12「どうして教えてくれないの?」
首をかしげて横に並んだエリを、トールはちらりとも見なかった。
トールが見ているのは入り口のほうだ。カウンターから出てきたおじいさんと、さっき来た男の人とがしゃべっている。
「引っ越してきたばっかりなんで、まだ収入がちょっとねえ……って感じなんですよ。ロッベンってわかりますか。山のむこうの、県境なんですけど。そっちから越してきたんです」
「ほお、それはまた遠くから来なすったねえ」
「田舎町ですからねえ。都会が憧れで」
「そうかい。まあ、チャニアやツヴォルには及ばないだろうが、この町も繁盛してるよ。大きな港があるし、工場もある」
「でしょう? でもここまでの旅費でだいぶ使っちゃってて……」
トールが帽子を深くかぶりなおした。何も言わずに腕をつかんでくる。ケープの上からでもわかる、強い力だ。
引きずられるようにしてエリは歩いた。どうしたんですか、と言いかけたけれど、のみこんだ。血の気が失せたトールの指先を見たら、言葉が出てこなくなってしまった。
トールは顔を伏せぎみにして客の後ろを通り過ぎた。足早にドアを開けて外に出る。少し歩いてから、やっと腕を解放してくれた。けれど何の説明もせず、そのままどんどん歩いていく。
細い上り坂だ。道のてっぺんから誰かの話し声や足音が聞こえてくるものの、二人のいる場所はひっそりとしていた。
「あの、待って、急にどうしたんですか?」
たぶん今は声をかけないほうがいい。そう思っているのに、どうしても尋ねずにはいられなかった。
「ほかの店にする」
「どうして? あのお客さんが来たから?」
「なんでもない」
前のめりに坂を上る背中が質問を拒絶していた。追いかける気持ちが急に遠のいて、エリは足を止める。おなかの底に、真っ黒で重い石が沈んでいくような気分だ。
いったい何度、こうやってこの背中を見つめてきただろう。そのたびに衝動を抑えてきた。トールの手をつかんで振り向かせたい、という衝動を。
出会ってから、およそひと月だ。こんなに近くにいるのに、それなのにまだトールのことを何も知らない。どこから来たのかも、どこに、どんな理由で行こうとしているのかも。
いつか話してくれる日が来るのを待とうと思っていた。でもそれじゃだめだ。ここでいつものように引き下がったら、それが癖になってしまう。どこかで踏みこまないと、これ以上は近づけない。
おなかの底に沈んだ石が、泡を吐いて波紋を作った。抑えこんできた疑問がふつふつと浮かび上がってくる。
息を深く吸った。大きく一歩を踏み出して、ひと息に吐き出す。
「嘘です。トールはあの人から逃げました。そう見えました。なぜですか?」
立ち止まる気配のないトールの袖を引っ張った。すぐさま乱暴に振り払われ、舌打ちまでもらってしまう。
「黙れ」
トールが睨んでくる。反射的にうつむきそうになるのをこらえて、琥珀色の瞳を覗きこんだ。苛立った目、怒っている目、だけど、焦っているような目だとも思った。
(あ)
ふと思い出した。女子修道院にいたときに見た、迷いこんできた猫のことを。草むらの中からじっとこちらを見ていた。とても警戒していて、一歩近づいただけでサッと逃げてしまった。
今のトールはあの猫に似ている。
きっと重大な何かがさっきのお客さんにあるのだ。トールをこんなに警戒させる何かが。
「黙りません」
トールの瞳に戸惑ったような色が浮かんだ。黙れと言われて引き下がらないのは初めてだから、驚いたのかもしれない。
「どうして急にお店から出たんですか」
「気が変わったからだ」
トールが視線をそらして足を速める。離されまいとエリは追いすがった。
「あのお客さんが来たからですか」
「違う」
「そうは見えませんでした」
「うるさいな。どうでもいいだろ」
「知りたいんです。教えてください」
「静かにしろ。大きな声を出すな」
「じゃあ教えてください」
「嫌だね」
「どうして教えてくれないの? 答えを隠す人は、やましいことがあるからだって教わりました。トールもそうなの? あの人がなに? どうして国を出たいの? どうして」
「黙れ!」
トールの手が目の前に迫った。よける間もなかった。指が食いこんで、頬に痛みが走る。片手で口をふさがれたのだ。鼻まで覆われて息苦しくなった。
トールが顔を寄せてきた。ギラギラと燃える目が間近で睨んでいる。乾いた唇から、ひそめた声が放たれた。
「たまにとんでもなくおまえが憎くなる。今もだ。俺はおまえをさらってきたわけじゃない。おまえが勝手について来たんだ。俺の言うことが聞けないなら女子修道院に帰れ」
それだけ言うとトールは離れた。背を向けて坂道を上っていく。大股で、ためらいのない歩き方だった。
頬からトールの手が離れても、痛みは残った。
(憎まれていたの、わたし)
遠ざかる背中を白いものが遮る。はらり、はらりと灰色の空から舞い落ちてきて、石畳にうずくまって消えた。消えたそばからまた新しく落ちて、エリのすくんだ足を縫いつける。
(そんなに、憎まれていたの)
鼻をすすった。寒さと胸を締めつける苦しさとで、息がしづらい。
(そっか、そうだよね)
勝手について来たのはこっちのほうだし、トールは最初から「質問されても答えない」と言っていた。それを無理に、しつこく尋ねたら憎たらしくなってしまうだろう。
指の感触が残る頬に冷たいものが触れた。何も知らない雪が、エリとトールを隔てるように増えていく。この感覚には覚えがあった。
目の前で遠ざかっていく背中と、七年前にエリを置いてどこかに消えてしまった背中がかさなる。
追いかけなかったから、会えなくなってしまった人。トールも、そうなってしまう気がした。
「……ごめんなさい」
喉から押し出した声は小さかった。とてもトールに届いたとは思えない。現にトールは振り返らなかった。
もういちど鼻をすすってから、エリは小走りで坂道を上りはじめた。
憎まれても、帰れと言われても、もう帰るところなどない。帰りたいところなんて、トールのそば以外にないのだ。
「ごめんなさい」
追いついて、隣に並んだ。トールは振り向いてくれなかった。青白い横顔が怒っている。こらえているのか寒いのか、筋張った手が固い拳を作っていた。
その手にエリは触れた。冷たくて、ゴツゴツしている。
はじかれたようにトールが手を引いた。目が合う。すかさずエリは告げた。
「ごめんなさい」
面倒そうに顔をしかめて、トールは白い息を吐いた。ちらりと後ろを見やってから、またエリを見る。
「大声を出すな」
「……はい」
トールの声はさっきよりやわらかかった。やっぱりあのお客さんから逃げたのだと思ったけれど、もう追及する気にはなれなかった。
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