05「いちばん大きな罪は」

「東。国境を越える」

「何をしに行くんですか?」


 トールは骨のあらわになった肉をスープの中に戻した。答えあぐねたように、薄く切ってあるパンを口に入れて、黙ってしまう。


 エリはスープを口に含んだ。香辛料の利いた塩味がおいしくて夢中になりかけたけれど、トールから視線をはずさないようにと、ゆっくりスプーンを動かした。


 トールが顔を上げる。ランプが映りこんで目が光ったように見えた。


「どこまでついて来るつもりだ」


 投げかけられた質問に、エリは喉を鳴らした。


(どこまででも)


 口に出そうになった言葉を飲みこんだら、取り繕う用意がなかった。返事を待つ視線に急かされて、必死に言葉を探す。


「わたしが、迷惑ですか」

「――どこまでついて来るんだ」

「わたしは」


 答えに迷ったあげく、遠回しに本心を告げた。


「知りたいんです。父のこと」


 トールが真意を探るように見つめてくる。


 もう行くよ、と、さっきの女の人の声が響いた。食事を終えたらしい。


 去っていく親子につられるように、ひとり、またひとりと食堂を出て行く。暖炉の薪が爆ぜる音と、食器がぶつかる音と、誰かの咳払いだけが残った。


「父親を憎んでないのか」

「……にくむ?」

「忘れられてるかも、って思ってたんだろ? 自分は忘れてないのに。だったら憎んでるんじゃないのか」


 そうか、とエリは思い出した。


 父の代理人だと勘違いしたとき、つい口走ったことをこの人はちゃんと聞いていたのだ。父はわたしを忘れてなかった、そう喜んだ裏側には憎しみがあったはずだと解釈したのだろう。


(どう言えばいいんだろう)


 説明するために、女子修道院での教えを借りることにした。そこに自分の気持ちを混ぜればいい。


 息を、深く吸った。胸の奥で何かがチリチリと焦げついている。


「父は約束してくれました。戻ってくるって。疑う人を神様は救いません。だから父を信じて、祈ってきました」


 言い切ったとたん、不信でいっぱいの眼差しを向けられた。


「祈るのは救われたいからだろ。つまり自分が不幸だって思ってるわけだ」

「救いは、罪を犯した人のためにあります。わたしの境遇は、わたしの罪のせいです。だから悔い改めて、祈るんです」


 細い目が睨むように見つめてくる。トールは何かを考えるように黙りこんだあと、静かな声で問いかけてきた。


「どんな罪を犯した」


 エリは視線をそらさず、きっぱりと答える。


「いちばん大きな罪は、この世に生まれてきたこと」


 殻が割れるような笑い声が響いた。まだ食堂に残っていた人たちがこっちを見たのがわかる。けれどエリは気にすることなく、急に笑いだしたトールを見つめた。


 琥珀色の瞳が、からかうように光る。


「どっかで聞いたような言葉。さすが修道女ってやつかな。じゃあ聞くけど、生まれてきたことが罪なら、死ぬしかないってこと?」

「それは違います。救われるために、生きる時間を与えられたんです」


 エリは必死になって答えた。救われるために生きる時間を与えられた、それはエリが心の拠り所としてきた言葉だ。


 理解してほしい、伝わってほしいと、トールを見つめた。けれど返ってきたのはひたすらバカにするような視線だ。


「じゃあ死んだやつにはもう罪がないってことか?」

「そうだと思います」

「救われたから死ぬ?」

「きっと、そうです」

「ほんとに? 殺されたやつも?」


 まさかそんな質問をされるとは思わず、言葉に詰まった。トールは容赦なく質問をかさねてくる。


「殺したやつは生きて、そのうち罪から救われて死んで、じゃあそいつに殺されたほうは? ほんとに救われてたのか?」

「命を奪う行為は、罪です……から」

「だから? 殺されたほうの罪は? 救われたから殺されたのか?」

「いえ、その」

「救われてねえよな。それが救いだとしたらすげえ乱暴な神様だ」


 エリはうつむいた。そんなことは考えたことがない。今を生きる、その意味についてならさんざん考えてきたけれど、トールの質問に答えられるものが自分の中にはない。


 トールがせせら笑った。乱暴な神様、そう言ったときと同じように乱暴に、投げやりに、言葉を吐き出した。


「殺したほうだって、救われねえよ。罪悪感にのたうちまわって、いっそ死にてえとか思いながら死にきれずに逃亡するだけ。きっと惨めな死に方をするんだ」


 火影が踊る。トールの顔に、手元に。闇とせめぎあう灯りのせいだろうか。嘲笑うトールの顔は、泣いているように見えた。


「母親は?」

「え」

「父親のことは知りたくて、母親は?」

「母は……いいんです」


 矛先が父から母に変わってエリはたじろいだ。トールと目を合わせないようにうつむく。


「――約束をしたのは、父だけだから」

「約束……」


 あきれたような声で、トールがまた小さく笑った。それ以上は何も言わずに食事を再開する。エリもパンに手を伸ばした。


「先に戻ってる」


 食事を終えたトールが、そう言って席を立つ。食器をカウンターに戻すと、まっすぐ食堂を出て行ってしまった。


 後ろ姿を見送りながら、エリはほっとしていた。父の話はいいけれど、母について話すのは気が進まないのだ。


 母は、いつの間にかいなくなっていた。


 そのときのことは、よくおぼえていない。ただ、帰ってこない母のことを父が捜しに行ったのはおぼえている。


 その日のうちに父は帰ってきたと思うけれど、母がいないことより、父まで帰ってこないんじゃないかと、そっちのほうが不安だった。


『俺たち、ママに捨てられちゃったよ』


 あるとき父は、エリを抱きしめてそうつぶやいた。


 それでもエリは、あんまり悲しくなかった。少しは寂しかったような気がするけれど、父がいるならそれでよかった。もともと母に嫌われていたことを知っていたから。


 夜中に父と母が言い争う声を聞いたことがある。


 夢うつつで、何を話しているのかはよくわからなかった。けれど父が「エリ」と言うのが聞こえた。その直後に母が大きい声を出して、それで目がさめた。


『好きで産んだんじゃない』


 それを聞いたとき、なんのことだろう、と思った。だんだん、ああ自分のことか、と理解した。そうだったんだ、と指先が冷えた。


 母がいなくなったあと、父と二人で町の中をさまようようになった。あれはたぶん、お金がなかったからだ。


 母がいたころに住んでいた家とは違う場所に寝泊まりしたし、父の懐に抱かれて外で眠ったこともある。


 何の不安もなかった。母に嫌われているなら、エリの味方は父しかいない。そして母に捨てられたのなら、父の味方はエリだけだった。


 でも、その父もエリの前から消えてしまった。


 あの日、父と手をつないで馬車に乗った。めったに乗ることのない馬車がうれしくて、とてもはしゃいだことをおぼえている。


 父が馬車代をどうやって工面したのかは知らないけれど、エリとの約束をかなえてくれたのは確かだ。


 だいぶ前に乗ったとき、また乗りたいと言ったエリに「今度な。かならず」と父は言ったのだから。父はいつもエリとの約束を守ってくれた。


 残念ながら途中で寝てしまって、乗っているときの記憶がない。次の記憶は、馬車を降りたあとだ。


 知らない町だった。曇り空にがさしたように眠気が一気に吹き飛んだ。初めて見る景色にきょろきょろするエリの手を引いて、父は歩きはじめた。


 父の手は冷たかった。でもエリの手はぬくまっていた。エリの体温は父の手に移り、つないだ手の温度差はやがてなくなった。


 父の手を温めたのは自分だ、わたしの手柄だ、そう思って誇らしかった。


 けれど、手は離れた。女子修道院の前でエリに待つように言ったまま、父は姿を消した。


 きっと何かあったのだろう。戻るに戻れない出来事が父の身に起こったのだ。だって父が約束を破ったことなんてないもの。少し遅くなっているだけだ。


 だから待とうと決めた。

 

 生まれたことが罪なら死ぬしかない、とトールは言った。それに似たことをエリも考えたことがある。


 母に望まれない子供は、生まれたことが罪だったのだろうか。父に何かがあったとすれば、罪深い子供の手を引いたせいだろうか。こんな自分が女子修道院なんて場所にいたら、神様が怒ってしまうんじゃないだろうか。


 思い悩むエリに、女子修道院は教えてくれた。


 ――罪深い人間に与えられた生は、罪から救われるための時間です。


 それなら生きていける。女子修道院に来てから、やっと息ができるような気がした。


 今頃、シーラ院長はどうしているだろう。あんな別れ方をして、もっとていねいに挨拶をしたかったとも思う。それでもあの場所に戻る気にはなれない。


 トールは隣の国へ行くらしい。たぶんそこに父はいないのだろう。けれどトールは父のその後を知っている人だ。


(それを教えてくれるだけでいいのに)


 それだけできっと、きっと、たぶん。


 食事を終えたエリは、困ってしまった。このあとどうすればいいのだろう。


 部屋に戻っていいのだろうか。迷わずに戻れるだろうか。戻る前に、食事で汚れた手を洗いたい。井戸を使うのに、誰かに申告が必要なのだろうか。


 女子修道院では、何をする時間なのかが厳格に決められていた。けれど、ここは違う。その自由さが、ベールを脱いだ頭みたいだと思った。解放されてすっきりする一方で、頼りなさも感じる。


 細かい決まり事は窮屈だけれど、それが自分を守ってもいたのだと気づいた。次に何をするのかを自分で選ぶというのが、こんなに不安で恐ろしいことだとは知らなかった。


 それでも、引き返すつもりはない。


(井戸で手を洗おう)


 そして部屋に戻ろう。女子修道院の外で眠るのは七年ぶりだし、隣でトールが眠ると思えば気まずいけれど、横になったらきっとすぐに眠れる。それくらい疲れている。


 眠る前にはいつものように祈ろう。こんな自分にも恵みをくださる神様に、感謝を。

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