇中に於ひて藏備する所の箭百餘萬を得しめ、將士に白金を犒ふこと各々差有り、士氣、大いに振るふ
ここは解釈が分かれるところです。
以下、解釈してみまひた。
公、令して”四隅に”虜箭を打”さしめ”、城外廟宇中に於ひて藏備する所の
箭百餘萬を得”るに及び”、將士に白金を犒ふこと各々差有り、
士氣、大いに振るふ
最初は「四隅」を「四隅を守る人」と解するか、場所と解するかの相違ですね。ここは微細ですが、次で解釈が分かれます。
公は令して「打さしめ」ることはできても、「得さしめ」ることはできないと考えると、「令して」の及ぶ範囲は「打」にとどまり、その結果として「得る」に「及び」、その褒賞として「白金を犒ふ」たのではないかと考えたのですが、如何でしょうか?
(ちょっと自信なし)
▼弩手を部して乘舟して渡る所の處に往き、要ず之を截射せしむ
ここは船で渡渉地点に向かっているところから、「要」は「要えて」と読んで「待ち伏せをした」と解するのがよいかと思います。
弩手を部して乘舟して渡る所の處に往き、”要えて”之を截射せしむ
一つの漢字に色々意味があるので、訓読は頭を使いますね。今回は読みごたえがありました。しかし、「遮」と「廻」を読み間違えるとは。。。
【返信を受けて】
ご確認ありがとうございます。
〉何が引っ掛かったかというと、「及」の使い方でした。
解釈の分岐は地味にこの「及」にあります。並列、範囲の到達点、行為の起点と好き放題に使われる厄介な言葉です。今回は並列と行為の起点に解釈が分かれましたね。
単独の人が著した文章なら書き癖から考えて用例に従うのが常道ですから、並列の方が説得力あります。
〉解釈にインスピレーションやテレパシーが必要となる
当時の人にお近づきになれた感じがして訳者には面白いところでもありますが、正解は藪の中です。
また、判断に苦しんだ際には用例からの類推が必要なので、一部を読んでも正しい解釈にたどり着けないところも、漢文の厄介なところです。
他の言語もそうなんでしょうけど、漢文は同じ字が文中の位置によって名詞、動詞、副詞と使い分けられますから、甚だしいんじゃないですかね。
「虜兵」と「虞兵」は誤認待ったなしですね。並べて書いても分かりにくい。。。
どんだけ頭をひねっても訳せない場合、だいたいこれが潜んでいるんですよね。
今回もありがとうございました、勉強になりましたm(_ _)m
作者からの返信
いらっしゃいませ。
今回、盛りだくさんでしたね。
訓読ありがとうございます!
「打」
現代中国語からの類推で「do」の意味だろうと当たりをつけて調べたらビンゴでした。
が、近代的な俗語かと思いきや、宋代には既にその用法があったので驚きました。
「身」
機械的に「みずから」と読んでしまいましたが、「身に」のほうがスッキリしますね。改めます。
「用」
気分によって「もちいて」「もって」、両方やります(笑)
『襄陽守城録』では全て「もちいて」にしていたはずです。
「並」
これも「みずから」同様、機械的に「ならびに」としましたが、「並發す」とかにするほうがスマートですね。改めます。
「四隅云々」
漢文特有の「ちょっと言葉が足りないからいろいろ読める」パターンですね。
まず「四隅」は「四隅を守る人」として解釈しました。
箭を獲得した場所は、前半は城内、後半は城外。
同時に別々のグループが動いて箭を獲得したイメージでした。
そして以下の文なんですが、確かここは、先の方まで読んだ後に戻ってきて訓読し直した箇所の1つです。
何が引っ掛かったかというと、「及」の使い方でした。
趙萬年の書き癖として、文章の並列のときに「及」を使う傾向があるので、「~するに及ぶ」から今の形に書き換えました。
といって、全部が全部、並列であるとも限らないんですが。
褒賞金のくだりは、切ろうかどうしようか悩みつつ結局、文章をつないでしまったんですが(だって主語が「公」のままだし)、箭の獲得に対してではなく、今回の戦闘を乗り切ったことに対してのものと解釈しました。
それにしても、本当に、いろんな角度から解釈や検証ができてしまいますね。
できるだけわかりやすい形に訓読していきたいものですけれども。
うーん……ほりゅう( ・∇・)!(頭が働かない時間帯です)
「要」
これも機械的に読んでしまっていました。
待ち伏せという解釈がよさそうです。改めます。
漢字という表意文字の持つ難しさですね。
解釈にインスピレーションやテレパシーが必要となるケースは、教科書に掲載できるタイプの技じゃないですし。
謎な見間違えが発生すること、よくあります。
しんにょう等の「足が走っている形」シリーズはシルエットが似がちだから、あるあるです。
私が本テキストでいちばんタイムロスした見間違えは、本格的な戦闘開始以前、呂渭孫のクーデター未遂事件のときに城内に「虜兵」がいて、かなり無理やりな解釈の超訳文を作った後に「虞兵」であることに気付いた件でした。
ひとまず今はこのあたりで。
応援コメント、というより勉強会かゼミか演習の議論、ありがとうございます!
【再返信】
こちらこそ、毎度たくさん勉強させていただいています。
これ以上ないくらい「読者ありきの漢文」なので、一人でやるときとは比べ物にならない緊張感があります。
いい意味の緊張感です。
私の場合、自分用の漢文を読む場合には「ざっくりした意味さえわかればいいやー」と荒っぽいことをしてしまいます。
機械的に読むせいで美しくない訓読文になる、あの癖です。
「及」の解釈論に至るまでの諸々、自分の中では新鮮な刺激と言えるくらいに、ずいぶん丁寧に思考しました。
こういう経験は、一人では得難いです。
本当に、ありがとうございます。
m(_ _)m
↑
ここで拱手とか抱拳とかの顔文字がほしいですね(笑)
編集済
原文への応援コメント
「鵝車」がおもしろそうだったので用例をちょっと調べてみました。
『新唐書』南詔傳
「膏炬を投じ、車は焚けて箱間の蠻卒は盡く死す」
箱の中に人が入って押していたことは確定。
『金史』完顏鐵哥傳
「匡の德安を圍むに鐵哥は攻城を總領し、壘を德安の南鳳凰臺に築く。城に並びて甬道を作り、鵝車を立てて樓に對して之を攻め、張統制の兵を擊ちて走らす」
「立てて」と「樓に對して」から高さがあったと推測できそうです。
雲梯と併記される事例が多いのも傍証になるかも知れません。
『金史』を読んで思い出すのが「樓車」ですが、用例を比較すると「樓車」は『史記』から『新唐書』までに用例があり、「鵝車」は『舊唐書』から用例があるようです。
古代は「樓車」と呼んでいたものが、唐代以降は「鵝車」とも呼ばれるようになり、五代を経て「鵝車」に一本化されたのではなかろうか、というわりとどうでもいい仮説が立つかも知れませんね。
下部は車で上部は雲梯のような梯子形状になり、上からの偵察や城楼への攻撃に使われていたのかもなあ、というように思いました。
それが鵝鳥に似ているかと言われると、超微妙だなあ。。。
【返信を受けて】
城郭都市なら樓車の発達は必然ですよね。
〉鵝車は箱からヒョロッと首(梯子?)が伸びた格好が、ただの箱形とおぼしき洞子とは違う
その解釈が分かりやすそうですね。
首があるから鵝鳥、というわけで。
〉通史的に兵器の用例を調べてみるのはおもしろそうですね。
史料の少なさがネックになりそうですが、この辺りは歴史研究の死角になっていますし、ニーズもありそうです。
しかし、武器も無闇に多いですからね。
やるなら相当に時間がかかりそうです。
分からないことが多いです、ホントに。
作者からの返信
おおー、すごい!
おもしろいです、ありがとうございます!
樓車‐鵝車の関連についての仮説、なるほどです。
鵝車は箱からヒョロッと首(梯子?)が伸びた格好が、ただの箱形とおぼしき洞子とは違う、という感じでしょうか。
鵝鳥……。
通史的に兵器の用例を調べてみるのはおもしろそうですね。
時間があるときに挑戦してみたいです。
本気でやったら、かなりゴツい研究プロジェクトに発展しそうですが。
小説・漫画・アニメ・ゲーム・実写と、いろんな方面から需要がありそう。
一人では調べ物の手が回らなかったり意識が行き届かなかったりするので、こうして補足していただけるのはありがたいです!
編集済
超訳への応援コメント
〉そいつが腰に提げていた木製の盾、何か書いてあるから気になったんだけど。
後段が分からないからアレなんですけど、原文を読んだ際には木牌の解釈は防牌ではなく牌印の方で理解していました。
まあ、割符かなんかやろうな、と。
天使(笑)である、腰から下げている、番書されている、赤い紐をかけている、これらから考えると防牌の解釈にやや違和感がありますが、どんなもんでしょう?
番書が伏線で後段に防牌の由来が明らかになり、その特殊能力で金軍が退いていく。。。とかは考えにくいですか、そうですか。
【返信を受けて】
ご確認、ありがとうございます。
用例から類推できたわけですね。
阿萬の語彙から考えると、割符と盾を同じく木牌と表す/表さないは判断が難しいかもです。
違うけど似てるから木牌でいいっしょもあり、同じだからそのまま木牌ですもあり、あとは語彙と阿萬の性格次第ですから。
阿萬ボキャ貧説をとれば、推測されている盾型の表象物という解釈が一番しっくり来ますが、軍人は関津や搉場に配されることもあるはずですから、用語として割符を知らないはずはないですね。
あ、でも金の表象制度に詳しいとは限らないから、可能性はなくもないのか。。。なんか分かんないけど木製で盾型だから木牌なの!的な。。。
いわくありげですが、阿萬にはどうでもいい話ですしね。
何しろ、完顔なんちゃらですから(笑
〉阿萬は投げっぱなしです。
戦闘中に使うと全員のHPを回復する盾ではないんですね。。。
作者からの返信
ありがとうございます。
私も最初は割符として訳していたんですが、この段以降にも「木牌」が出てきて、それらは明らかにすべて盾なんですよね。
同じ「木牌」という単語で全く別のものを指すとも考えにくく、盾のほうを採用しました。
ただ、この段の「木牌」は腰から提げてたり文字が書いてあったり、明らかにいわくありげだし、ただの盾とも思えませんよね。
身分を示す宝剣のように、実用ではなく意匠化した盾っぽい何かのことを「木牌」と呼んだのか? とか。
ワカラン ┐('~`;)┌
これ、普通の歴史小説やファンタジー小説だったら美味しい伏線なんですが、阿萬は投げっぱなしです。
なんか勿体ない。
【再返信】
「金などの異民族国家は進んで漢化した」というのが常識ではありますが。
その実、服飾などはもとの民族衣装のままの人も多かったのかもしれません。
だとすると、天使(笑)のファッションが阿萬にとって「何じゃこりゃ」だった可能性もあり。
何にせよ、わざわざ「変な言葉が書かれた木牌」を特記するくらいなので、印象には残ったのでしょう。
だったら、もっとしっかりわかりやすい言葉を選んで描写しといてよ、と思いますが。
ボキャ貧説(笑) 実際、知らない字があんまり出てこない文章ではありますよね。
HP回復の盾!
おおー、さすが天使(笑)のアイテム!
……なんて800年後の東夷にネタにされるとは、当の本人たちは想像もしなかったでしょうね。
編集済
原文への応援コメント
いよいよ面白くなってきましたね。
虜有三百餘騎來掩襲、
虜、三百餘騎もて來きたりて掩襲する有り、
「もて」は総じて動詞の前に名詞がある際に使いますな。
この場合、「有」が動詞で「三百餘騎」が補語、
という語順なので、
虜より三百餘騎の來きたりて掩襲する有り、
と自分ならするように思います。
「虜より」は反則くさいですが、
分かりやすいからいいでしょ、と。
許進殺賊五人、各梟首以歸。
其間二人獨衣戰袍、必頭目人也。
許進、賊五人を殺し、各々梟首して以て歸す。
其の間の二人、獨り戰袍を衣するは、
必ず頭目の人なり。
音読すると「二人か一人かはっきりしなさい」と
言われそうな阿萬の悪文(笑
「獨」は限定「だけ」の意味と解して殺し、
其の間の二人のみ戰袍を衣するは、
と、音読するならやっちゃいますね。
虜賊數千人と弓弩交々射し、辰自り酉に至りて、
「こもごも」「より」がルビずれてます。
下文の「往来転輸」と「上流自り」も同じく。
漢字つづきの一部にふるとルビがうまくいかない時があって、
どうもよく分かりません。
サイトのルビの区切り方を改善して欲しいですね。
便往來轉輸。公令以舊船載油灌乾草、
遣習水人自上流放船、
將至浮橋、焚草船燒橋、舟人即浮水登岸。
お約束ですね。
浮橋をかける際は火船を防ぐため、
上流の水面下に鎖を張りましょう。
備えがないということは、タコ金のみなさんは漢人の協力は
得られていなかったんでしょうね。。。
【返信を受けて】
原文に忠実に、と昔は考えていましたが、
ニュアンスまで伝えるには文法や慣用から
逸脱するのもやむなし、となってきました。
読みつづけて分かるようになる部分もあり、
そこまで伝える方が意味があるかな、と。
漢文特有の主格助詞の省略もなるべく避け、
漢文調を出したい時だけになりつつあります。
すべて分かりにくい、というだけの理由です。
「獨」はonlyと同義と解せますから、
助詞に反映するだけで十分と考えます。
必ずしも「獨り」を訓読中には要さない。
「令」もmakeと同じように扱っていますから、
「令む」と書かない以上は省略されており、
「於」に至っては「〜を」を「〜に」に変える
だけで訓読に反映されたことになりますよね。
それを問題視されることもありませんから、
まあそういうことだろう、と。
その分、注釈が必要な場合も出ますが、
これはまあやむを得ないところですね。
以上、蛇足でした。
【再返信を受けて】
大学でお馴染みの輪読会の効果は実に
これですよね。
マジメにやっとけばよかった。。。
こういう議論は理解を深めるのに大変
有用ですからありがたいですm(_ _)m
作者からの返信
ありがとうございます。
訓読は結局、日本人にとって便宜を図るための特殊な読み方だから、日本語としてわかりやすいようにある程度柔軟にやってしまってもいいのかなと最近よく思います。
三百騎のくだり、ご提案どおりに修正しますね。
読みやすさ第一!
「ふたりひとり」はどうしてくれましょう(笑)
そもそも漢文の「獨」と日本語の「ひとり」は語感やニュアンスが違うから、地味に読みにくい字ではありますね。
ルビのズレ、ご指摘ありがとうございます。
〡漢字《ルビ》
↑の〡を入れ忘れるんですよね。
慌てて作業するとこうなります。
お約束の燃え盛る船です。
中国の戦では、いろんな場面で火攻めが基本ですね。
襄陽まわりの水上戦を見ていると、地元軍は敵なしです。
【再返信】
「獨」の扱い、なるほどです。
こういうこまごまとした、実際に文中で出くわさないとわからない「難しさ」は、その都度考えて対処して最適な方法を探り当てていくべきなんでしょうね。
一人でちまちま漢文を読むのと違い、やはり色々と勉強になります!
ありがとうございます(* ゚∀゚)
編集済
原文への応援コメント
〉統領扈立並びに敢勇軍の茶商廖彥志・路世忠・張聚等を差し、
〉千人を部押して南門を出で、虎頭山等の處に至りて寨さいを劫せしむ。
上文の「差」も使役ですよね。
差遣、差配あたりが同義だと思いますが、
意味的に「遣」と同じなので、文末では
「せしむ」にせざるを得ないことが多く、
訳す時はだいたい使役扱いにしています。
漢文好きの慣用みたいなものですが、
一般的ではないんでしょうね。。。
【返信】
「差し遣わす」だと耳馴染みがあると思うのですが、
「指差してそっちに行かせる」と思われがちです。
本当は違うでしょうけど、これも一種の死語ですかね。
嗚呼、漢文脳。
作者からの返信
ああ、「差」は確かに!
「差」って「オーガナイズする、マネジメントする」のニュアンスを含みますよね。
この感覚、漢文脳の人にしか伝わらないんですよね。
「差配って言葉があるやろ?」と言ったら、
「ごめん、現代語に直して」と一刀両断されたことが。
【再返信】
漢文脳だけが理解できる死語って割とあるようです。
廃れゆく方言みたいな何か、ですね。
20世紀後半に生まれたはずなのに、なぜ数世紀分のジェネレーションギャップを感じながら生きているのか。
編集済
超訳への応援コメント
宋代では外輪船が一般的なんですね。
外輪船の使用は意外と古く、『旧唐書』
李皋傳に二輪船の記録があります。
これは船の側面に車輪を付けてそれを
踏んで動力にしたようです。
サイズについての記述がありませんが、
戦艦と書いていますから小さくはない
でしょうね。
さらに晋代にまで遡ると言いますが、
こちらの史料は未確認です。
李皋傳では工夫して造ったような記述
なので、一般に通行したとは、とても
思えませんが。
【返信】
> 山形欣哉氏の古船復元研究の本にお世話になりました。
ご教示ありがとうございます。
山形欣哉著『歴史の海を走る -中国造船技術の航跡-』
こんな実に面白そうな本を出されていますね!
欲しいなあ、古本屋さんにお願いしてみよう。
(古書店利用保存推進派)
『天工開物』まで技術書がほとんど残っていませんから、
中国史の問題はやはり技術軽視に尽きますね。
史書を書き残すのは士大夫だから仕方ないんですけど、
情景を想像できないのがこちらとしては困りものです。
作者からの返信
船の描写自体、あんまりないんですけれども。
海と川では船の設計の発想が違いますし、最初はピンと来なくて、古いのから新しいのまでいろいろ船の画像を検索してみた思い出があります。
琵琶湖を走ってる船は外輪船ですね。あの舷側が低いフォルムは海船では見掛けないので、なんだか不思議な形に思えます。
船や攻城兵器の開発の過程は、なかなか具体的に追い掛けられませんね。
数字の記録もきわめて非常に大雑把ですし。
船と言えば、在学中には、山形欣哉氏の古船復元研究の本にお世話になりました。
工学部の図書館にしか入っていない本だったので、わざわざそちらへ借りに行きました。
【再返信】
山形欣哉氏の本、楽しいんですよ!
のりものずかんって眺めているだけでも楽しいですから(笑)
いわゆる理系分野に関しては、地図もけっこう悲惨ですよね。
いつまで経っても「イメージ図」以上の地図を描いてくれない。
モンゴルの頃に凄い地図ができたと思ったら、明代にはまたイメージ図に逆戻り。
困ったもんです。
編集済
原文への応援コメント
『元和郡縣圖志』や『方輿勝覧』をあたってみましたが、華泉殻は不明でした。
誤記を疑うなら、「殻」が怪しいのですが、「穀」とすると筑陽になりますから、いささか遠すぎるきらいがあります。
赤岸と漁梁平が近そうなので、萬山と筑陽はちょっとないなあ、と思います。
華泉が相変わらず不明ですし。。。
宜城は華と泉を含む旧名を持つようなのでそれかと思いましたが、城のほぼ真南なので却下となりました。
結局は不明。
さて。
西自萬山華泉穀、東自赤岸漁梁平、
ですが、赤岸と漁梁平がともに城の東南にあるとすると、並列と考える方がよいかと。
そうなると、
西は萬山、華泉穀より、東は赤岸、漁梁平より連珠して
の方が意味が通るように思います。
ちなみに、『元和郡縣圖志』には朱序が苻堅に攻められた際、丹砂を使って敵兵を燻し、それから付近の土は色が赤い、という記述がありました。
南岸の土は鉄分が多いんでしょうね。
【返信】
ご確認ありがとうございました。
華泉ですからね、雅名の可能性も。
殻は誤字誤植に加えて当時の方言
なら手に負えませんし、博雅の士の
ご指教を待つのみ、ですね。
〉苻堅の襄陽攻めに関するあれこれ、面白いですね。
改めて調べると戦場としての歴史が長いんですね。
闇は深いです。
「襄陽マラソン」、リアルですね。
人も含めてクオリティ高くて笑いました。
関羽の顔が熟した棗のようだ。。。
最後になりますが、コンテストの結果、
拝見しました。おめでとうございます!
アンソロジー出たら買いますね〜。
【再返信】
あっ。
「東は赤岸・漁梁平自、」
末尾の〝り〟が抜けておりますよ。
作者からの返信
【訂正】11/27
2月27日付の記事を読んでいたら、
東自漁梁平至赤岸、西自萬山華泉殻
という記載がありました。
いっぺん読んだくせに忘れてゲシュタルト崩壊を起こすトリアタマでした(汗)
─────
コメントありがとうございます、お待ちしていました。
いろいろ調べるうちに混乱して、ついにはゲシュタルト崩壊してしまった箇所です。
並列の形に修正しました。
以前に「西自川蜀、東自海泗」という言い回しが出てきたし、今回も同様にシンプルに読むのがよいだろうと改めて思いました。
華泉殻は、「殻」が付く地形って何だ? という方向性で字典系を調べたりもしたのですが、結局わかりませんでした。
本テキスト、漁梁「乎」という誤植も存在したので、似たような誤記や誤植の可能性もあると思います。
嗚呼、迷宮入り……。
苻堅の襄陽攻めに関するあれこれ、面白いですね。
『襄陽府志』に載っている記事、きちんと読み直してみます。三国時代のエピソードも面白げでした。
余談ですが、昨日Twitterで
「10月29日に開催された中国の「襄陽マラソン大会」に三国人物たち(劉備・関羽・張飛・諸葛亮)が出現してカオスに」
という記事が流れてきて、添付の写真に癒やされました。
全力で以て無駄にクォリティを高めた「遊び」は大好きです。
https://twitter.com/tegenosan/status/924971290397515776
【再返信】
やっぱり特に関羽の再現メイクに笑いましたよね(笑)
襄陽、最近は大きな「映画村」的な施設ができて、空海の和製武侠映画が撮られたという話です。
古戦場巡りも含めて、本当に行ってみたい。
『いけず』への応援とお祝いもありがとうございます!
アンソロジーでは、個人的にすごく好きな作品たちとご一緒できるので、今から楽しみです。
編集済
原文への応援コメント
二箇所だけ気になりました。
公、方に郢州・德安、備へ無かるを以て慮を為す
慮の意味は「思」「企」が一般的ですが、「憂」の意味もあるので、ここではそちらを取って「慮と為す=心配事とし」の方がしっくりくるかな、と。
襄江、灘磧を多くす。
いくつか史料を見ましたが、襄陽付近には東南三十里に龍尾洲(位置から考えて『水経注』の蔡洲と推測=蔡瑁の旧宅あり)、東五里に五娘子洲(同、魚梁洲と推測=龐統の一族の龐徳公の旧宅あり)などの砂洲があり、宋代にも霖雨に没しない洲があったようです。
とすると、素直に「襄江は灘磧多し」でよいかな、と思いました。
しかし、豪族の蔡氏や龐氏の家が洲にあったということは、交通に課税してたのかなあ。興味深いですね。
【返信】
読み癖、ありますよね。
すぐ「をば」を遣いたくなるので、禁止しています。
これは明らかの講義を受けた教授の影響です。
「多くす」には「増やした」のニュアンスを感じました。
「多+目的語」で動詞の場合、「多しとす」「多とす」が
一般的に思いますが、時代によっても変わりますしね。
> 現在の地図ではさすがに灘や洲の名前までは記載されていませんが、
> いつか実際にそのあたりを散策してみたいです。
ですよねー。
楊守敬『水経注圖』は名所旧跡も記載されているので、
「行ってみたい」と思うところが多いです。
まあ、北魏末頃の名所旧跡なわけですけども。。。
作者からの返信
御指摘ありがとうございます!
「憂慮を為した」のつもりで「慮を為す」と読んだのですが、「以」があるので「と為す」のほうが文章としてしっくりきますね。
修正しておきます。
「~を多くす」だと「~が増えた」のようなニュアンスに読めてしまいますかね。
「~が多い」の意味で書いているつもりなんですが、言われてみれば奇妙な読み癖です(汗)
誰の影響なんだろう……N准教授?
この読み癖、完全に音で頭に染み付いている(演習か講義の音読で聞いた記憶がある)ので、気付いた部分は修正しますが、以後また出現してしまうかもしれません。
襄陽周辺の灘や洲は、南宋代ではひたすら戦場ですね。
龍尾洲にも、戦友の張貴が戦死したという悲しい思い出があります。
水際に限らず、賢者や詩人にゆかりのある山や史跡なども軒並みバトルの名所に。
襄陽府志などの記載を見ながら「邸宅があったなんて、今と違って昔はここも平和だったんだな」と思ったりします。
※今=13世紀
現在の地図ではさすがに灘や洲の名前までは記載されていませんが、いつか実際にそのあたりを散策してみたいです。
めちゃくちゃマニアックでローカルな地図が頭の中に出来上がりつつあります。
編集済
超訳(二)への応援コメント
こないだ言われていた韋孝寬ですね。
斛律光を追い込んだワルモノでもありますが、
宋代の記録で名が出るとはたいへん意外でした。
趙淳が名を出したのはこのあたりからですかね。
以下、『周書』韋孝寬傳より。
(訓読)
神武(高歓)は之を如何ともするなく、
乃ち倉曹參軍の祖孝徵を遣り、謂いて曰わく
「未だ救兵を聞かず,何ぞ降らざるや?」と。
孝寬は報じて云えらく、
「我が城池は嚴固にして兵食に餘有り。
攻める者は自ら勞し,守る者は常に逸なり。
豈に旬朔之間有りて已に救援を須たんや。
適に爾が眾の反らざるの危き有るを憂う。
孝寬は關西の男子なり、必ず降將軍と為らざるなり」と。
(訳文)
高歓は韋孝寬が籠る玉壁城をどうやっても落とせず、
倉曹參軍の祖孝徵を城内に遣わして伝えさせた。
「援軍が来る気配もない、どうして降伏せぬのか?」
孝寬は答えて言う。
「ワイの城と濠は堅固やし、食料もたんとあるで。
攻める側は勝手に疲れよるし、守る方は楽なもんや。
こんなすぐに援軍なんかいらんっちゅうねん。
あんさんらが晋陽に生きて還れるんかが心配やわ。
この孝寬は関西の男子やで、降伏なんぞするかいや!」
カッコイイんですけど、「関西男子」がツボでした。
昔から中国は地域性が非常に強いんですね。
【再返信】
以上、関西系の小ネタでした。
> 「夫人城」
城の西北隅、朱序のママン韓夫人ですね。
> 南宋のころは私たちが想像するより多くの
> 五胡十六国時代・南北朝時代に関する情報が
> 一般的に知られていたのかもしれません。
この一文を見てふと思ったのですが。
河北を金に奪われた南宋は、五胡に河北を奪われた
南朝と置かれた状況が近く、それゆえに五胡十六国、
南北朝の史実が必須科目のようになっていたのかも
知れません。
儒教が支配していた時代の支配層の間では「祖宗の法」が
重視され、前例があることが説得力に直結していました。
それで「古人に言あり」「史書に曰く」というように、
外から同様の事例を引いて説得する論法が多くなります。
そう考えると、南北が分断されて江南に逼塞する南宋の
士大夫が、同じ状況下の事例が豊富な分断時代の史書に
通暁することは、必然なのかも知れません。
仮説ではありますが、何となく気に入った感じです。
あ、三本の矢は私も『魏書』で見つけて吃驚しました。
毛利元就は知っていたんでしょうね。
【しつこく再々返信】
「ま↑た↓」が関西訛りだとご教示で知りました。。。
時代間の相互認識の研究はテキストマイニングのような
技術と馴染みそうですね。
最近の論文を見ていたのですが、宋代の士大夫が南北朝を
どのように見ていたか、といったの観点の研究はヒットし
ませんでした。
テキスト化された史料を処理して引用数や用語の相違を
検出して立論するような研究もなさそうです。
何となく、処理を工夫することで書誌学では有用な知見が
取り出せそうな気もしています。
比較結果は無味乾燥なものなので、そこから何を読み取るか、
というところが腕の見せどころになるのでしょうね。
そういう研究が多くなるとちょっとコワイ気もしますが。
作者からの返信
関西男子! カッコよすぎます!
ヤバい、ツボです(〃艸〃)
訳文がまた最高ですね(笑)
↑
今「最高」のところで「崔浩」先生が出てきました。ちがう。
この日記の次のページには、前秦の苻堅が出てくるんですよ。また趙淳のセリフの中なんですが。
それから、たびたび参照している『襄陽府志』にも、観光名所として苻堅絡みの「夫人城」が出てきます。けっこうしっかりスペースを取って説明してあります。
もしかしたら、南宋のころは私たちが想像するより多くの五胡十六国時代・南北朝時代に関する情報が一般的に知られていたのかもしれません。
それは堅めの歴史書としての体裁かもしれないし、現代の私たちが戦国武将や幕末の志士についてある程度ふつうに知識を持っている感覚かもしれないし、三国志の講談が流行していたのと同じ路線のヒーロー物エンタメの扱いだったかもしれない。
実態を知るには、今のところあまりに情報不足ですが。
そういえば、南宋モンゴル戦争での襄樊籠城戦のラスト(1273年)は、アリハイヤが呂文煥の前で「箭を折りて誓いを為す」ことで、降伏した襄陽勢の身柄の保全を約束します。
この「折箭為誓」も、注釈や辞書によると、出典は『魏書・吐谷渾傳』の阿豹のエピソードだそうです。
阿豹のエピソードは日本のいわゆる「三本の矢」なんですが、明代に『三国志演義』等が成立する頃には漢族の間で市民権を得ていた模様ですね。
五胡十六国時代・南北朝時代の情報に、思わぬところで出会った話でした。
【再返信】
そういえば私、漢文を訓読するときだけは微妙に関西訛りになるんですよ。
漢文の指導をしてくださった先生、授業の中で訓読をよくなさっていた先生が軒並み関西圏の訛りをお持ちだったので。
例えば「亦」が「ま↑た↓」になります。
>河北を金に奪われた南宋は、五胡に河北を奪われた
>南朝と置かれた状況が近く、それゆえに五胡十六国、
>南北朝の史実が必須科目のようになっていたのかも
>知れません。
腑に落ちますね!
こんにちの教科書で知られている宋王朝の姿以上に、当時の彼らにとって金やモンゴルの脅威は大きくて現実的なものだったのではないかと思い直しています。
この件、研究テーマとして頭に引っ掛けておいたら、今後、南宋代や元代の資料を読んでいく上で視野が広がりますね。
またどこかで同じようなネタを拾えないかな。
こういう超時空クロスオーバーが成立すると、すごく気持ちよくて面白くて楽しいです。
編集済
原文への応援コメント
他の人の訓読を読むのは楽しいですね、
完顏相公、招撫して打話するを請はんと欲す
この場合、招撫するために打話しようと誘っていると思うのですが、訓読は招撫してから打話しようと誘っているように読めてしまいます。
完顏相公、招撫するに打話せんと(請はんと)欲す
の方がいいかな、と思いました。
この語順は漢文の悪癖で、因果関係と
語順が逆になっている表現はよく見ます。
ただ、これをやると嫌がる人もいます。
個人的にはあんまり違和感ないけどなあ。
文法的にもおかしくないはずだし。
()はなかなかの悪文なので、省いても
いっか、って感じで。
省いても意味は変わりませんしね。
【再返信】
そして上から素直に読んでいった結果、日本語として変なところが出る
これは本当にそうで、事後に記述しているから御当人は違和感がないんでしょうけど、記事ではじめて接する側としては、「待て待て」ってなります。
この因果関係と前後関係への無頓着さが、「東洋的停滞」の原因なのでは?とか勘繰りたくなります。
和文は意外にその辺はキッチリしている印象なのですが、量が足りないから印象止まりですね。
しかし、ハオハオとは。。。宋代の史料でも白話表現が入ってくるんですね。意外の感がありました。
作者からの返信
ああ、本当ですね。
語弊があるので改めます。
ありがとうございます!
「、」の位置で文章のニュアンスが変わることは多々、「請」「欲」の係り方がスマートに書き下せないことも多々。
個人的には、可能な限り「下から上へ」のアクロバティックな返り方を避けるほうが好みです。
(そして上から素直に読んでいった結果、日本語として変なところが出る)
この文、「請」か「欲」か、片方だけでもよかったんじゃないでしょうか。>趙萬年氏
【再返信】
一文字「好」だけなら「よろしい」の意味に読めるから、最初は二文字を「よしよし」にしていたのですが、それはそれで何か違和感があり……やっぱりハオハオだと思うんです。中国人が句読点を打ったテキストを参照すると、2種類ともそうなっていましたし。
元代に入ると、白話とモンゴル語のミックスで凄いことになるんですけれども。もはや漢文と呼んでいいのか? というレベルです。
「待て待て、今、なんかいきなり主語変わったろ?」みたいなこともありますね。隠れ受動態とか、隠れ使役形とか。
時制や因果関係、無頓着ですよね。「ニュアンスから空気読め!」みたいなノリがあって、テレパシーを受信できないときはさんざん苦労します。
和文は、研究としては行政系の書簡や裁判文書みたいな定型文しか読んだことがないんですが、高校時代の古文で平安時代の恋愛小説が全然わからなかったことを思い出しました。あそこまで古い文章だと、いろいろジャンプしていきなり結論だったりしますね。
時代が下れば、苦手な恋愛ものでももっと読みやすい文章なんでしょうか。
超訳(二)への応援コメント
杉山正明先生のモンゴル史観、私も大好きですv
中央アジア側、遊牧民側からみた史観というものが(^^)
スミマセン、ちょっと嬉しかったので、出しゃばっております(照)
作者からの返信
杉山正明先生の歴史観、中華主義や欧米中心主義の王道をひっくり返す視点が面白いですよね。
杉山先生は、学生運動が活発すぎて授業がろくにおこなわれなかった学部生時代、たまたまバーで中東からの留学生と仲良くなってペルシア語を習得し、これを研究の根幹に据えることにしたそうです。当時、教える立場にある人は誰もペルシア語を理解していなかったらしいですが。
杉山先生が東洋史研究室に入ったのは「やりたいことを何でもやっていい」と東洋史の先生に「そそのかされた」からで、もしもその緩さやいい加減さがなかったら、あの面白い研究は生まれなかったことになります。
杉山先生、直接の師匠です。
『海の国の記憶 五島列島』に私が登場します。
私も「何でもやっていい」と杉山先生に言っていただいたから、本当にいろいろ手を出すことができました。恩師です。
超訳への応援コメント
愛宕元先生の門下だったんですねえ。
羨ましい。
城郭都市で通史を書ける日本屈指の碩学ですから、講義も楽しかったでしょうね。
『唐両京城坊攷』を愛読してました。
しかも、城郭都市とモンゴル史だと、御尊父の松男先生とも被りますね。
大学時代のノートは私もまだ持っています。
同じく京都出身の先生でしたが、『水経注』に強い先生でしたから、もっと歴史地理を掘り下げておけばよかったと後悔しきりです。
今になって『讀史方輿』や『元和郡縣圖志』をひっくり返すことになるとは。。。
学問の楽しさは、本当に大切な人と同じで離れてから分かるんですよね。
うまくいかないものです。
作者からの返信
離れてから分かる、ですよね。
もう1度しっかり勉強しに行きたいです、大学。未練たらたら。
愛宕松男先生訳注の『東方見聞録』は愛読書です!
マルコ・ポーロの旅、よた話もあるとはいえ、楽しすぎます。まじめな内容もしっかり残しつつ、各地で女性をナンパしているあたりはさすがイタリア男というべきか。
愛宕元先生の講義は、板書が現代中国語の簡体字でした。
普通には読めない字も多々出てくるので、ついていけない学生もわんさかいましたが、私は逆に燃えました(笑)
必死でノートを取ったおかげで中国語の勉強もはかどったのはありがたかったです。語学は大学生にとって死活問題ですから。
陵墓をテーマにした講義もありました。陵墓というより「盗掘史」が正確ですが。
いつ誰がどの時代の何皇帝の墓を盗掘してこんなことが起こった、という歴史をまとめた本を中国で入手してこられたそうで、それを教科書にして原典と考古調査の結果に当たるのが講義内容でした。
カラクリ仕掛けの弩や毒の霧や呪いや幽霊やゾンビがしょっちゅう飛び出すフリーダムさが素敵すぎました。
城郭にせよモンゴルにせよ、先行研究に触れれば触れるほど、学問への未練たらたらが止まらなくなります(苦笑)
編集済
原文への応援コメント
襄樊籠城戦!
『続三国志』に「襄陽大砲」という語が出た際におそらくここが由来だろうと思い、ちらっと調べました。史天沢増量の方向でよろしくお願いいたします(嘆願)
執筆が大変とは思いますが、開版を楽しみにお待ちしております。
南北朝末期では西魏の王思政&韋孝寛が東魏の高歓を凌ぎきる玉壁籠城戦が地味に重要だったりしますので、籠城について調べてみたことがあります。
その際に楽しかった資料2種をご参考までに。
新編諸子集成の岑仲勉『墨子城守各篇簡注』は古代の籠城を知るには便利です。断簡はありますが、何しろ貴重なマニュアルですから。
城の構造や図面なら川勝守『中国城郭都市社会史研究』(汲古書院)は明代の遺構の調査ですが、図版が豊富で妄想が捗ります。それに、明清代になりますが都市の管理や治安維持など見えにくい部分に関する論文が多く、籠城戦の際の民衆を想像する燃料に使えます。
論文も読んでみると面白いんですよねえ。
作者からの返信
あの時代のモンゴルには、クビライを筆頭に、史天沢やアフマドやアリハイヤなど、個性豊かな「食えないおっさん」たちが揃っているので、見ていて飽きません。
南北朝時代の韋孝寛、5章11月17日の記事(現時点では未公開)に出てきます。
つい最近、調べたところだったので、ナイスタイミングに驚きました。
資料のご紹介、ありがとうございます!
墨子もミステリアスな存在でもあり、惹かれますよね。ご紹介いただいた本、チェックしておきます。
墨子といえば、小説ですが、酒見賢一『墨攻』も面白かったです。
『中国城郭都市~』は大学時代に見たことがありますが、考古学と文献史学の合わせ技の研究はすごくワクワクしますね。ヴィジュアル資料はやっぱりかなりありがたいですし。
私が中国の城郭に興味を惹かれたのは、愛宕元《おたぎ・はじめ》先生の講義がきっかけです。
文献史学、考古学、建築学それぞれの成果はもちろん、中華世界の文化や風俗や伝統、中国の地理やつい最近の旅行記録まで交えて、本当に立体的に東洋史の姿を描いてみせる──という愛宕先生の講義は、高校までの授業とはまったく違うものでした。
在学中、追っかけのごとく愛宕先生の講義をすべて受講していました。ものすごく気合いを入れて取ったノートも、なかなか有効な資料になっています。お見せしたい!
超訳(一)への応援コメント
訓読を含めて楽しませて頂いております。
南北朝について調べていますが、諱と字について面白い記事がありました。
『顔氏家訓』風操篇に「南朝は字を呼ぶけど北朝は諱も字もごっちゃになってもう。。。」という感じの記述があり、三国時代以前や南朝では字で呼ぶのが一般的だったようです。じゃあ北朝ではどう呼んだか?残念ながら記述を欠きます。
字で呼ぶのはよほど親密な仲、というのは北朝由来の隋唐成立以降と考える方がいいのかも知れませんね。
中国史は奥深くて面白いです。
作者からの返信
おかしなテンションの代物をお読みくださり、ありがとうございます。
字の記事のご紹介、ありがとうございます!
興味深いです!
南北朝時代の資料は、清代の歴史家のエッセイを読み解く演習でチラッと読んだことがある程度で、ほぼ何も知りません。
折を見て勉強できたらと思います。
中国史がテーマの「研究」と中国史を扱った「小説」とでは、見るべき資料がけっこう違いますよね。
呼び名の件も、論文を書くときには一向に気にする必要はありませんが、小説では基本中の基本ですし。
歴史小説という文脈における中国史は、私はまだまだ勉強し始めたばかりです。
いろいろと御教示・御指導いただけたら幸いです。
というか、ざっくばらんに「こんなネタもあるよー」と応援コメントで追記したりツッコミを入れたりしていただけたら、ほかの読者さんが見ても面白いパネルディスカッションが成立すると思うので、どうぞよしなに。
原文(一)への応援コメント
阿曼は几帳面な性格だったと見える。
作者からの返信
よくぞここまでこまごまと書き残してくれたものです!