35 カレンが迎える祭日
「貰い物なんですけどね、ずっとうちにあって食べきれないので、よかったら食べてください」
愛嬌のある笑窪を見せてその人は言った。
小脇に抱えた籠の覆い布を取って、中を見せてくれる。ジャガイモだ。秋に収穫したものだろうけれど、まだ土がついていた。
近所ならともかく、わざわざハリンからロッベンまでこれを抱えてくるとなると、ただのおすそわけとは思えない。カレンがろくに食事をしていないのを気遣ってくれたのだろう。
「まあ……ありがとうございます」
きちんとお礼を言ってから籠を受け取った。
ゲオルク刑事が訪ねてくるのは、これで二回目だ。前回は先週のことで、兄が帰った直後だった。
特に新しい知らせはないんですが、と言いながら、様子を見に来てくれたのだった。ロルフの近況や、これまでロルフがどんな暮らしをしていたのかも教えてくれた。
この人のせいでロルフが死ぬのだと思ったときもあるけれど、逆恨みだとわかっている。ゲオルク刑事はどこまでも正義を実行しているだけだ。
「たいしたことでは」
ゲオルク刑事は肩をすくめて笑った。カレンを見つめる青い目に翳りがある。嫌な予感が背筋を這いのぼった。
「あの……ロルフは?」
「ええ、そうですね――」
言いよどんで視線を宙に投げる。その仕種だけで、よくない知らせがあるのだとカレンはわかった。
「ツヴォルに移送されます。二週間後に」
聞いたことのある町だ。いつだったか、だいぶ前に近所の誰かがそこに出稼ぎに行ったという話だったか。とにかく大きい町だ。
「刑の執行はそちらで行われるようです。執行の日時はあっちに移ってから決められるとか。そうなると、僕も把握が難しい」
「……年明けですね」
それだけ言うのでせいいっぱいだった。崩れそうになる膝に力を入れて、無理に微笑んだ。
「もう会えないんでしょうか」
カレンが問うと、ゲオルク刑事は申し訳なさそうにうつむいた。
(この家にいた人たちは、みんな、いなくなるのね)
どこで間違えたのか。最初の失敗は何だったのか。考えれば考えるほど、おなかの底が重くなった。重みで潰れそうだ。
「――少し、引っかかっていることがあるんですよ」
独り言のようにゲオルク刑事がつぶやいた。首をひねって床を見つめている。
「ロルフくん……状況を説明してくれたときの様子が……」
「――何か?」
「いや……台所に行ったヘンドリーさんは、そこで何をしていたのかと質問したら、言葉に詰まったように見えたんです。そのあとの出来事を語るのにためらったのかと思ったんですが、なんだかちょっと、最近よく思い出して」
「何か、おかしいんですか?」
何を言いたいのだろう。もう裁判も終わってしまったのに、何が気になっているのだろう。
カレンの困惑を感じ取ったのか、ゲオルク刑事はごまかすように笑った。
「いえ、何でもありません。それだけ僕も気にかけているってことで――あ、そういえば、あさってはどうされるんです?」
「あさって?」
「特に準備をしていないようだから。親戚のおうちで過ごされるんですか?」
「ああ……」
言われて気づいた。あさっては冬至祭だ。
毎年この日は部屋を飾りつけたり、特別な料理を用意したりして、神様を祝う。教会に行く以外は家にこもって家族と過ごすのがならわしだ。
けれど今年は何の準備もしていないし、一緒に過ごすべき家族もいない。
「いいえ。ここにいます」
「そうですか。僕も教会に行くだけですよ。ふだんは行かないので、せめてこういう特別な日ぐらいはね。こんないい加減な人間には神様のご加護なんてないですかねえ?」
そう言って肩をすくめ、控えめに笑い声を立てる。返す言葉が思いつかずに、カレンは曖昧に微笑んだ。
「それじゃあ、また来ます。ジャガイモ、食べ尽くしてくださいよ」
おどけた調子で言うと、ゲオルク刑事は帰っていった。
とたんに家の中が静まりかえったけれど、気遣いに満ちた声は余韻となってカレンにまとわりついた。
腕の中のジャガイモをじっと見つめる。
「よし」
顔を上げて、台所に入った。
ハリンから戻って以来、ここに来るときはいつも心の準備が必要だ。
窓はあるけれど、曇っているから薄暗い。あの日の出来事が嘘のように誰もいない台所は、じっと立っていても何も起こらなかった。
調理台にジャガイモを置いた。
人の好意を無駄にしてはいけない。ちゃんと料理をして、すべて食べよう。
(お肉を買わないと)
ジャガイモとチーズだけでもおいしいけれど、やっぱりお肉がないと。運がよければきっと手に入る。それを一緒に煮こんで、パンも用意しよう。きょうの夕食はそれで決まりだ。
兄が置いていってくれたお金を取りに行こうと振り向いたとき、血の色の残像が目を刺した。
敷き詰められた石の床に、うっすらと残る茶色いしみ。
さっきは見えなかった。それなのに、不意打ちだ。霧が立ちこめるように、赤いにおいがよみがえった。
大柄な彼の重さを両腕が思い出す。厚い唇が最後に吐いた息が、今も顔に当たっているような気がしてくる。
目を閉じた。
膝がふるえている。自分か世界か、どちらかが回転しているようで、気持ちが悪い。
(あなたは、何を言おうとしていたの)
ヘンドリーがこの場所でロルフに刺された日、その二日前のことが頭をよぎった。
日が暮れてから、酔っておぼつかない足取りでヘンドリーはベッドに倒れこんだ。カレンが毛布をかけてあげると、寝言のようなつぶやきが聞こえた。
『おれのことが好きで産んだんじゃないってよ』
何の話かと問いかけたけれど、応じてくれなかった。一方的につぶやいて、そのまま彼は眠ってしまった。
どうやら、前の奥さんのことを話しているようだった。
子供を産んだのは自分を好いてくれている証拠だとヘンドリーは思っていたけれど、そうじゃなかった。
それでも、彼女は子供のことは愛していた。だから子供がいれば彼女も離れていかないはずだとヘンドリーは信じた。それなのに、と。
独り言の内容は、だいたいこんなところだ。
(最期に、誰に、何を言おうとしていたの)
目眩がひどい。こらえきれずによろけて、水甕にぶつかってしまった。とっさに手を伸ばして抱きとめる。たぷん、と水がはねる音がした。
その音が、自分の中からも聞こえた気がした。目頭が熱くなって、視界がゆがむ。
(神様なんて、ちっとも優しくないわ)
胸の中で、そっと毒づいた。
お昼におかゆを食べるのは、冬至祭の決まり事だ。
オーツ麦をミルクで煮こみ、バターと砂糖を溶かしこんでシナモンも加えれば、甘いおかゆの完成となる。
このおかゆを好物にしている妖精が冬至祭の日に家までやってくる、と昔から言われている。おかゆがある家には幸運をもたらし、おかゆがない家には怒っていたずらをしていくのだ。
妖精は目に見えない。いつ来てもいいように、妖精の分のおかゆを残しておくのも昔からのならわしだ。
今年のおかゆは、いつもより少なめに作った。
それでも六回はおかわりできる。冬至祭は三日間も続くから、少しずつ食べて鍋をからっぽにしていくつもりだった。
去年はヘンドリーとロルフも一緒におかゆを食べた。
冬至祭は一年の収穫を祝って乾杯する日でもあるから、あの日のヘンドリーは上機嫌でお酒を飲んでいた。
ロルフもヘンドリーの話に耳を傾けていたし、ときおり笑顔を見せながら冗談を飛ばしたりもしていた。
「冬から春へと向かいはじめるのが冬至。この日に神様が生まれたのよ」という声が唐突によみがえった。
春を待ち望んで冬至を祝い、この日に生まれた神様のことも祝う。それが冬至祭よと義母は説明していた。妖精もこの日を楽しみにしていて、元気に動きまわるの、と。
いつも店にいるカレンがずっと家にいるから、ロルフはここぞとばかりに甘えてきた。思い出せば思い出すほど、胸が苦しくなる。
冬至祭のときに仕事をする人はいない。教会に行く以外は外を出歩くこともない。今はこの町の誰もが、家の中でおかゆを食べながら大切な人と過ごしているはずだ。
黙々とおかゆを食べたカレンは、再び台所に立った。
冬至祭の飾りつけや料理は、何日も前から準備するものだ。二日や三日ではとても間に合わない。
だから今年の飾りつけは諦めた。けれど、料理だけは作ることに決めた。きのうまでになんとか用意できた食材で、これから夕食をこしらえる。
時間がないから、たいしたものはできない。それっぽいものができれば上出来だと思うことにした。
豚肉は売り切れていたから、中心になるのは羊肉だ。味付けを変えて品数を増やすつもりだった。
野菜も手に入らなかったけれど、ゲオルク刑事のおかげでジャガイモだけはたくさんある。
兄が買ってくれたベーコンもまだあるから、茹でて潰したジャガイモと合わせてサラダにしようと考えた。
(あとはお菓子と、飲み物も忘れないようにしなきゃ)
カレンは料理に没頭した。
こんなに集中するのは久しぶりだ。休憩すると暗い気持ちが膨れあがるから、ひたすら手を動かして、料理のことだけを考えるようにした。
あらかた作り終えたのは、午後四時の鐘を聞いたあとだった。
肉料理が二品と付け合わせのサラダ、焼き菓子が三種類に、温かい飲み物、そしてお昼の残りのおかゆ。
お肉はもう一品、あしたのために下味だけつけて寝かせている。冬至祭に欠かせないお菓子も、あしたまた作る予定だ。
料理を食卓に並べたカレンは、このあとのことを考えた。
五時には教会の鐘がいつもと違う鳴り方をして、お祈りが始まる。去年は三人で教会に行った。今年は、どうしようか。
暖炉の火が揺れた。窓もガタガタと揺れて、隙間風の音も聞こえてくる。
カレンは窓辺に寄った。曇ったガラスをなでて、即席のまるい覗き穴をこしらえる。
空は灰色の雲に覆われていた。今朝から降りつづけているのは白く細かい氷の粒で、風にあおられ乱舞している。
とっくに日は落ちているけれど、真っ暗ではないから庭の様子も見えた。だいぶ積もっているようだ。
教会に行くのをやめようかな、という気持ちになってきた。
それとも、こういう天気だからこそ行く意味があるのだろうか。この雪が神の与え給うた試練で、それを乗り越えよ、とでも?
(行くなら、雪かきをしないと……)
ぼんやりと眺めていた庭のむこうに、動くものが見えた。何だろうと目を凝らす。
スカーフを頭にかぶり、ケープをまとった影が門を押している。服装からしてどうやら女の子のようだ。降り積もった雪で門が重いのだろう、手こずっているのがわかった。
妖精だろうか、と考えて、まさか、と打ち消した。
物盗りか、あるいは誰かの使いか。使いだとすれば、急ぎの用だ。こんな日にわざわざ来るのだから。
それにしても女の子とは。
不思議に思ったものの、少女が門の内側に体をすべりこませたのを見ると、椅子にかけていたケープを取って外に出た。
狙いすましたように凍えた風が雪のつぶてをぶつけてくる。カレンは身をかばって前屈みになった。
玄関から門までのちょうど真ん中に林檎の木がある。白くて大きい、不格好な手のひらのように見えるその木の下を、少女がよろよろと歩いていた。
この家は裏庭のほうが広くて、玄関前の庭はそれほどでもない。雪さえ降っていなければすぐに駆け寄れるほど、少女は近くにいた。
玄関ポーチを降りたカレンに、少女も気がついたようだ。カレンのほうに顔を向けて、ためらうように立ち止まった。
積もったばかりの雪は足がはまりやすく、思うように歩けない。それでもカレンは立ち止まらなかった。ほんのすぐそこ、目の前にいるのだ。
不意に少女がよろめき、足元の雪に手をついた。カレンは急いで両手を伸ばす。
「あなた、どうしたの?」
抱き起こすと、スカーフでぐるぐる巻きにされた顔が持ち上げられた。少女の手元で金属の音が鳴る。灯りは消えているけれど、ランタンを持っているようだ。
しっかりとカレンを見つめた少女が、口元のスカーフをずらした。
「ひとを、さがしてます。トール……ロルフ」
はっとしてカレンは少女を見つめ返した。
薄暗いから顔色まではわからないけれど、あどけなさの残る顔立ちをしているのはわかった。雪がスカーフに張りつき、まつげにも降りかかっているのが見える。ひどく寒そうだ。
風が耳元で唸り声をあげた。足元から舞い上がった雪がカレンの顔にぶつかり、二人のあいだを遮る。
ここでは話ができない。とにもかくにも、まずは暖かいところへ連れて行かなければ。
「中に入りましょう。さあ」
少女の背を押そうとして、カレンはぎょっとした。少女が雪のかたまりを背負っているように見えたのだ。
それほどたくさんの雪が、背中の荷物に積もっていた。いったいどれくらいの時間を歩いてきたのだろう。
少女がカレンを見上げている。不安なのだろうか、今にも泣きそうだ。
雪を手早く払い落として、少女の肩を抱いた。もういちど「さあ」と声をかける。
小柄な体を支えてやりながら、ゆっくりと家の中に導いた。
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