超訳(二)

 先に言葉を発したのは、タコ金の総大将だった。


「金国の南方征伐軍、襄陽方面の総指揮を執る右副元帥、完顔ワンヤンきょうと申す(*1)。おまえが襄陽の総大将か?」


 轟くような声だ。

 兄貴もまた、よく通るいつもの声で完顔匡に答えた。


「いかにも。襄陽防衛の任を預かるけいがく都統、兼京西北路招撫使の趙淳だ。お初にお目に掛かる」

「招撫使。ハッ、おまえたちが儂を招撫すると? 笑止(*2)」

「多大な労力を使って攻め滅ぼすより、招撫、つまり敵を降伏させ恭順させるほうが、互いに損害が少ない。勝ち方として上策だ」


「違いない。ゆえに儂は、おまえたち襄陽を招撫しようと考えている。使者に我が意思を伝えさせたはずだが。この地で軍を率いることは、たやすくはあるまい」

「伝言は聞いた。だから、まずは話をしてみようと思った」


 完顔匡は牙を剥くようにギラギラと笑った。


「儂はすでにそうようほふり、光化を下し、神馬坡をせっけんした。それだけではない。儂の放った軍勢が隋州、信陽、徳安を取ろうとしている(*3)。襄陽守将よ、儂の招撫に応ぜよ。く降伏し、我が金国皇帝陛下の前にひざまずくがよい」


 随州、信陽、徳安は、襄陽と同じ京西南路に属する城市で、襄陽より東にある。随州と信陽はいくらか山がちで、いちばん南の徳安は開けた平野のただ中の城市。


 タコ金との小競り合いが続くエリアの一つ、わいなんは、随信徳三城よりさらに東だ。言い替えれば、随信徳三城は、襄陽方面にも淮南方面にも睨みを利かせることのできる地点に位置している。


 イヤなことをしやがる。正直に、オレはそう思った。たぶん顔にも出ていた。完顔匡がオレを見てニヤッとした。


 兄貴は冷静だった。怒鳴るのとは全然違うやり方で張り上げた声は、凛と勇ましく響く。鎧も付けない簡素なじゅうふく姿なのに、威風堂々として、まぶしいくらいだ(*4)。


「戦では、勝つこともあれば負けることもある。古の時代から不変の理だろう。今、貴公は軍を率い、俺も軍を率いて、あらゆる地において備えを為している。それで、貴公はすでに宋領に攻め入って城市を落とした、と?」

「さよう。手応えのない戦ばかりだ。宋人は腑抜けぞろいよ」


「だから俺をもたやすく撃破してみせる? あいにくだな。その程度の脅し文句では、武器を持たぬ民草を震え上がらせるだけが関の山だ。貴公が腑抜けと断ずる宋人は先月、わいの下流の清河口で金軍を迎え撃ち、その船を幾多も焼いた(*5)。この一件、貴公は存ぜぬか?」

「だから何だ。おまえたちの軍事行動には名目が一つもない」


「戦はそもそも不毛だ」

しかり。名目など立てたところで所詮むなしいとも言えよう」

「宋の孝宗、金の世宗が治めておられた時代からずっと両国間に和議が結ばれていた。関わり合わなければ争わずに済むのなら、それでよいはずだった。ただ、宋と金の境界には、南北をまたいで商いをしたい者がいて、交易品を買いたい者もいる」


 国境付近に置かれた交易の市は、かくじょうと呼ばれる(*6)。つい三年前まで、襄陽にも榷場が開かれていた。兄貴が言ったように、宋と金の間に和議が結ばれてから四十年くらいの間、小競り合いはありつつもそれなりに平和に商売がおこなわれていた。


 完顔匡をひたと見据えて、兄貴は話を続ける。


「商売上の問題から憎しみが生まれ、命のやり取りになってしまう事件も起こった。我が宋の朝廷は触書きを出して国境沿いに住む者を取り締まり、もし無断で金領に入る者があれば軍法に照らして斬に処すと、固く戒めた(*7)」

「ほう、宋の朝廷が辺境の治安に心を砕いておったとは初耳だ。境を犯して荒し回ったのは、おまえたち宋の軍勢ではないか」


「それは宋国全体の意志ではない。辺境を預かった小人どもが先走った結果、小競り合いが拡大し、ついにこんにちの大規模な軍事衝突をも引き起こしてしまった」

「小人か。こうひんだな」


「ああ。あの男がひそかに事を為したのが、現状に至る直接の原因だった。朝廷はすでにあの男を罷免している(*8)」

「なるほど、ゆえに今はおまえが襄陽を預かっているというわけか。襄陽守将よ、再び本題に入ろうか。儂の要求はただ一つ、おまえが降伏することだ。厚遇を約束しよう。我らが今上皇帝陛下は、宋人を殺戮することなどお望みではないのだ」


 兄貴は、まなじりを釣り上げて吐き捨てた。


「殺戮を望まないだと? 貴公、此度の侵攻でどれだけの民の命を奪ったか、知らぬとは言わせん。そうでありながら、その口で、殺さぬなどとほざくか!」

「開戦してしまったのだ、致し方なかろう(*9)。よく思い出せ。おまえの国の小人どもが我が金国の境を荒し回った折、儂らは自衛するのみで報復などしなかった」


「しかし……!」

「聞け。分を守って暮らしを営むだけでよいのだ。ただそれだけのことができれば、儂らは一つの家に住む家族となり得よう。金という名の、一つの家にな」


「まさか金は、この開戦を機に宋を攻め落とそうと考えているのか?」

「我ら金軍は、東は海泗、西は川蜀へと、二、三百万もの軍馬をそろえて宋の軍勢を破り、要塞を落とし、城市を奪い、勢力を広げておる(*10)。おまえはなかなか骨のある男のようだが、いつまで持つかな?」


「そんな言葉で俺が膝を屈するとでも?」

「襄陽は難攻不落の名城だが、その堅牢さにしがみ付いて道を見失っては愚かしかろう。簡単なことだ。此度の用兵をおまえに命じたかんたくちゅうを差し出せばよい。天の時がどちらの国に味方しておるか、流れを感じぬわけでもあるまい。降伏せよ」


「誰が降伏など!」

「儂は襄陽攻めの軍勢を率い、襄陽に多くの者が生存するのを確かめた。ゆえに早く降伏するがよいと言うておるのだ。もし今すぐにでも儂らに降るのであれば、儂は決して襄陽に攻め入ることをせず、軍を引き上げよう。儂の手を取れ」


「舐めるな! 俺も貴公もそれぞれの主に仕えている。主を、国を裏切るくらいなら、死を以て忠誠を証すべきだ。降伏してしんそしりを受けることが、なぜできるというのだ! 俺はただ韋孝寛のようにありたい、忠誠の道を生きる武人でありたい(*11)」

「手を取り合うことは叶わぬか」


「貴公は軍を率い、俺もまた軍を率いている。そして俺には、長江とそこへ合流するすべての水の守りがあり、尽きぬほど数多の戦艦もある。けいがくの水軍のきょうかん、たっぷりと味わわせてやろう。戦場にて貴公をお待ちする!」


 完顔匡は、すぐには応えなかった。顔に浮かべていた笑みも消えた。

 冬の川風が吹く。太陽が雲に隠れて、スッと暗くなる。


 完顔匡は言った。


「招撫の話、考えておくがよい」


 完顔匡が合図をすると、屈強な馬が手綱を引かれてやって来た。完顔匡は、年齢を感じさせない身軽さで馬にまたがる。整然と居並んだ家臣団が激しく太鼓を鳴らし、そして、連中は中洲から去っていった。


 その後ろ姿を睨みながら、兄貴は拳を固く握っていた。



――――――――――



(*1)

完顔匡(一一五二‐一二〇九)


 金の王族に連なる。女真名は撒速。皇帝、章宗の兄弟の家庭教師だったが、やがて国史編纂事業を手掛ける傍ら、軍事方面でも要職に就く。開禧の用兵に当たっては、襄陽方面の総司令官。


『金史』巻九十八、列傳第三十六、完顔匡の伝には、金側から見た開禧の用兵がまとめてあるので興味深いが、『襄陽守城録』に見える白河口の対談は掲載されていない。


 この対談に通訳が存在したのかどうか、資料からはうかがえないが、おそらく完顔匡は漢語を話せたはずだ。


 金の王侯貴族は生活習慣から服装、芸術の趣向に至るまで漢化していた。とりわけ完顔匡は皇族子弟の家庭教師や国史編纂事業の任を負ったほどのインテリである。紫傘の演出も漢族風なのでは。


 余談ながら、wordで「完顔匡」にルビを振ろうとしたら、自動的に「ワンヤン・まさし」と出て脱力した。まさしって誰だ。



(*2)

招撫


 敵を帰順させること。


 筆者はモンゴルを主軸に十三世紀の戦を調べたが、招撫のシーンを非常に多く見掛けた。今回、女真族の完顔匡もまた趙淳に対してしきりに招撫を呼び掛けるのを見て、その根底にある事情は似通っているのではないかと思った。


 女真族は漢族の文化に憧れ、中原に定着して漢化した。漢族の文化も土地も人材も何もかも、手に入れたかった。だから、破壊ではなく招撫を好んだ。


 招撫に関して、モンゴルを軸に少し述べておきたい。


 モンゴルは漢族やイスラム諸王朝に比べて圧倒的に少数だ。そのモンゴルが極めてスピーディに大帝国を築き上げたのは、「滅ぼす」のではなく「呑み込む」戦い方をしたからだった。


 杉山正明『遊牧民から見た世界史〈増補版〉』(日経新聞社、二〇一一年)からの抜粋だが、


「モンゴルはどんどん「仲間」をふやし、それを「モンゴル」という名のもとにつぎつぎに編入した。編入・再編というかたちでの組織化こそ、モンゴル拡大の眼目であったといっていい。」

「……当時のモンゴルたちの観念でいいなおすならば、「敵」(ブルガ)をなるべくつくらず、「仲間」(イル)をたくさんふやすことなのであった。」


 モンゴルの戦は一種の産業で、獲得のために為される。時に「破壊と殲滅」を有効な武器として利用したとはいえ、本質は「招撫と併呑」だ。モンゴルによる世界征服とは、旧来の秩序に対する単純な破壊行為ではなく、ふやした「仲間」による新たな共同体の成立だった。


 筆者の歴史観は杉山正明のモンゴル像に強い影響を受けている。だから、戊辰戦争を描いた拙作では、敵である新政府軍の大将は、会津藩に味方する斎藤一に幾度も「こちらに来い」と呼び掛ける。好みの展開を書いたわけだが、見当違いではないはずだ。


 会津藩の人材が殺し尽くされることなく明治時代の軍事や教育の分野で活躍できたのは、新政府側に「招撫と併呑」の意図があったからだろう。政界や財界からは注意深く切り離したとはいえ、新政府側も会津藩士の強さと賢さを手に入れたかったのだ。



(*3)

隋州、信陽、徳安


 現在の湖北省隋州市、河南省信陽市、湖北省孝感市。


 完顔匡の軍事行動は『金史』巻九十八、列傳第三十六、完顔匡の伝にまとめて掲載されている。



(*4)

戎服


 軍服のこと。じゅうとも言う。「戎」は和語では「えびす」と読むが、異民族を蔑んで言う表現である。


 戎と呼ばれた人々をひっくるめ、異民族の着る服を「胡服」と呼ぶ。漢族のファッションは胡服から大きな影響を受けて成立した。


 漢服はもともと合わせ襟で、裾はスカート状になっている。これで馬に乗ったり剣を振り回したりしたら、下が見えてしまう。そこで漢族は場面に応じて、異民族のものであったズボン(褌、褲、袴)を穿くようになった。


 隋唐時代には胡服タイプの襟(丸襟っぽい形。ボタンで留める)が流行し、やがて正式の官服にまで採用されるようになった。皇帝の肖像画を見ればわかる。庶民の間では、上着は裾が短く、下はズボンを穿くスタイルが定着した。


 などと書いてみたものの、筆者は大雑把にしかわかっていないので、前頁で紹介したとおりpixivの絵師を頼るほうがよい。「漢服 襟」などピンポイントなキーワードで検索すると、ブログ等で詳説を加える絵師とも出会える。



(*5)

清河口


 金軍が楚州を攻めた一件。ただし、宋軍が大勝したという記事は発見できず。

 楚州は現在の江蘇省わいあん市。清河口という地名は発見できなかったが、清河区が現存する。



(*6)

榷場


 宋代、異民族との交易のために宋領の北縁に置かれた。互市ともいう。元代以降の資料では互市のほうが一般的。海上交易のために置かれるものは市舶という。


 この時期の榷場は、超訳文中でも触れているとおり、一一六四年、南宋の孝宗と金の世宗の間に結ばれた隆興の和議、または乾道の和議に伴って開かれ、場所や規模を変えたりしながら、四十年余り続いていた。


 朝貢や略奪によらない方法で、漢族と異民族の間で人と物の交流が成立することは、宋代においては非常に画期的なことだった。伝統的に、漢族国家は自由交易を公認しないのだ。


 とはいっても実は、民間レベルの東シナ海交易は宋代でも比較的盛んで、例えば、長崎県五島列島の領主、宇久氏は商売上の付き合いから(あるいは海賊行為の獲得物として)宋人の女を娶って正妻にしている。


 こういうアヴァンギャルドな海の民の歴史が筆者の学生時代の専門分野だった。修士論文を「エンターテインメントだね」と評される学生も多くはあるまい。



(*7)

触書き、戒め


 この触書きというのが何を指しているのか、『宋史』からは発見できなかった。


 同時期の『金史』は宋の小規模な侵攻による被害状況が細かに記録されており、しばしば「やめてくれ」と通知を出してもいる。が、宋側はしらばっくれて、ちょっかいを出し続ける。


 宋の朝廷は無論、金が迷惑を被っていることは把握している。


『宋史』巻三十八、嘉泰三年十二月の条に、

「是冬、金國多難、懼朝廷乘其隙、沿邊聚糧增戍、且禁襄陽榷場。へんきん之開、蓋自此始。」


 この冬、金はタタール部の侵入を受けるなど北方の不安が増大し、南の宋がその隙に付け込んで攻め入ることを警戒して、国境付近に警戒態勢を敷き、襄陽の榷場を閉鎖した。辺境での紛争はこのあたりから始まったようだ。


 上のように『宋史』に書かれているものの、白河口の対談からうかがえる趙萬年や趙淳の認識は、どうもズレがある。榷場での商売上のトラブルから紛争に発展したととらえているかのような口ぶりだ。


 趙萬年や趙淳は勘違いをしていたのか、それとも、朝廷が意図的に情報を隠していたのか。後者だとすると、襄陽軍の置かれた環境はブラックなんていうレベルではない。そんな腐った国家のために命を張らされるとは、あまりにも哀れだ。



(*8)

罷免


 趙淳が襄陽に赴任したとき(一二〇六年十一月)にはすでに皇甫斌は第一線から切り離されている。『宋史』巻三十八から皇甫斌の履歴をたどると、以下のとおり。


 開禧元年四月に江陵副都統となり、知襄陽府を兼任。翌年四月、さらに京西北路招撫副使を兼任し、五月に唐州を攻めたが、敗北を喫する。


 この敗戦のため、六月には二度にわたって位階を奪われ、南安軍(現在の福建省泉州市)に安置された。安置とは、宋代、官吏に対する処罰の一つで、地方に流刑してそこに住まわせること。



(*9)

開戦


 双方「敵を征伐する」との皇帝の意志が正式に記録されている。


 宋では開禧二年(一二〇六年)五月丁亥の条に「下詔伐金」とある。その二週間余り後、皇甫斌が唐州を攻め、ボロ負けする。


 金では前年から「四十年以上も和平が続いていたのに」と戸惑いつつも議論を重ねて軍備を強化していったが、泰和六年(一二〇六年)四月になると、襄陽でのスパイ活動の結果、宋の開戦の意図を明確に察知した。そして五月、宋が盟約を破って軍事行動を起こしたことを祖先の廟に報告し、金もまた本格的な軍事行動を起こし始める。


 なお、『金史』の完顔匡の伝には、白河口の対談がおこなわれた時期に皇帝が「略奪や破壊を慎むように」と命令を出したことが記録されている。完顔匡の和議路線のセリフは嘘ではない。


 こうした一連の流れ、すなわち韓侂胄の専横によって起こされた「開禧の用兵」については第一章に略述したとおり。


 より詳細を求めるならば、韓侂胄を主軸とする論文がオンラインで公開されている。韓侂胄という人は非常にわかりやすく「あかん政治家」なので、論文を読みながら呆れ笑いが湧いてくる。


 衣川強「『開禧用兵』をめぐって」(東洋史研究、一九七七‐三十六‐三)



(*10)

東は海泗、西は川蜀


 海泗は海州(今の江蘇省連雲港市)と泗州(今の江蘇省泗洪県などの一帯)。

 川蜀は四川の別名。四川は、三國志でもおなじみのとおり、古くは蜀と呼ばれていた。



(*11)

韋孝寛(五〇九‐五八〇)


 南北朝時代、北魏末から北周にかけての武人。分裂した北魏のうち、西魏の宇文氏に仕え、北周の勃興に大いに貢献した。知略に優れる一面を持った忠義の士。


 韋孝寛は一時期、襄陽に駐屯しており、玉壁の戦いでは城郭に拠って見事に敵軍を打ち負かした。それらにゆかりを感じて、趙淳は韋孝寛の名を出したのだろう。


 趙淳のセリフの中に「貮臣」という言葉を入れたが、これは「二つの王朝に仕える裏切り者」という意味。国を家、皇帝を父となぞらえ、国家への絶対的な親孝行を美徳とする儒学のもとでは、貮臣は人間として最低であると謗られる。


 余談ながら、拙作『幕末レクイエム』京都江戸編や『斎藤一、闇夜に駆けよ』で斎藤一が山口二郎に変名するときの「二心」のセリフは、貮臣という言葉に由来している。

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