06「見たいです!」
アモットの宿を出る前に、トールは紙をひろげた。
何だろうと覗きこんでみれば、町の名前や、町をつなぐ道などが描かれている。地図というらしい。
この地図で目的地までの道順を頭に叩きこんだら、あとは寄り道せずに歩くという。その言葉どおり、出発してからトールが途中で地図を取り出すことはなかった。
「俺はおまえの兄、トール・アーベル。旅の目的はコングスの銀山に出稼ぎ中の父親に会いに行くこと。父親からの手紙が来なくなって一年、母親は体調を崩している、父親の消息を知るためにコングスまで行く。誰かに聞かれたらこう答えるんだ。いいな?」
旅をして五日目、歩きながらトールは言った。
「え……っと」
「どうしてそんな嘘を、なんて質問はしないよな?」
「あ、はい、ほんとのことを言っても信じてもらえないから、ですよね」
でも、とエリは小首をかしげた。
「でもそれなら、あの……、お兄ちゃんって呼んだほうがいいですか?」
トールはすぐさまうつむいて、地面を見つめたまま首を横に振った。なんだか息苦しそうにしている。具合でも悪いのだろうか、とエリは覗きこんだ。
目が合ったトールは、迷惑そうに眉根を寄せた。いつも血色の悪そうな顔色だったけれど、今は少し赤い。具合が悪いわけではなく、もしかしたら、怒らせてしまったのかもしれない。
「いや。それはなんか、ちょっと……名前で呼んで。敬語はいらないけど」
「敬語?」
「その、ですます口調」
「え、あ、変ですか?」
また、女子修道院と、外の世界との違いだろうか。
女子修道院ではこれが普通のしゃべり方だった。それがおかしいなら、直さなければいけない。けれど身についてしまっているものを急に変えられるだろうか。
「えっと、ええっと、気をつけます……じゃなくて、気をつけるです。ああ、じゃなくて……」
「いや、まあ……なんでもない」
トールはそっぽを向いて足を速めた。
牧場に囲まれた一本道はひとけがない。先を行く背中を見失うはずもないけれど、離されないように小走りで追いかけた。
歩きつづけることにはだいぶ慣れた。
初日こそ休憩が極端に少なかったけれど、アモットを出てからのトールは日が落ちる前に宿を取るようにしてくれた。だから疲れた体も少しずつ回復していた。
その日に泊まった宿は、別々の部屋だった。
食堂がない宿屋だったから、夕食はほかの店を探さなければならなかった。そうやって一緒にごはんを食べるのも、昔からずっとそうしてきたみたいに慣れてしまった。
翌朝、身支度を終えてからトールの部屋に行くと、トールはベッドの上に地図をひろげていた。
くたびれた地図だ。折り目がくっきりとついて、切れてしまいそうになっている。
きのうの話を思い出したエリは、疑問をぶつけてみた。
「あの、コングスってどこです……どこだ?」
ぷっ、とトールが吹き出した。
「普通にしゃべっていいよ。腹が痛くなる」
「へっ? おなかが痛いんですか? じゃなくて、痛いのか?」
「だから、今までと同じでいいって。コングスはここ」
トールが地図上の一点を示した。骨張った指は、紙面をたどって別の場所でも止まった。
「今いる町がここ。コングスは銀山で有名なんだ。出稼ぎも多いって聞いた」
「東……ですか? 国境までは、まだ遠い……?」
地図に書かれているのは町の名前と大きい道だけなので、細かい道順は行ってみなければわからない。
しかもこうして地図を見ただけでは、町と町がどれくらいの距離で離れているのか、エリには理解できなかった。
「東に向かってる。国境はまだ先だ」
言いながら、トールは地図の右端をトン、と指で叩いた。そこが東という意味だろう。
「これに国境は載ってない。まだまだ先。もう行くぞ」
トールが地図をたたむ。エリは胸元の紐を引っ張った。
「あの、お水がまだ」
「ああ、井戸な。貸してもらって、それから朝ごはん食べに行こう」
「はい!」
首にかけた紐の先には、満月のようにまるい形をした木製の水筒がくっついている。雪の模様が描かれたこの水筒は、きのうこの町に入ったときにトールが買ってくれたものだ。
トールは無愛想な顔で、「俺の水を分けるのは、もう嫌だから」と言った。
それは裏を返せば、この先の同行をはっきり許可してくれたのと同じ意味だ。エリは飛び上がるほどうれしかった。
水を入れると、ずっしりと重くなった。その重みすらうれしくて、宝物を守るような手つきで、水筒をケープの内側に隠した。
歩いて、町に泊まって、また歩く。
トールが目的地に決める町は、そこに宿屋があるであろうことが条件だったけれど、たまに予想がはずれて宿屋がないときもある。そういうときは教会に泊めてもらった。
教会はどんなに小さな町にもかならずあるけれど、いつでも泊めてもらえるとは限らないらしい。
教会がだめなら民家を当たる、とトールは言った。もっとも、まだ教会で断られたことがないから、見知らぬ誰かのおうちに泊まることもなかった。
無愛想で無口だったトールは、しだいに会話を続けてくれるようになった。
立ち寄る町についてだったり、食べ物の好みについてだったり、どこの宿屋が一番よかった、とか、エリが女子修道院でどんな暮らしをしていたのか、とかいうような話だ。
それでもトールは、自分自身のことについては話そうとしなかった。どこの出身なのかも、エリの父親とどういう関係なのかも、いまだにわからない。
口をつぐむだけではなく不機嫌になってしまうので、エリも話題を避けるしかなかった。
キンネルを出てから、半月以上が過ぎた。
町の匂いはそれぞれ違う。新しい町に着くと、まず胸いっぱいに息を吸うのがエリの癖になった。
自分で風の匂いを感じてから、どういう町なのかをトールに確かめるのがお決まりの手順だ。
ドラファンという町の風は、冷たくて少し湿っていた。空は曇っているけれど、特に雨が降りそうな気配はない。暖炉の煙やパンの香りに混ざって、どことなく鉄っぽい匂いもした。
すぐ近くに小さなパン屋があり、ほかにも花屋や雑貨屋など、いろんなお店が建ち並んでいる。道幅も広く、馬車の
ふと遠くの空を見たら、ひときわ目を引く煙が昇っていた。白いものもあり、黒っぽいものもある。普通の家の煙突から出る煙にしては、やけに大きかった。
「ここは、どういう町ですか?」
「港町のはずだ」
「港? 海があるんですかっ?」
エリの勢いに驚いたのか、トールがわずかに身を引いた。
「いや、海じゃなくて運河」
「運河って何ですか?」
「人や物を船で運ぶために、人が作った川のこと」
「船があるんですかっ?」
「う、うん。なんだ急に」
「見たいです! 港も、船も、運河っていう川も!」
トールが戸惑った顔していることに気づいて、エリはサッと顎を引く。言い訳でもするような気持ちで、伏し目がちに付け足した。
「見たことがないんです」
海も港も船も、いつか見たいと思っていた。
女子修道院で知り合った子が、船に乗ったことがあると話していたのだ。どんな形の乗り物なのかを、簡単な絵で説明もしてくれた。
乗ってみたいとエリは憧れたけれど、女子修道院にいたら不可能だ。だからぼんやりと想像するだけで諦めてきた。
すぐ近くに船があると知ってつい興奮してしまったけれど、わがままを言ってトールを不機嫌にさせたくない。今は我慢しよう、と自分に言い聞かせることにした。
「そうだな。俺も見たことない」
思わぬ言葉が聞こえた。かすかな期待をこめて見上げる。目に映ったトールの口元には、微笑が浮かんでいた。
「行ってみるか」
「はい!」
トールは港への行き方を人に尋ねてくれた。教わった道を進んでいくと、波のないゆったりした川が目の前に現れた。
エリは歓声をあげた。
「船! 船ですよね、あれ!」
思い描いていた船とよく似た形のものが、川をすべるように移動していた。三角の帆のそばに人が立っている。手に何かを握っているから、きっとあれで舵を操作しているのだろう。
道は川に沿って続いていた。川幅が大きいけれど見晴らしがいいから、対岸を歩いている人の姿もよく見える。
肌に触れる空気は冷たかった。けれど心は温かい。体をひねって、運河に浮かぶ船を眺めながら歩いた。
隣を見れば、トールも興味深そうに船を眺めていた。それがまたうれしくて、エリは鼻歌でも口ずさみたい気分だった。
港は倉庫らしき建物に囲まれていて、広場のようになっていた。まだ動かす予定がないのか、帆をたたんだ船が岸にずらりと並んでいる。
はずむような足取りでエリは港を歩いた。
「これは川なんですか? 空とつながってます! あっちにも船は行くんですか?」
建物と岸のあいだを覗いてみると、どうやら川沿いの道は続いているようだ。
町並みも続いているけれど、まさか町の端で滝になっているわけはないから、ほかの町へとつながっているのかもしれない。その終着点はどこなのだろう。
「さあ……行くんじゃないか?」
「はしゃいでるねえ!」
トールの返事にかぶさるように、近くで豪快な笑い声がした。
「港に来るのは初めてかい? あっちにも船は行くんだよ、お嬢ちゃん」
知らないおじさんが笑ってエリを見ている。大柄で声が大きい。左手の指にタバコを挟んでいた。
「あっちにも行くし、あっちからも来るんだよ。大きい船がね」
「ほんとですか? 大きい船?」
「そうだよ。今ここに泊まってる船よりも、うんと大きい船さ」
もっと詳しく聞こうとしたとき、トールに肩をつかまれた。
「そろそろ行こう。腹が減った」
トールの顔が硬くなっている。なんとなく、急に話しかけてきたおじさんから離れたがっているように見えた。
「メシ? 近くにうまい店があるよ。しかも安い」
「ほんとですか?」
目の色を変えて聞き返したのは、エリではなくトールだ。さっきは離れたがっていたのに、今はもうそんな気配が消えている。
「ああ、本当さ。俺はさっきそこで食ったんだ。今は食後の散歩中」
「どこですか? それと、宿も探してるんです。そこそこ安くて、そこそこ快適な宿がいいんですけど、あるでしょうか」
「宿か。そうだなあ、うん、あそこがいいかな。食堂つきの宿屋があってね」
おじさんは店と宿の場所を身振り手振りで教えてくれた。トールは真剣な様子で耳を傾け、ていねいにお礼を言った。
(面白いなあ)
トールは不思議で面白い。もっとトールのことを知りたい。
どうしたらいいんだろうとエリは思った。どういう質問の仕方をすれば、トールは不機嫌にならずに答えてくれるんだろう。
教えてもらった店で遅い昼食を取っているあいだも、エリはずっと考えていた。答えはなかなか出ない。
宿の部屋が取れたころには、もう日が暮れようとしていた。
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