原文

七日夜、遣將官王橫部官兵郭旺等三十餘人出城、燒毀雲梯・草牛等五百餘件。時有番軍在地名海子裏往來、被郭旺等追趕奪到銅鑼一面。



七日夜、將官王橫をつかはし、官兵郭旺等三十餘人を部して城を出で、雲梯・草牛等五百餘件をせうせしむ。時に番軍(*1)、地の海子裏に名づくるに在りて往來する有り(*2)、郭旺等についかんせられ、銅鑼一面を奪到せらる。




八日、探得虜賊欲從江北渡過南岸、遂差裴顯部官兵駕船迎殺之。



八日、虜賊の江北從り南岸に渡過せんと欲するを探得し、遂にはいけんを差して、官兵を部して駕船して之を迎殺せしむ。




九日、遣王橫與教頭過德部官兵四十四人過濠、燒毀雲梯百餘連、並燒草牛・土布袋等攻具。



九日、王橫と教頭過德とをつかはし、官兵四十四人を部して濠をよぎり、雲梯百餘連をせうし(*3)、連並びに草牛・土布袋等の攻具を燒かしむ。




十日、遣撥發官楊建合・千人魏仲部官兵二十五人過濠、燒毀雲梯並草牛二百餘件。


夜至四更、有虜賊駕小船六隻自上流潛來、用火箭燒北門岸下客船。城上將官呂興聞船上發喊、遂令城上弩手並射。虜退走。



十日、撥發官楊建合・千人魏仲をつかはし、官兵二十五人を部して濠をよぎり、雲梯並びに草牛二百餘件をせうせしむ。


夜、四更に至り、虜賊、小船六隻を駕して上流自り潛かに來り、火箭を用ゐて北門岸下の客船を燒くこと有り。城上の將官呂興、船上發喊するを聞き、遂に城上の弩手をして並射せしむ。虜、退走す。




十一日、遣撥發官樊興・教頭江清部官兵二十四人過河、燒毀雲梯一百五十餘連、並草牛等。



十一日、撥發官樊興・教頭江清をつかはし、官兵二十四人を部して河をよぎり、雲梯一百五十餘連、並びに草牛等をせうせしむ。




十二日、遣王橫部官兵一十四人過河、燒毀雲梯七十餘連。



十二日、王橫をつかはし、官兵一十四人を部して河をよぎり、雲梯七十餘連をせうせしむ。




十四日、遣撥發官方溥・教頭許亮・擁隊孫孝忠將三十餘人過河、燒毀雲梯百餘連。又遣路世忠・張聚・教頭徐貴部官兵五十九人、前去萬山一帶、燒毀雲梯二百餘連・木牌一百餘面・竹木草牛無數。緣累日遣兵燒毀、攻具將盡。



十四日、撥發官方溥・教頭許亮・擁隊孫孝忠をつかはし、三十餘人をひきゐて河を過り、雲梯百餘連をせうせしむ。又、路世忠・張聚・教頭徐貴を遣はし(*4)、官兵五十九人を部し、萬山一帶に前去して、雲梯二百餘連・木牌一百餘面・竹木草牛無數を燒毀せしむ。累日、遣兵して燒毀するにりて、攻具、まさきんとす。



――――――――――



(*1)

番軍


 思い付いたときに書いておく。見張り役の軍、もしくは異民族の軍。


 もし「異民族の軍」を表すなら、わざわざ「虜」ではなく「番軍」とたびたび書く意味があるのか? 見張り役のほうじゃないのか?


 と考えたりもしたが、全体的に俯瞰すると、やはり単に「タコ金軍」と言っているだけのような気がする。



(*2)


 内側。「里」「裡」も同じ意味で使われる。


 日本語でも内側としての用法があり、「脳裏」は「脳の裏側」ではなく「脳の内側」である。「まぶたの裏」も「内側」ではないかと感じる。


 余談ながら、モンゴル帝国時代の行政文書で「腹裏」という表現があるが、これは「畿内、首都圏」の意味。ペルーのインカ帝国では、「へそ」を意味する「クスコ」を首都の名とした。大地を身体になぞらえるという発想が何となく好きだ。



(*3)

雲梯百餘連


 雲梯を数えるときは「連」を使うらしい。数えたことがないので知らなかった。



(*4)

路世忠


 原文では「旅世忠」となっていたが、他所と比較して「路世忠」が正しいと判断し、改めた。『襄陽守城録』に登場する旅姓の人物は旅世雄だけだ。襄陽には、名前に「世」が付く人が多い。「忠」が付く人はもっと多い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る