21「トールが買い物に!」
次の日からエリは働きはじめた。
雪かきのほかは、お店の中の掃除を教えてもらった。ソンドレが手を叩いて褒めるほど、窓ガラスをぴかぴかに磨きあげた。
ソンドレはその日のうちに給料をくれた。
初めてもらう給料だ。自分が好きに使っていいお金を、自分の力で手に入れた。エリは飛び上がりたいほどうれしかった。
毎日コツコツと給料を貯めて、あくる週には毛糸を買った。
再び編み物を始めたエリに、トールは何も言わなかった。
溶け残った雪の上に新しい雪が積もり、もう町は真っ白だ。煙が消えゆく空のほうがよっぽど黒い。
また降りそうだなあ、と雪かきの途中で空を見上げたエリは、遠くから歩いてくる人影に気づいて背筋を伸ばした。
見慣れた帽子とコートに、口元まで覆っている青いマフラーが目を引く。
「トール! お出かけですか?」
工場の仕事はお休みだから、今朝のトールはのんびりと過ごしていた。部屋で別れたのに仕事場で再会するなんて、なんだかくすぐったい。
「買い物をしに」
そっけなく答えて、トールがお店の中に入っていく。エリもスコップを立てかけて後を追った。
「あ、ソンドレさん! トールが買い物に!」
「いちいち言うなよ」
迷惑そうな苦笑いでトールが振り返る。
浮かれてしまったことが恥ずかしくて、「ごめんなさい」とエリは声を落とした。
カウンターの内側でにこにこと笑っていたソンドレが、エリを手招きする。
「ちょっとおいで。トールくんの買い物、エリちゃんが売ってあげましょう」
「え? え、わたしが?」
エリの仕事は雪かきと掃除だ。お店の物を売ったことは一度もないし、そんなことをさせてもらえるとも思っていなかった。急に与えられた新しい仕事に胸がどきどきしてくる。
「店番を頼むこともあるかもしれないしね」
「は、はい!」
小声で話しても店の隅まで聞こえてしまうような小さいお店だ。エリの声はよく響いた。その声にちらりと振り向いたトールの動きも、カウンターからよく見える。
トールは棚に陳列されている羽根ペンや便箋などを手に取って眺めていた。ほかに客はいないから、黙ってしまうと心地よい静寂が訪れる。
文房具店にはある種の落ち着きと、知性の香りともいうべき独特な気配がただよっているとエリは思う。
文字の読み書きは市民学校で教わるものらしい。
読み書きができるようになれば、いろんな書物を学んだり、歴史や天文学なども教えてもらえるそうだ。
けれど誰もが学び通せるわけではないという。女子修道院にいたころ、そんな話を聞いたことがある。
六歳から十六歳までなら、市民学校には誰でも無料で通える。
けれど、たとえば酪農家の子なら、家の仕事が忙しいときは手伝いを優先して学校を休む。そのまま二度と学校に来ないというのもめずらしくないそうだ。
都会でも、さまざまな都合で学校に行かなくなるらしい。
そもそも市民学校ができてからまだ三十年も経っていないという話だから、たいていの大人は簡単な読み書きしかできない。
読み書きだけなら学校に行かなくても、聖書を読むために教会で教わったり、わかる人に教えてもらったりして覚えられる。それで十分なのだ。
エリも学校に行っていないけれど、文字は女子修道院で教えてもらった。だから問題なく読み書きができる。
(お父さんは、どうだったのかな)
父が何かを書いているところなど、記憶にない。母はどうだったか。――これも記憶にない。
「これを下さい」
トールが選んだのは、インク壺と羽根ペンだった。インク壺は小振りで、かわいらしいフクロウの彫刻が蓋の持ち手になっている。
エリはどきどきしながら代金の受け渡しに挑戦した。指を折りながら数えて、やっとの思いでおつりを渡そうとする。
トールが眉をひそめた。
「……間違ってるよ」
「えっ?」
「うん、エリちゃん、ゆっくり計算してみようか」
「おまえ買い物するとき、ぼったくられてないだろうな」
怪しんだ顔でトールが言う。そしてあっさりと、おつりの正しい金額を教えてくれた。
「ぼった……? あの、ちょっと緊張しちゃって、それで」
落ちこんでうつむくエリを見て、ソンドレが慰めるように笑った。
「まあ、おつりの計算なんて慣れればできるよ。それにしてもトールくんは賢いねえ」
「いえ。エリに店番は無理そうですが、言われた仕事はていねいにやると思うんで、よろしくお願いします」
「はいはい、こちらこそ、ご贔屓に」
思わぬところで飛び出したトールの褒め言葉に、エリは顔が熱くなった。
落ちこんだりうれしくなったり、心があわただしい。うまくできなかったことは残念だけれど、たぶん、きょうはとてもいい日だ。
「そういえばトールくん、第六地区の製紙工場で働いてるんだよね?」
「え? はい」
ソンドレの唐突な質問に、面食らった様子でトールが返事をする。
エリは、はたと気づいた。
もしかしたら、このお店で売っている便箋はトールが働いている工場の製品かもしれない。だとしたら、場所は違ってもトールと一緒に働いているのと同じだ。
そう考えたらますますうれしくて、こそばゆくなった。
けれどソンドレが話題にしたのは、エリの思いとは別のことだった。
「あそこの社長はわたしの昔なじみでね。今じゃ工場をふたつも持って、えらい稼いでるわけだけども、まあ、腐れ縁だね。ゆうべも夕食の世話になったんだ。で、そこで聞いたんだけども」
ソンドレが心配そうな顔つきになる。
「工場で盗むやつがいるらしいね? 荷物が消えただの、財布が消えただのと、最近は特に多いんだってね」
「ああ……そういえば騒いでる人がいました」
トールが視線を横に流して答える。
こそばゆさに高鳴ったエリの胸が、雪をぶつけられたようにひやりとした。
「トールくんも盗まれないように気をつけなよ。
――
唐突に頭をよぎった。あの夜、お酒の匂いをただよわせて帰ってきたトールが口にした言葉だ。『盗んだって思ったろ』と。
(まさか、ううん、そんなはずは)
悪い考えを振り払ってトールを見上げた。ソンドレに返事をするトールは、よそ行きの愛想笑いを浮かべていた。
「嫌ですね、盗られたら。気をつけます」
「なんなら仕事を変えるといい。工場で働くなんて、長くやるもんじゃないよ」
「考えてはいるんですけどね。なかなか見つからなくて。きょうもこれから探しに行く予定で」
「そうかい。いいところが見つかるといいね」
「はい。ありがとうございます」
トールがエリを見て、「じゃあな」と告げる。
帰っていく後ろ姿を落ち着かない気分で見送った。トールの眼差しに冷ややかな光がきらめいたように見えたのだ。
ほんのわずかでもトールを疑ったことを、見透かされた気がした。
その日の夜、エリは夢うつつで声を聞いた。
「……ンドリー」
闇から聞こえてくる声に耳が吸い寄せられる。とても苦しげで、悲しげな声だ。
「ヘンドリー……やめ……」
乱暴な手で引き剥がされたように眠りが遠ざかった。目を開けると、いっそう濃い闇の中だった。
苦しげな息づかいがすぐ近くで聞こえる。トールだ。ソファで眠っているはずのトールが、うなされている。
突然、息を強く吸う気配がした。
直後に跳ね起きる音が届く。目をさましたらしい。荒い呼吸が聞こえてくる。
エリは身を固くして目を閉じた。
聞き間違いでないのなら、トールは父の夢を見ていた。
声をかけて近寄りたい気もするけれど、トールはうなされていたことを知られたくないんじゃないかという気もする。だから、どうすればいいのかわからなかった。
迷っているうちに、深い溜め息が聞こえた。毛布がこすれる音がして、床が軋んで、すぐそばで止まる。
エリの身体はピリピリと痺れたようになった。
(わたしを見てる)
傍らの闇が熱を持ったみたいだった。熱の塊がエリを見下ろしている。
密度の濃い沈黙が続き、やがて熱が、ささやいた。声にすらならない、かすかにこぼれた息が言葉を紡いだ。
「もう……やめてくれよ」
少し間を置いて、トールはまた溜め息をついた。今度は短く、何かを諦めるような溜め息に聞こえた。
熱は離れた。床が軋んで、ソファに横たわる気配がする。すぐに静寂が訪れた。
しばらく待ってから、エリはそっと目を開けた。あいかわらずの深い闇が視界をふさぐ。トールが起きている様子はなさそうだ。
(何だったんだろう)
トールは父の夢を見ていた。それはうなされるほどの悪夢で、だから、やめてくれ、と口走った。そしてエリを見下ろして、また、やめてくれ、と言った。
(やっぱり、まだ)
憎んだり、恨んだりする気持ちが消えないのだろうか。
ひどいことをされて、耐えきれずにもっとひどいことをしてしまった相手。その人の娘がそばにいると、苦しいのだろうか。
(だけど最近のトールは、もうそんなこと言わなくなった)
お互いに本心を打ち明けてから、トールは落ち着いたように見える。苛立つことがなくなり、笑顔が増えたのだ。
遠い目をしてぼんやりしていることはあるけれど、少なくともエリを睨んでくるようなことはなくなった。
(やめてくれ、って、何を……どういうこと)
今すぐ起きて話をするべきなんだろうか。このまま気づかないふりをするのがいいんだろうか。
話をして、「今もおまえが憎くなる」と面と向かって言われたら、どうしよう。どうすればいいの。
考えているうちに時間だけが過ぎていった。
結局エリは再び眠り、何事もなかったように朝を迎えた。
遅れて目をさましたトールは、いつもどおりだった。顔色も口調も、何もおかしいところはない。ゆうべ何かの夢を見たことすら話題にしてこなかった。
だからエリも、いつもどおりに「おはようございます」と微笑んだ。
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