十五.十二月十五日到十七日。敢勇軍リーダーズが大暴れした。
超訳
「根競べだよなあ。タコ金、しつこいっすね」
城壁の南隅に立って濠の向こうを見晴らしながら、オレは旅世雄に愚痴をこぼした。
さっき入ってきた情報のとおり、タコ金軍は、城南で無人になった紫陽観やその他の寺にやって来て、新たな攻城兵器を造り始めている(*1)。
旅世雄は、やれやれと首を振った。
「かなりの数を減らしてやったつもりでも、無限に湧いてくるよな。それはいいとしても」
「よくないっすよ」
「より大きな問題は、襄陽勢は物資の補給を断たれた状態にあるってことだ。正々堂々とやってたんじゃ干からびちまう」
「確かに」
「一方、タコ金は国を挙げて、五十万を号する大軍を送り込んできた。国家事業だけあって、物資や食糧の補給線も完備されているらしい。現地調達なんていう乱暴で不確実なことは、決して最優先事項じゃあない(*2)」
「なるほど」
「現地調達なんていう乱暴なことをしなけりゃならねぇのは、むしろ襄陽勢のほうだ。タコ金軍の寨に押し込んだら、攻城兵器をぶっ壊すだけじゃなく、奪えるものは全部奪わなけりゃならねえ。これからはそういう方針で行こうと、趙都統とも話し合った」
「ですよね。タコ金軍、忘年会でも開いて遊女とか呼んでくれねぇかな? 押し掛けてって、酒も女もご馳走も奪って帰るのに」
「おお、それいいな。襄陽でも年末年始の宴くらいは開くだろうから、酌をしてくれる女がほしいところだ(*3)」
なんて話をしたのは十二月十五日。空に架かる満月がすっかり痩せたら、新しい年を迎えることになる。
この日、趙家軍撥発官の
また、蔡孝先に趙家軍兵士五十人を率いさせて、タコ金軍が雲梯製造用に積み上げていた大竹を奪いに行かせた。タコ金軍も黙って泥棒されるわけにはいかなかったようで、騎兵百人余りが反撃してきたが、蔡孝先たちは見事に撃破。武器や鎧、
十六日の夜からは、分捕り作戦を提案した敢勇軍が張り切って出陣。ゲリラ戦が得意な地元軍の本領発揮っていうか、手際のよさはちょっと真似できねえ。
敢勇軍の
張聚は敢勇軍兵士七十三人と趙家軍の弩兵部隊の三十二人を連れて漢江を渡り、紫岩寺方面から虎頭山へと転戦してタコ金軍が就寝中の寨に攻め込み、フェルトのマント、戎衣や鎧、刀剣などの武器を強奪した(*4)。また、捕虜にされていた年寄りや子どもを十人、奪い返した。
廖彦忠は敢勇軍兵士七十二人を率いて定専寺などを襲撃。首級を二つ挙げ、馬二頭と馬具、戎衣や鎧なんかをいろいろ手に入れた。
旅世雄は趙家軍兵士六十六人を率いて、タコ金軍が山ほど寨を置く萬山一帯に攻め入った(*5)。
「雲梯に使われた木材も持って帰れりゃいいのに。勿体ねえ」
旅世雄はぶつぶつ言いながら、雲梯や盾五百個ばかりに火を放った。さらにタコ金軍が寨のまわりに巡らせていた
将官の馬安忠は趙家軍兵士四十六人を率いて霊峰寺などで暴れ、攻城兵器の見張りに置かれていたタコ金軍を追い払い、雲梯二百台余りと天橋四座を焼却した。天橋は濠に渡すためのハシゴだ。
十七日の夜、路世忠が敢勇軍兵士五十八人と趙家軍の弩兵三十一人を連れて城東の雲峰寺前に出陣し、タコ金軍の寨を襲撃したときのことだ。変わった手土産を持ち帰ってきた。
「見張りをしていたタコ金軍と戦闘になって、だいぶやっつけたんですが、身分の高そうな格好をしたやつがいたんで、つかまえてみました。李家の八男坊だそうです。父親の名は
兄貴もオレも李撻覧なんて名前は知らない。タコ金軍から引っ立ててきた捕虜にでも聞いてみればわかるかもしれないが。
「とりあえず路将軍、ご苦労だった。人質はまあ、交渉に使えそうなら使うさ」
「使えなけりゃ、城壁の上に立たせて箭よけにでも。それにしても、趙都統に『将軍』なんて言われるのは変な気分ですよ。俺や聚の字や彦の字は、もともと茶商なんですから(*7)」
いや、将軍でいいだろうよ。強ぇもん、この人たち。
――――――――――
(*1)
紫陽観やその他の寺
紫陽観や紫岩寺や定専寺や霊峰寺や雲峰寺など『襄陽守城録』に出てくる寺の名は、『万暦襄陽府志』など襄陽近辺の地理的情報に特化した資料からも発見できない。
趙萬年は一二〇六年に記録し、『万暦襄陽府志』が一五九六年に編纂され、その間に約四百年の時間差があることを考えると、寺が廃されたり名前が変わったりしていてもおかしくない。
(*2)
現地調達
攻め込んだ先で略奪をおこなわない戦争はない。
『金史』巻九十八、列傳第三十六の完顔匡の伝に、皇帝から下された「略奪したり城市を破壊したりしないように諸軍を戒めよ」という命令が掲載されている。
「賜詔獎諭,戒諸軍毋虜掠、焚壞城邑。」
棗陽、光化、神馬坡を破った後に届いた命令なので、これ以前の戦闘では常識として略奪をおこなったはずだ。白河口の対談の折、趙淳も「你將我邊民殺了甚多(超訳:貴公、此度の侵攻でどれだけの民の命を奪ったか、知らぬとは言わせん)」とキレている。
また、同じく『金史』の完顔匡の伝に掲載されているのだが、十二月には、これまでに獲得した女奴隷を百人、皇帝のもとへ送っている。
「匡進所獲女口百人。」
どちらの軍も、ただ戦うのではなく、奪うことをもおこなっている。しかし、旅世雄に言わせたとおり、前年から着々と準備を進めてきた金軍のほうが、援軍が来る気配のない襄陽勢よりも余裕があるように見える。
(*3)
酌をしてくれる女
今回の籠城では、民間人の女性も城内に避難している。水商売や風俗業の女性もそこに含まれていただろうし、軍人たちの役に立ちたいと自ら名乗り出る女性もいたかもしれない。証拠はない。
こうした「想像の余地がある部分」からエピソードやキャラクターを生み出し、資料の余白を埋めながら物語っていくのが歴史小説の手法だと思う。
(*4)
虎頭山
『万暦襄陽府志』巻六、山川によると、襄陽の西南三里(約一.七キロメートル)にある。
(*5)
萬山
『欽定大清一統志』巻二百七十によれば、襄陽の西十里(約五.八キロメートル)にある。
(*6)
李撻覧
誰?
『金史』内を調べてみたが、ヒットしなかった。
完顔匡の軍勢の中には李姓の人物が多数いるが、そのうちの誰かだろうか。もしかしたら諱(本名)ではなく、字や女真名が「撻覧」かもしれない。
(*7)
聚の字や彦の字
張聚と廖彦忠のこと。肩書は常に「茶商」とされている。役職名がなく、字などの通名を考えるのが面倒だったので、和風で古風な呼び方に落ち着い(てしまっ)た。手抜きである。
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