04「わたし、へこたれません」
カウンターのすぐ横にある階段を上ると、泊まる部屋はここだと言われた。
「暖炉はないけど、あったかいでしょう。食堂にある暖炉の煙突が壁を通ってるのよ。もちろん火は消さないから安心してね。でもこっちの火は寝るときに消してちょうだい。油代は別料金……てのは冗談だけど、節約にご協力を。
お便所はそこのドアね。近頃の都会じゃ水洗っていうのになってるらしいけど、まあ、部屋の隅でおまるに座るより専用の小部屋があるだけでも、うちは気が利いてるでしょ?
顔や手足を洗いたかったら中庭の井戸へ。食堂の横の廊下から行けるからね。夕食はあと一時間ぐらいで店じまいだから、食べるなら早めにね。ああ、夕食の時間が終わったら廊下も灯りを落としちゃうから、夜中は出歩かないことを推奨するわ」
足元を照らしてきたランプを枕元の小さなテーブルに置いて、案内のおばさんは部屋を出て行った。
ランプが照らし出すのはテーブルの両隣にあるふたつのベッドだ。それ以外は暗くてどうなっているのかわからない。
たぶん歩きすぎたのだと思う。もう自分の足で歩いているという気はしなくて、二本の棒を無理やり持ち上げるような感じで腰から下を動かしてきた。
宿の受付でトールが話をしているときは、とにかく休みたくて、一人部屋でも二人部屋でも、どっちでもかまわないと思った。
そもそも女子修道院では共同寝室だったから、ひとりで眠ったことがない。知らない町でひとりにされるより、誰かと一緒のほうがよかった。
(それに……別の部屋だったら、知らないうちに置いていかれちゃうかもしれない)
トールがベッドをまわりこんだ。壁際に荷物をおろす背中が、暗がりに沈みかける。
エリはすぐにでもベッドに倒れこみたかったけれど、休む前にどうしても確認しておかなければいけないことがあった。
「あの、トールさん」
振り向いたトールの顔がぼんやりと闇に浮かんだ。ランプの灯りがかろうじて照らしている。
トールにもエリの姿はよく見えていないはずだ。それでもエリに体ごと向き直って、先に口を開いた。
「呼び捨てでいい」
「と、トール、ですか? どうして?」
思いがけない申し出だった。年上の人を呼び捨てにしたことなどない。
戸惑うエリをよそに、トールは鼻で笑った。
「ていねいに呼びあう兄妹なんて、不自然に思われるだろ」
「兄妹って、でも……」
「ほんとのことを言ってみろ。見習い修道女が通りすがりの男について来ました。そんなばかな話、誰が信じるんだ。俺が連れ去ったみたいに疑われるのは嫌なんだよ」
トールはさっきの受付で、エリを妹だとはっきり言った。どうしてそんな嘘をつくのかと思ったけれど、問いかける元気もなくてエリは黙っていた。
(ほんとのことを言うのがどうしていけないんだろう)
嘘をつくほうがいけないはずだ。それとも、ほんとのことを言っても誤解されて伝わるから、そっちのほうがいけない、ということなのだろうか。
考えてもよくわからなかった。
わからないということが、すでにいけないことなのかもしれない。女子修道院の外の世界をほとんど知らないのだから、納得できなくてもトールの言葉に従うのが、きっと正しいことなのだろう。
「わかりました。じゃあ、トール」
名前を呼ぶと、胸の奥がむずむずした。こそばゆい、と言うのだろうか。
どうにも落ち着かなくて、無意味に何度も手の指を組み替えた。手は、ぽかぽかして汗ばんでいる。外の空気は冷たくても、歩きつづけた体は温まっていた。
「あの、気づいたんですけど、わたし、その……お金を持ってないんです」
微動だにしない沈黙が返ってきた。怒っているのかあきれているのか、よくわからない顔でトールが見つめてくる。
「あの、お昼にパンを買ってくれたときに気づいたんですけど、言い出せなくて。そしたらさっきの宿代も、何も言わずに払ってくれて、本当にうれしかった。ありがとうございました。でも、あの、これから先もわたし……」
「メシ」
「え?」
「食いに行くぞ。急がないと食いっぱぐれる」
「え、あ、はい」
エリの返事が終わる前に、トールは帽子とコートを脱いでいた。まっすぐ扉に向かう背中が暗がりにとける。
エリもあわててケープを脱いだ。手早くたたみながら、どうして話題を無視されたのかと考える。指のあいだからこぼれる水のように、考えようとするそばから思考が乱れた。疲れているのだ。
(とりあえず食べてから考えよう)
そう結論づけて、ろくに力の入らない足で部屋を出た。
廊下を歩きながら、今しがた見てきたばかりの景色を思い浮かべる。この町は小道だらけのようで、どこもかしこも建物に囲まれていた。ひとりで歩いたら、すぐに迷子になってしまいそうだった。
薄青い夕闇の町で、トールはすれ違う人を呼び止めて宿屋の場所を尋ね歩いてくれた。
三組目に呼び止めたのが二人連れのおじさんたちだ。「こんな酔っ払いに何の用だい」と笑いながら、陽気な口調で町の歩き方を教えてくれた。
「石畳を見りゃいいんだよ、そうすりゃあ迷わない」
街路灯近くの石畳には、宿屋や役場までの「案内石」が嵌めこんであるのだ。ほかの石と色が違うし、形も「案内石」だけ三角だし、なかにはわざと大きく窪んでいるものもある。
同じ種類の石をたどっていくと目的地まで行けるというわけだった。ここは旅行者が多く立ち寄る町だから、そういうふうにしてあるのだと教えてくれた。
そのときは話を理解するだけでいっぱいいっぱいだったけれど、こうして振り返ってみると、わくわくしてくる。
初めて見る景色も、知らない町の匂いも、見上げた星空も、何もかもが新鮮だった。
今も息を吸うたびに、まだ知らない楽しみを手繰り寄せられるように思える。宿の廊下にただよう匂いが、さっきから空腹と期待を刺激してくるのだ。
トールに続いて食堂に入ったとたん、エリはたじろいだ。予想よりも賑やかなひとびとの声に驚いてしまった。
エリと違ってトールは平然と歩いていく。その姿を見失わないように、あわてて背中を追いかけた。
暖炉の中で真っ赤な炎が揺れていた。暖かいというより暑いくらいだ。天井からつるされた燭台の火影とかさなって、テーブルに複雑な影が踊っている。
そして何よりも、いい匂いがしていた。
トールが立ち止まったのはカウンターの前だった。壁が四角くくりぬかれていて、カウンターのむこうの調理場が見えるようになっている。
女子修道院の調理場しか知らないエリには、これも新鮮な光景だった。
料理をしているのが男の人であることや、子供がひとり入れそうなほど大きい鍋を見るのも初めてで、ついつい見入ってしまう。
ひとりの料理人がエリたちに近づいた。湯気の立つ器が並べられ、エリは思わず声をあげる。
「いい匂い」
扉の外にまでただよっていた匂いの正体はこれだ。ざく切りのキャベツと骨つきの羊肉を煮こんだスープだった。
おいしそうだと思ったとたん、おなかが鳴ってしまった。思わず背筋を伸ばす。おそるおそる隣を見上げた。
やっぱり聞こえていたのだろう。トールと目が合った。口元がゆがみ、喉の奥で押し殺したような笑い声が聞こえた。
恥ずかしくて一気に体が火照る。エリが視線をそらすと、トールは何も言わずに料理を受け取って、さっさとその場を離れていった。
エリも料理を受け取って、あわててトールを追う。きょうは朝からトールを追いかけてばかりだ。
トールは左右に視線をめぐらせながら歩いて、食堂の真ん中あたりにある二人掛けのテーブルにパンとスープを置いた。
向かい合わせに座ったエリは、トールがすぐさま食べはじめたことに驚いた。
(食前に祈らないなんて)
注意したほうがいいのだろうか。
そっと周囲を窺ってみると、誰もトールの食べ方を気にしていないように見える。そもそも自分たちに関心を向けている人がいない。
もしかしたら、女子修道院の外の世界では祈らないのが普通なのかもしれない。思い返せばお昼のときは自分も祈りを忘れていた。それをトールに指摘されることもなかった。
それなら、トールをまねしてみようか。祈らずに、すぐに食べる――
そうは思ったものの、こうして席に着いている以上、しみついた習慣をやめるのは抵抗がある。
結局いつものように食前の祈りを小声で捧げた。パンとスープをこうして食べられることに感謝した。
朝食は食べそこねてしまったから、きょうはこれが二回目の食事だ。
昼食は、キンネルを出て最初の町に入ったときだった。お昼の鐘が鳴っているなか、トールが近くのパン屋でいくつか買い求めたのだ。
歩きながら食べる背中を、エリは黙って追いかけた。おなかはすいていたけれど、エリにはパンを買うお金がない。だから我慢しようと決めたとき、トールが振り向いた。
「食っていいよ」
ぶっきらぼうな声だったし、顔も怒っているみたいだったけれど、包み紙を渡す手つきは優しかった。
「あ、ありがとうございます」
受け取ると、やわらかな香りがふわりとただよった。簡素な包み紙の中には、まるいパンがまだ三つ残っていた。
「どういたしまして」
にこりともせずに歩き出す背中をエリは追いかけた。パンを落とさないよう強めに握ると、紙がクシャ、と鳴った。トールはもういちど振り向いて、水筒も渡してくれた。
祈りを忘れたのは、歩きながら食べるということが初めてで、トールの優しさがうれしくて、そういう慣れないことだらけで頭も胸もいっぱいになってしまったからだ。
ひとつめの町を出たあとは飲まず食わずで、すぐにエリはくたびれてしまった。
だから次の町では、トールが隣町までの道を尋ねまわっているあいだ、道端で休憩した。その町を出る前に再び水を分けあったのが最後で、その後は休憩を一切とらずに歩きつづけた。
やがて日が暮れて、おなかも頭もからっぽになった。何かを考えようとしても集中できなくて、ただ目の前の背中について行くだけで必死だった。
座りこみたかったけれど、不満は漏らさなかった。旅とはこういうものなのだろうと思うことにしたし、次はどんな町に行くのかと想像すれば歩く力も戻ったからだ。
そうして三つめの町、ここアモットに来たのだった。
祈りが終わると、エリは催促するおなかをなだめにかかった。
宿の入り口に立ったときから、その香りでエリを魅了したスープだ。最初のひとくちで、ふるえた。本当に体の芯からふるえた。
(なんておいしいの)
女子修道院でもこうした料理を作っていたけれど、それよりもおいしい。濃い味付けなのに後味がさっぱりしているから、どんどん飲みたくなる。
骨がついたままのお肉には戸惑った。けれどトールが当たり前のように手づかみで食べていたから、同じように指を添えてかぶりついた。
これも、外では普通のことなのだろう。食堂にいるほかの人たちも、お肉を手で食べている。
肉汁が口の中にひろがった。飲みこむと、おなかから全身に元気が送りこまれていくのがわかる。
「途中で、いなくなると思ったんだけどな」
ぼそっとした声が耳を打った。視線を向けると、エリの食べっぷりに感心するような顔があった。口の中にあるものを急いで飲みこんでから、エリは胸を張った。
「こんなに長く歩くことには慣れてないですけど、わたし、へこたれません」
ものすごく疲れました、なんて絶対に言うものか。そんなことを正直に言えば、足手まといだからと置いていかれるかもしれない。それだけは避けたかった。
「あー……そう」
トールはうんざりしたような顔をして、食事を続けた。
女子修道院では、食事中の私語は慎むべきもの、だった。
禁止というほどではないけれど、食事より会話が中心になると絶対に叱られた。食べることができるということへの感謝が足りない、と言われるのだ。
けれどこの場所の空気は賑やかで、そんな叱責はどこからも飛んでこない。
それに、なんとなく懐かしい雰囲気だった。おぼろげな記憶だけれど、小さいころはこんなふうにおしゃべりをしながら食べていたように思う。
「――ロルフ!」
突然、大きい声が聞こえた。
見ると、母親らしい人が幼い男の子を叱っている。男の子は席を立って走りまわろうとしていたようだ。叱られてしょんぼりしていた。
(お母さん、かあ)
微笑ましいはずの光景だけれど、エリの胸はわずかに苦しい。その原因について考えるのはやめた。よけいに苦しくなることを知っているからだ。
視線をテーブルに戻すと、トールの顔がこわばっていた。まるで恐ろしいものに出くわしたかのように青ざめて、親子を見つめている。
「どうしたんですか」
声をかけると、はっとしたようにトールはエリを見た。
「いや、なんでも」
短く答えて食事を再開する。顔を伏せて黙々と食べる様子は何かをごまかしているようにも見えたけれど、それよりもエリには気になることがあった。
「あの、トールはどこに向かってるんですか?」
琥珀色の目がエリを一瞥した。
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