応援コメント

原文」への応援コメント

  • おふたりのやりとりが、漢文専攻のゼミ生のようだ……感心するばかり!

    作者からの返信

    ゼミごっこです。遊んでおります(笑)


  • 編集済

    こんばんは。
    今回はボリュームありますね!
    気になった箇所は以下の通りですが、いずれにせよ解釈にはほとんど影響しないです。


    ▼所以亟創土山、意在必取襄陽。

    所以に亟やかに土山を創るに、意、必ず襄陽を取るに在り。

    恩賞大盤振る舞いを受けた後文ですが、主語を明示するとこのようになるかな、と。
    所以(虜人)亟創土山、(虜主)意在必取襄陽。
    そうなると、前文と後文は別に扱うのがよいかと思いました。

    (虜人の)亟やかに土山を創る所以にして、(虜主の)意は必ず襄陽を取るに在り。

    これなら、「大盤振る舞いした。それが兵士がすみやかに土山を造る理由であり、そのようにした虜主は襄陽を必ず落とそうと考えているのだ」で分かりやすいかな、と。後段の「所以難於毀拆=だから壊すのが難しかった」と用法が違うのはやや気持ち悪いですが、所以の用例としてはありかと思います。


    ▼公前日出兵用竹籠絆馬、恐虜人別生狡計措置。

    公の前日に出兵するや、竹籠を用ゐて馬を絆するに、恐らく虜人、別に狡計を生じて措置せん。

    ここは後文との繋がりを考えると、前後とも「公」が主語でよいかと。

    公は前日に兵を出して竹籠を用ゐて馬を絆すに、虜人の別に狡計を生じて措置せんことを恐る。

    意味は全然変わりませんね。


    ▼至二更、兵從南隅羊馬牆而出、令先以四百人銜枚、各提水一桶、疾走往虜人燒火去處、潑滅、分布前進。

    二更に至り、兵、南隅の羊馬牆從り出で、先づ四百人を以て銜枚し、各々水一桶を提げ、疾走して虜人の燒火の去處に往きて、潑滅し、分布して前進す。

    「虜人燒火去處」の去字がどうにもジャマなんですよね。「燒火處」でいいように思いますし、衍字じゃないですかね。

    二更に至り、兵は南隅の羊馬牆從り出で、先ず四百人の銜枚するを以って各々水一桶を提げしめ、疾走して虜人の火を燒やす處に往きて潑滅し、分布して前進せしむ。

    去字は屯字の誤りかなあ、とか想像してしまいますが、分かりません。でも何かヘン。


    ▼緣創築土山之內盡用大木穿貫如屋、上用排椽、積柴束・草牛・覆土於上、所以難於毀拆。

    創築せる土山の內、盡く大木を用ゐて穿貫すること屋の如く、上、排椽を用ゐ、柴束・草牛・覆土を上に積むに緣りて、所以に毀拆に難し。

    大木を柱にしてその上に棟木とたるきを巡らせて小屋のようにし、小屋の内に柴や草の束を積み上げてそれに土を被せたのではないかと想像します。もう一つの考え方は、小屋の上に柴や草の束を積んで土を被せるやり方ですが、この場合は中が中空になって崩落しそうなので考えにくいかと思います。

    創築せる土山の內は盡く大木を用ゐて穿貫すること屋の如く、上は排椽を用ゐ、柴束・草牛を積みて土を上に覆うに緣り、所以に毀拆に難し。

    「名為火牛、置於土山之內、以火焚之、方填草間」の「方填草間」が説明しやすいように思いました。

    今回は妙に難しい気がしました。。。





    【返信を受けて】

    〉今回、単純に難しかったというか、筆が荒かった感じがします。

    確かに、忙しかった(生命の危機付き)でしょうから責められませんね。


    〉動詞+目的語+去字

    なるほど、白話文との汽水域ならではですねー。方向を補う去字ですか。訓読する場合は殺すしかないのかな。

    「他看棒球去了」の「去」はgoの意味があるので、講談調なら「他は棒球を看るに去(行)き了(おわ)れり」になりそうです。

    そう言えば、『續三國志』も明代小説なので竹田さん、尾田さんが似たような白話的言い回しを力づくで訓読していました。「殺出」を「殺(き)り出(いだ)す」とか。この「殺」は「殺到」と同じ使い方ですから、無理があります。

    「疾走往~去」は往と去が同義なので、タチが悪いですね。江戸期なら「疾く走りて〜に往き去る」にしたと思いますが、力づく感ハンパないです。

    以下は私見となります。
    司馬遼太郎&陳舜臣の対談の中に、「漢文って記録用圧縮言語よな」という発言があり、深く納得しました。日本語の助詞、助動詞に相当するものがかなり不足していますから、日常会話には適さない言語です。過去か現在かも文脈次第ですし。

    訓読は漢文を古文にする行為で日本人はそこから意味を理解します。その中に無理くり位置付けると、白話文は訓読文と近い位置にあると考えます。漢文「往〜」→白話文「往〜去」=訓読文「〜〝に〝往く」→理解「〜に行く」と言う流れですね。

    現代中国の方は白話文経由に近い理解で、日本人は訓読文経由の理解をするだろう、と。

    そうすると、白話文と訓読文は共に意味を脳裏に図像化する前の中間言語であって、記録用圧縮言語である漢文の解凍結果という点では同じだと考えます。(漢文を訳すと、ふえるワカメみたいに字数が増えまくりますよね)

    なもんで、白話文は訓読文とは違う形で解凍されているので、白話文を訓読するなら、白話文→漢文→訓読文という形で、一回遡行して読み下すしかないのかも知れません。が、結果はたぶん白話的な補助語を落としただけ、になるように思います。

    というのが、言語学者ならぬ明代小説に四苦八苦している身の認識ということで、一つ。



    〉佐藤さんちの『漢文ごっこ』所載の文章たちが正統派の美形ぞろいで、ちょっと感動しましたー。

    たしかに。ああいう綺麗な漢文は久しく読んでいませんね。。。

    作者からの返信

    解釈ありがとうございます!
    大ボリュームでした。途中で切るわけにもいきませんでしたし。


    所以……「ゆえん」か、「ゆえに」か。両者のニュアンスの違い。
    原文を書いている人々の頭の中では、書き下す我々日本人ほどには大きく違わないのかもしれませんね。
    どっちで読むのがスムーズか、ちまちまいじってしまうことが多々あります。

    ここは主語を補うと、確かに「ゆえん」のほうが訓読文がわかりやすくなりますね。
    (主語を無断でころころ変えるんじゃない! >阿萬)


    恐……「おそらく」か、「おそる」か。
    上からだだだーっと読んでしまう癖があるので、機械的に「おそらく」で脳内処理しました。
    「おそらく」以下が公の脳内セリフになりますね、この場合。
    「おそる」のほうが訓読文として読者に優しいです。


    去字の扱い、困るんですよね。
    別の謎字だったら、バッサリ衍字だと言えるんですが。
    というのも、現代中国語を勉強したときも去字に困ったんです。
    以下、漢文じゃなくて現代語の話なので、ちょっとずれるかもしれないんですけれども。

    「来(こちら向き)」と「去(あちら向き)」は、方向性のニュアンスを表す語として頻出します。
    しかも、動詞+目的語+去字、という位置で出てきます。

    「他看棒球去了」で「彼は野球を観に行った」
    漢文風に訓読しようとしても「他は棒球を看て去り了る」になって意味がずれる。
    さってないし、おわってないし。
    「去」で方向性のニュアンスを補い、「了」で時間的なニュアンスを補う格好になっています。

    で、困ったことに『襄陽守城録』にも同じニュアンス用法が出てきます。
    特に「了」は頻出。「~しちまったぜ」的な。
    古典的な訓読の観点からは読みにくくて仕方がないです。

    この現代中国語的な文法解釈で行っていいなら、問題の箇所は「疾走往~去」がセットということになるんですが、どう訓読せよと?
    だから「去処」というのもヘンな読みになってしまうんですが……。

    (-"-)ウーム
    言語学者、カモン。プリーズ。


    土山の構造に関しては「柴束・草牛を積みて土を上に覆うに緣り」ですね。
    これは訓読文、ハッキリ間違いです。

    実際に造ったことがないので(当たり前だ)、想像力を働かせながらの訓読になりました。
    学生時代、図形問題を考えるのがあまりに苦手で、パターンを十数種類も丸暗記してテストに臨んでいたんですが、図を頭の中に描きながらの訓読は図形問題と似たようなところがあります。
    知恵熱が出そうでした(笑)


    今回、単純に難しかったというか、筆が荒かった感じがします。
    忙しい中で書き殴ったのか、興奮冷めやらぬままに記録したのか。というのは単なる空想ですけれども。

    ありがとうございます!
    續三國志の続き、お邪魔しに行きますー。

    ***

    【ふたたびあらわる】

    なるほど、漢文ふえるワカメ説。

    明代の小説は確かにチカラワザが必要になってきそうです。
    白話文の訓読にも定型があれば、そういうものであると割り切れるんでしょうが、何とも厄介なところですね。
    しかも、日本語にするには変なところに補語がくっついてますし。

    (-"-)

    意味を取る場合には、訓読文なり現代中国語なり、何かしらのルートを自分の中に持っている必要があるんですよね。
    とりあえず大学時代に中国語に苦労しておいてよかったです。
    こうした文型にはこれからも出会うでしょうから、引き続き、きちんと頭の中に置いておきます。

    佐藤さんちの『漢文ごっこ』所載の文章たちが正統派の美形ぞろいで、ちょっと感動しましたー。

    編集済