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2017年11月26日 17:32 編集済
こんばんは。今回も読み応えありますね。しかも、宋代以降の漢文の苦手な側面が出てきた感じです。「回」は回帰のように「返」と同じく「出た場所に戻る」以外に、「転」に近い「向かう先を変える」という場合もあるように思います。用例は回頭が近いのかなあ。「自青泥回去救援」は後者でしょうね。ただ、訓じるとともに「回りて」なので判断は文意によるよりないトラップ仕様です。「了」は講談調では「了はる」とする例が多いのですが、日本語は完了形と過去形の別が曖昧なので、翻訳上は文末が過去形になるだけ、江戸時代は無理くり読んでいたわけですが、訓読上はなくす方がいいのかなあ。そうなると、秦漢以前の「焉」が文末にあって読まない場合と扱いが近くなりますね。「歸得」「斫到」「奪到」あたりになると、白話の翻訳が混じってやりにくくなってきます。無理やり訓読できても細かいニュアンスまでは伝えられません。お手上げです\(T-T)/以下、気になった点二つばかり。▼邵世忠部弩手於灘磧上下並射、邵世忠、弩手を部し、灘磧の上下に於ひて並射するに、:邵世忠は弩手を配し、灘磧の上流側と下流側からともに射かけ、この一文は微妙に読み方が分かれるように思いますが、この一文を含む一段はかなり写実的なのではないかと考えています。遣旅世雄・裴顯並將官邵世忠從水路分劫虜賊。:旅世雄・裴顯コンビと邵世忠は分かれて水路沿いに敵営に向かった。この時点で二段階の攻撃が計画されているはず。旅世雄・裴顯於渲馬灘劫中、虜賊退走、奪渡船四隻・竹簰筏一坐。:旅世雄・裴顯コンビが奇襲、ただし、ここで言う渲馬灘は中洲と両岸を結ぶ敵営の襄陽側と推測、敵は灘磧に退いて、襄陽側に置いていた船と筏はコンビに奪われた、という理解。邵世忠部弩手於灘磧上下並射、:奇襲を受けて灘磧に退いた金兵に対する邵世忠の待ち伏せ攻撃、という理解。虜賊入水甚多、餘皆狼狽敗走。:待ち伏せを受けて対岸に向かう金兵のみなさんのご様子。こう考えると、灘磧で逃げる金兵を待ち構えるため、邵世忠だけは船で移動していなくてはならないと考えられます。また、一時並射の用例より考えると、邵世忠、弩手を灘磧に部し、上下より並射するに、と読んで、邵世忠はいきなり灘磧に居て、しかも上流側と下流側の両方から射かけたんだぜ、というニュアンスを持たせる方が阿萬らしいかな、と思いました。渲馬灘の場所を特定できなかったのが痛い。。。誤差範囲の相違ですが、ニュアンスとして、ですね。▼不知駙馬果何人、豈非貴戚為頭目者。豈に貴戚に非ずんば頭目の者と為らんや:貴戚じゃない者が頭目になるはずもないだろう。意訳してみると、軍人の阿萬が軍功による立身出世を全否定しているような。。。豈に貴戚の頭目為る者に非ざらんや:貴戚で頭目を務めていた者のことだろう。こちらの方が穏当かと思いました。【返信を受けて】宋代までは『大漢和』でいけるかと思ったら、やっぱり『漢語大辞典』が要るって感じですか。なんだかんだ言っても、正史は知識層が著したわけですから、白話化は遅かったんでしょうね。異民族の漢化は社会の上層から始まって末端に向けて進み、白話化はその逆、という理解でいいのかなあ。。。とは言っても、『宋史』になるとかなり手こずりますから、やっぱり自分の下限は唐末あたりです。訓練した時代しか読めないです。古代から明清までカバーした戦中戦後の史学者は偉大ですね。
作者からの返信
「ニュアンス」がたくさん出てくる回でした。連続的に読んでいるうちに、「何かこの人の文章、すごい砕けてるぞ」と感じました。それを文法的に考えてみたら、漢文というより近現代の中国語に近い気がするという。今回はなかったんですが、清代や江戸時代の漢文の中に出てくる字が漢和辞典に載っていないときは現代中国語(簡体字)の辞書を引くと発見できたりします。簡体字として制定される以前に、字の崩し方や略し方には既に定型ができていたようです。それにしても、文法が白話的に変化し出すのは元代からかと思っていたのですが、南宋で既にこんな感じでした。「焉」という漢文らしい漢字、久しぶりに見ました(笑)邵世忠部弩手於灘磧上下並射詳細分析、ありかとうございます。イメージをより正確に伝える訓読のためには、知恵を絞らないといけませんね。「上下より並射」に書き換えました。こうした写実的な記録を飾らない文章で残してくれているのはありがたいことです。灘や中洲の形が当時のままとは思いませんが、現在の地図上にそれっぽい地点を想定し、それを眺めながら敢勇軍の動きをイメージすると面白いですね。豈に貴戚の頭目為る者に非ざらんやですね(^-^; 直します。反語は毎度、ぐるぐる考えてしまいます。
編集済
こんばんは。
今回も読み応えありますね。しかも、宋代以降の漢文の苦手な側面が出てきた感じです。
「回」は回帰のように「返」と同じく「出た場所に戻る」以外に、「転」に近い「向かう先を変える」という場合もあるように思います。用例は回頭が近いのかなあ。「自青泥回去救援」は後者でしょうね。
ただ、訓じるとともに「回りて」なので判断は文意によるよりないトラップ仕様です。
「了」は講談調では「了はる」とする例が多いのですが、日本語は完了形と過去形の別が曖昧なので、翻訳上は文末が過去形になるだけ、江戸時代は無理くり読んでいたわけですが、訓読上はなくす方がいいのかなあ。
そうなると、秦漢以前の「焉」が文末にあって読まない場合と扱いが近くなりますね。
「歸得」「斫到」「奪到」あたりになると、白話の翻訳が混じってやりにくくなってきます。無理やり訓読できても細かいニュアンスまでは伝えられません。
お手上げです\(T-T)/
以下、気になった点二つばかり。
▼邵世忠部弩手於灘磧上下並射、
邵世忠、弩手を部し、灘磧の上下に於ひて並射するに、
:邵世忠は弩手を配し、灘磧の上流側と下流側からともに射かけ、
この一文は微妙に読み方が分かれるように思いますが、この一文を含む一段はかなり写実的なのではないかと考えています。
遣旅世雄・裴顯並將官邵世忠從水路分劫虜賊。
:旅世雄・裴顯コンビと邵世忠は分かれて水路沿いに敵営に向かった。この時点で二段階の攻撃が計画されているはず。
旅世雄・裴顯於渲馬灘劫中、虜賊退走、奪渡船四隻・竹簰筏一坐。
:旅世雄・裴顯コンビが奇襲、ただし、ここで言う渲馬灘は中洲と両岸を結ぶ敵営の襄陽側と推測、敵は灘磧に退いて、襄陽側に置いていた船と筏はコンビに奪われた、という理解。
邵世忠部弩手於灘磧上下並射、
:奇襲を受けて灘磧に退いた金兵に対する邵世忠の待ち伏せ攻撃、という理解。
虜賊入水甚多、餘皆狼狽敗走。
:待ち伏せを受けて対岸に向かう金兵のみなさんのご様子。
こう考えると、灘磧で逃げる金兵を待ち構えるため、邵世忠だけは船で移動していなくてはならないと考えられます。また、一時並射の用例より考えると、
邵世忠、弩手を灘磧に部し、上下より並射するに、
と読んで、邵世忠はいきなり灘磧に居て、しかも上流側と下流側の両方から射かけたんだぜ、というニュアンスを持たせる方が阿萬らしいかな、と思いました。
渲馬灘の場所を特定できなかったのが痛い。。。誤差範囲の相違ですが、ニュアンスとして、ですね。
▼不知駙馬果何人、豈非貴戚為頭目者。
豈に貴戚に非ずんば頭目の者と為らんや
:貴戚じゃない者が頭目になるはずもないだろう。
意訳してみると、軍人の阿萬が軍功による立身出世を全否定しているような。。。
豈に貴戚の頭目為る者に非ざらんや
:貴戚で頭目を務めていた者のことだろう。
こちらの方が穏当かと思いました。
【返信を受けて】
宋代までは『大漢和』でいけるかと思ったら、やっぱり『漢語大辞典』が要るって感じですか。
なんだかんだ言っても、正史は知識層が著したわけですから、白話化は遅かったんでしょうね。
異民族の漢化は社会の上層から始まって末端に向けて進み、白話化はその逆、という理解でいいのかなあ。。。
とは言っても、『宋史』になるとかなり手こずりますから、やっぱり自分の下限は唐末あたりです。訓練した時代しか読めないです。
古代から明清までカバーした戦中戦後の史学者は偉大ですね。
作者からの返信
「ニュアンス」がたくさん出てくる回でした。
連続的に読んでいるうちに、「何かこの人の文章、すごい砕けてるぞ」と感じました。
それを文法的に考えてみたら、漢文というより近現代の中国語に近い気がするという。
今回はなかったんですが、清代や江戸時代の漢文の中に出てくる字が漢和辞典に載っていないときは現代中国語(簡体字)の辞書を引くと発見できたりします。
簡体字として制定される以前に、字の崩し方や略し方には既に定型ができていたようです。
それにしても、文法が白話的に変化し出すのは元代からかと思っていたのですが、南宋で既にこんな感じでした。
「焉」という漢文らしい漢字、久しぶりに見ました(笑)
邵世忠部弩手於灘磧上下並射
詳細分析、ありかとうございます。
イメージをより正確に伝える訓読のためには、知恵を絞らないといけませんね。
「上下より並射」に書き換えました。
こうした写実的な記録を飾らない文章で残してくれているのはありがたいことです。
灘や中洲の形が当時のままとは思いませんが、現在の地図上にそれっぽい地点を想定し、それを眺めながら敢勇軍の動きをイメージすると面白いですね。
豈に貴戚の頭目為る者に非ざらんや
ですね(^-^; 直します。
反語は毎度、ぐるぐる考えてしまいます。