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こないだ言われていた韋孝寬ですね。
斛律光を追い込んだワルモノでもありますが、
宋代の記録で名が出るとはたいへん意外でした。
趙淳が名を出したのはこのあたりからですかね。
以下、『周書』韋孝寬傳より。
(訓読)
神武(高歓)は之を如何ともするなく、
乃ち倉曹參軍の祖孝徵を遣り、謂いて曰わく
「未だ救兵を聞かず,何ぞ降らざるや?」と。
孝寬は報じて云えらく、
「我が城池は嚴固にして兵食に餘有り。
攻める者は自ら勞し,守る者は常に逸なり。
豈に旬朔之間有りて已に救援を須たんや。
適に爾が眾の反らざるの危き有るを憂う。
孝寬は關西の男子なり、必ず降將軍と為らざるなり」と。
(訳文)
高歓は韋孝寬が籠る玉壁城をどうやっても落とせず、
倉曹參軍の祖孝徵を城内に遣わして伝えさせた。
「援軍が来る気配もない、どうして降伏せぬのか?」
孝寬は答えて言う。
「ワイの城と濠は堅固やし、食料もたんとあるで。
攻める側は勝手に疲れよるし、守る方は楽なもんや。
こんなすぐに援軍なんかいらんっちゅうねん。
あんさんらが晋陽に生きて還れるんかが心配やわ。
この孝寬は関西の男子やで、降伏なんぞするかいや!」
カッコイイんですけど、「関西男子」がツボでした。
昔から中国は地域性が非常に強いんですね。
【再返信】
以上、関西系の小ネタでした。
> 「夫人城」
城の西北隅、朱序のママン韓夫人ですね。
> 南宋のころは私たちが想像するより多くの
> 五胡十六国時代・南北朝時代に関する情報が
> 一般的に知られていたのかもしれません。
この一文を見てふと思ったのですが。
河北を金に奪われた南宋は、五胡に河北を奪われた
南朝と置かれた状況が近く、それゆえに五胡十六国、
南北朝の史実が必須科目のようになっていたのかも
知れません。
儒教が支配していた時代の支配層の間では「祖宗の法」が
重視され、前例があることが説得力に直結していました。
それで「古人に言あり」「史書に曰く」というように、
外から同様の事例を引いて説得する論法が多くなります。
そう考えると、南北が分断されて江南に逼塞する南宋の
士大夫が、同じ状況下の事例が豊富な分断時代の史書に
通暁することは、必然なのかも知れません。
仮説ではありますが、何となく気に入った感じです。
あ、三本の矢は私も『魏書』で見つけて吃驚しました。
毛利元就は知っていたんでしょうね。
【しつこく再々返信】
「ま↑た↓」が関西訛りだとご教示で知りました。。。
時代間の相互認識の研究はテキストマイニングのような
技術と馴染みそうですね。
最近の論文を見ていたのですが、宋代の士大夫が南北朝を
どのように見ていたか、といったの観点の研究はヒットし
ませんでした。
テキスト化された史料を処理して引用数や用語の相違を
検出して立論するような研究もなさそうです。
何となく、処理を工夫することで書誌学では有用な知見が
取り出せそうな気もしています。
比較結果は無味乾燥なものなので、そこから何を読み取るか、
というところが腕の見せどころになるのでしょうね。
そういう研究が多くなるとちょっとコワイ気もしますが。
作者からの返信
関西男子! カッコよすぎます!
ヤバい、ツボです(〃艸〃)
訳文がまた最高ですね(笑)
↑
今「最高」のところで「崔浩」先生が出てきました。ちがう。
この日記の次のページには、前秦の苻堅が出てくるんですよ。また趙淳のセリフの中なんですが。
それから、たびたび参照している『襄陽府志』にも、観光名所として苻堅絡みの「夫人城」が出てきます。けっこうしっかりスペースを取って説明してあります。
もしかしたら、南宋のころは私たちが想像するより多くの五胡十六国時代・南北朝時代に関する情報が一般的に知られていたのかもしれません。
それは堅めの歴史書としての体裁かもしれないし、現代の私たちが戦国武将や幕末の志士についてある程度ふつうに知識を持っている感覚かもしれないし、三国志の講談が流行していたのと同じ路線のヒーロー物エンタメの扱いだったかもしれない。
実態を知るには、今のところあまりに情報不足ですが。
そういえば、南宋モンゴル戦争での襄樊籠城戦のラスト(1273年)は、アリハイヤが呂文煥の前で「箭を折りて誓いを為す」ことで、降伏した襄陽勢の身柄の保全を約束します。
この「折箭為誓」も、注釈や辞書によると、出典は『魏書・吐谷渾傳』の阿豹のエピソードだそうです。
阿豹のエピソードは日本のいわゆる「三本の矢」なんですが、明代に『三国志演義』等が成立する頃には漢族の間で市民権を得ていた模様ですね。
五胡十六国時代・南北朝時代の情報に、思わぬところで出会った話でした。
【再返信】
そういえば私、漢文を訓読するときだけは微妙に関西訛りになるんですよ。
漢文の指導をしてくださった先生、授業の中で訓読をよくなさっていた先生が軒並み関西圏の訛りをお持ちだったので。
例えば「亦」が「ま↑た↓」になります。
>河北を金に奪われた南宋は、五胡に河北を奪われた
>南朝と置かれた状況が近く、それゆえに五胡十六国、
>南北朝の史実が必須科目のようになっていたのかも
>知れません。
腑に落ちますね!
こんにちの教科書で知られている宋王朝の姿以上に、当時の彼らにとって金やモンゴルの脅威は大きくて現実的なものだったのではないかと思い直しています。
この件、研究テーマとして頭に引っ掛けておいたら、今後、南宋代や元代の資料を読んでいく上で視野が広がりますね。
またどこかで同じようなネタを拾えないかな。
こういう超時空クロスオーバーが成立すると、すごく気持ちよくて面白くて楽しいです。
杉山正明先生のモンゴル史観、私も大好きですv
中央アジア側、遊牧民側からみた史観というものが(^^)
スミマセン、ちょっと嬉しかったので、出しゃばっております(照)
作者からの返信
杉山正明先生の歴史観、中華主義や欧米中心主義の王道をひっくり返す視点が面白いですよね。
杉山先生は、学生運動が活発すぎて授業がろくにおこなわれなかった学部生時代、たまたまバーで中東からの留学生と仲良くなってペルシア語を習得し、これを研究の根幹に据えることにしたそうです。当時、教える立場にある人は誰もペルシア語を理解していなかったらしいですが。
杉山先生が東洋史研究室に入ったのは「やりたいことを何でもやっていい」と東洋史の先生に「そそのかされた」からで、もしもその緩さやいい加減さがなかったら、あの面白い研究は生まれなかったことになります。
杉山先生、直接の師匠です。
『海の国の記憶 五島列島』に私が登場します。
私も「何でもやっていい」と杉山先生に言っていただいたから、本当にいろいろ手を出すことができました。恩師です。
編集済
夫人城と聞いて(変なところに反応する)
朱序と苻堅もこんなやり取りをしていたんだろうか、
と妄想すると萌えます。
そう言った舌戦あってこそ、苻堅は朱序を尚書に取り立てたんでしょうし。
そして夫人城、サイテーに悲惨な胸糞物語に仕立てたい
暗い情熱を胸中に秘めていますので、
夫人城に関する情報がある、と伺い、早くも涎が止まりません。
晋書朱序伝、あそこに関してのぼかし方が
どうとでも解釈できるようになっててタチ悪くて素敵です。
作者からの返信
夫人城は、私はチラッとだけ触れました。
チラッとでもいいから触れておきたかったというか。
ガッツリ語るのはお任せいたします。
胸糞物語、楽しそうです。
私はあまり(歴史上の)人を知らないので、今回こうして襄陽周辺から出会っていっている感じです。
愉快な人がいたら追跡したい。とりあえず、朱序、もうちょっとしっかり調べてみます。
舌戦、面白いですよね。
正史ではなかなかここまで具体的に描かれないですし。