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原文」への応援コメント


  • 編集済

    こんばんわ。
    今回は事実を記載する定型文が多かったですね。


    超訳のコメントで話題になった箇所を見てみました。

    ▼時有番軍在地名海子裏往來

     時に番軍の海子と名づくる地の裏に在りて往來する有り
     
    なかなかの悪文です。


    この解釈はちょっと複雑な入れ子構造になっておりまして、模式図として書くとこのようになります。
     
     時有【番軍】往來
        ⎿在【地】裏
           ⎿名海子
     
    主文は、時有番軍往來=時に番軍の往來する有り、となりますが、【番軍】は「在地裏」に修飾され、【地】は「名海子」に修飾されている、と理解するのがよいように思います。


    次に、”海子”の解釈ですが、二十四史の初出は「超訳」でも言及されているとおり、『元史』のようです。

    順帝至正十四年の是歲條に次の一文があります。

    帝は內苑に龍船を造らしめ、內官供奉少監の塔思不花に工を監するを委ぬ。帝は自ら其樣を製り、船首尾長一百二十尺、廣二十尺、前は瓦簾棚、穿廊、兩暖閣、後は吾殿樓子、龍身并びに殿宇は五彩の金粧を用い、前に兩爪有り。
    上には水手二十四人を用い、身に紫衫を衣て金荔枝の帶をす。四は頭巾を帶び、船兩旁下に各々篙を執るもの一あり。
    後宮より前宮山下の海子內に至り、往來して游戲し、行く時、其の龍首、眼口、爪尾は皆な動けり。

    元代は守備範囲外なので上文の意味を詳しく把握はしていませんが、問題は最後の一文だけです。後宮からおそらく前庭にある海子まで船を往来させて楽しんだことが分かります。

    この「海子」は明らかに「池」です。

    モンゴルでは「海子」は大きな水たまりを指すという「超訳」のご説明のとおりですね。

    さて、『宋史』には「海子」の用例がないことを考えますと、「地の海子と名づくる」で省略されている主語は漢人ではなく番軍であると考えられますから、ここで言う「海子」は地名ではなく、一般名詞と考えるのがよいと思われます。

    意訳すると次のようになりそうです。
     ちょうど金兵が「海子=池」と呼んでいるところをウロウロする金兵がいた

    無名の沢を金兵たちが便宜上「海子」と呼んでいることを捕虜から聞き知り、阿萬はこういう書き方をしたのかも知れませんね。


    【返信を受けて】

    お役に立ったなら何よりでした。

    「柤中」もそうですが、「地名〜」の表現は伝聞だけで実見していない地名や公式記録に載らない通称に使われる用例が多いように思います。

    著述者が実見していないことから、「なぜここだけそんな曖昧な書き方をするのか?」という違和感は当然かと思います。


    〉ここも趙萬年自身の文章でないものが原本として存在するのかもしれませんね。

    冒頭に定型文が多いと書いた時、この文章は軍功を記録した簿冊からの引用ではないかと踏んでいました。

    軍勢には軍功と軍令を記録する軍官がいたらしいというのは、『續三國志』の「第百十回 晋の王侯は先鋒を択ぶ」に以下の追記を加えた際に認識しました。

    ▼「軍政司」は軍令を記録する官、「紀功主簿」は軍功を記録する官と考えるのがよい。

    だとすると、原文の記述にも生かされたはずであり、勢い定型文が多くなるのは当然かと思いました。

    原文は回顧録のような個人的記録ではなく、軍功簿や軍令簿を使って編纂された記録と考えるのがよさそうですね。

    作者からの返信

    解釈をいただいて、謎がいろいろと氷解しました。
    ありがとうございます!

    「地、~と名づく」に読めなかった理由は、「なぜここだけそんな曖昧な書き方をするのか?」でした。
    襄陽付近の陸地も水場も、ここ以外は固有名詞が上がっているのになぜここだけ? と。

    「海子」という表現・発想をするのが異民族由来だとするなら、ここだけ違和感のある文章になるのも辻褄が会います。
    趙淳の台詞や手紙がどうやら引用のようだ、という推測が立つ箇所もありましたし、ここも趙萬年自身の文章でないものが原本として存在するのかもしれませんね。

    該当箇所は訓読のほうだけ修正を加え、超訳文はそのままにしておきます。
    本当にありがとうございます!