27「そのための、これまでだった」
恰幅のいい警察官が睨んできた。
エリは怖じ気づいて、思わず立ち止まりかける。ゲオルクが平気な様子でカウンターに近づくから、その背に隠れるようにして追いかけた。
「やあ、さっきはどうも。面会希望なんだが、いいかな」
ゲオルクが愛想よく話しかけると、警察官は少し表情をやわらげた。「これに」と一通の書類を差し出してくる。
ゲオルクは羽ペンにインクをつけて、さらさらと何かを書いた。
「これでいいかな」
書類を一瞥して、警察官は小さくうなずいた。
「行こう、エリちゃん」
焦げ茶色のカウンターを囲む壁にはドアが三つある。カウンターの両横と、奥にひとつずつだ。
そのうち向かって左にあるドアを、ゲオルクは迷うことなく開けた。
細い廊下が伸びていた。ドアのすぐそばに警察官がひとり立っているほかは誰もいなくて、ひっそりとしている。
ゲオルクに少し遅れて歩きながら、エリはあたりをきょろきょろと見まわした。
誰もいないように見えて、どこかから監視されているような気もするのだ。落ち着かなかった。
廊下の左右に無人の小部屋がいくつも並んでいる。ドアはついていない。そのうちのひとつにゲオルクが入ったから、エリも後に続いた。
壁際に背もたれのない椅子が四つ並べられている。ほかには何もない部屋だ。天井の近くに小窓があるけれど、暗い。明かりは四隅に据えられたランプだけだった。
ゲオルクは手早く三つの椅子を中央に動かした。壁際から一歩も動かずに、右から左へ置き直す感じだ。動きに合わせて影が不気味に揺らめく。
「座って待ってよう」
三角形に置かれた椅子のひとつにエリは腰を下ろした。壁が近くて窮屈に感じる。ぽっかりと空いた出入り口から寒々しい廊下が見えていた。
捕まっている人がこの部屋で誰かと会って、そのまま廊下に逃げてしまうことはないのだろうか。
そんな疑問が浮かんだけれど、たとえ逃げても突き当たりには警察官がいるから、逃げ切れないようになっているのかもしれない。
椅子は堅くて冷たくて、おしりが痛い。足元から冷気も這いのぼってくるし、埃臭くて鼻がむずむずする。居心地はとても悪かった。
「僕はね」
エリと体ひとつぶん離れたところに座って、ゲオルクが口を開く。
「どうすれば君たちを助けられるのかと考えている。だから本当のことを、まずは知りたいんだ」
見つめてくる眼差しは力強い。それでいて穏やかな気配も感じた。
(わたしも知りたいです。ほんとのこと)
胸の内側でエリは答えた。
あまり話をしたくない。いい人だとは思うけれど、この人が敵なのか味方なのか判断できない。へたに何かをしゃべってトールを窮地に追いこんだら、と思うと口を利く気になれなかった。
アパートからここまで、ゲオルクは馬車で連れて来てくれた。その馬車の中で質問されたことを思い返す。
ゲオルクはまず、こう言った。
「シーラ院長が心配していたよ。君はどうして女子修道院を出て、彼について来たのかな?」
不意を突かれた。懐かしい名前だ。優しい院長。優しくて厳しくて、女子修道院でエリが誰より頼った人。
ゲオルクは院長と何を話したのだろう。エリのことを院長はどう語ったのだろう。
気になったけれど、質問はしなかった。自分はあの場所を捨てたのだ。そのかわりに選んだのは、遠くまで連れて行ってくれる手だった。だからこう答えた。
「手が、寒そうだったから」
「どういう意味?」
すかさず聞き返されたけれど、無言で押し通した。
耳が物音を拾う。回想から引き戻された。
目の前の壁が、動いた。暗がりで気づかなかったけれど、ドアがあったのだ。
まず入ってきたのは制服を着た警察官だった。その後ろから現れた茶色い癖毛を見たとき、エリはとっさに立ち上がっていた。
てっきり手錠をされているものと思っていた。ところが骨張った両手は自由で、何もつながれていない。手袋と帽子はないけれど、マフラーはしているし、コートも見慣れたものを着ている。
いつもと変わらない姿を見て、ほっとした。
エリと目が合ったトールは、その場に立ち止まった。ランプに照らされた顔は無表情で、何を考えているのか読み取れない。
トールを先導してきた人は見張り役だろうか。廊下側の出入り口をふさぐように立ったあと、「座れ」と胴間声を発した。
トールに対しての言葉だろうと思う。それでもエリは自分が叱られた気がした。迫力に気圧されて、すぐに腰を下ろす。
ほぼ同時にトールも歩き出した。億劫そうに椅子に座ると、顔を上げる。細い目が見据えた相手はエリではなく、ゲオルクだ。
「どちらさま」
ぶっきらぼうな声が乾いた唇から吐き出された。対するゲオルクは、にっこりと笑って答える。
「はじめまして。ゲオルク・ランゲです。人捜しをしながらこの町まで来た、刑事です」
ゲオルクが襟元のバッジを示すと、トールの眉根が寄った。警戒するように声もさらに低くなる。
「刑事? 警察?」
「この町の警察じゃないから、君を捕まえたのは僕じゃないし、この件で君をどうこうする権限もない。ただ、場合によっては力になれるかもしれない」
「どこの警察? 誰を捜してるんですか」
「その話は、今は関係ない。時間があまりないから本題に入ろう」
トールの痩せた頬がピクリと動いたように見えた。どういうことかと問いかけるようにエリに目を向ける。
「あの、ゲオルクさんは、お店のお客さんだったんですけど、その、」
「エリちゃん」
ゲオルクがエリの言葉を遮った。
「まず解決しなきゃいけないのは、トールくんにかけられている窃盗容疑だ。先にその話をしよう」
しっかりと目を合わせて言い切られてしまうと、エリには返す言葉がなかった。はい、と返事をして、膝の上で拳を握る。
「五分」
胴間声が響いた。
出入り口に立っている警察官が懐中時計を確認している。そしてもういちど胴間声で告げた。
「あと五分で終了だ」
ああ、とゲオルクが溜め息をつく。
「時間がもったいない。トールくん、正直に答えてほしい」
ゲオルクは姿勢を正し、トールに向き合った。
「君は、工場で盗みを働いたことがありますか?」
トールはゲオルクをひたと見据えた。
険しい目つきだ。もともと細い目だけれど、こうして睨んでいるときは針のように細くなる。ゲオルクを信用していないから話したくない、そう言っているようにエリは感じた。
トールに睨まれてもゲオルクは動じない。静かな表情で返事を待っている。
音もなく積もっていく雪のような沈黙に、とうとう耐えきれなくなったのはエリだ。
「教えてください」
トールの瞳が動いて、エリを映す。この瞳の奥にある本音に触れたいからこそ、ここに来たのだ。
「ほんとのことを教えてください。聞きたいことも、言わないといけないことも、ほかにあるんですけど、今はひとつだけ」
それでもトールは黙っていた。怒っているような顔のまま、何も言わない。
このままでは時間切れになってしまう。さらに言い募ろうとして息を吸ったとき、ふとエリは気づいた。
長い前髪の奥からじっと見つめてくる眼差しが、怒っているものとは少し違うような気がしたのだ。
言いたいことがあるのに、言ったところでどうしようもないと諦めているような、諦めつつも責めているような、そんな目つき。
『盗んだって思ったろ』
あの夜のトールが目の前のトールとかさなる。
どうせ疑ってるんだろう。そう言われているような気がした。
(そんなこと)
たしかに疑ったり悩んだりしている。そういうエリの弱さをトールは見抜いているのかもしれない。
けれど信じたいし、信じることにしたし、今この瞬間もトールの味方でいようと思っている。それをどうにかして伝えたかった。
「わたしは、トールが巻きこまれただけだと思ってます。盗んだのはトールじゃない。だって、そのための、これまでだったはずだから」
罪を抱えて、それでもいつか誰かを救えるようになりたいと、トールは言ったはずだ。トールは自分で自分の言葉を裏切るような人じゃない。そう思いたい。
あのとき、新しく生き直すトールを見届けたいと言った自分の言葉も、裏切りたくない。もっと信じてほしいし、信じさせてほしかった。
トールは何かをこらえるように顔を伏せた。
「ほんとうのこと」
ぽつりとつぶやいて、またエリと目を合わせる。琥珀色の瞳が濡れたように光った。
「盗んでないよ。俺は何も盗んでない」
「本当だね?」
念を押したのはゲオルクだ。深く覗きこもうとするその視線をトールは受け止めた。
「事実です」
「神に誓って?」
「神様なんて信じてないけど」
トールの口元に苦い笑みがただよう。そのまま小さく首を横に振った。棘の消えた声で、きっぱりと告げた。
「盗んだのは俺じゃない」
出入り口の胴間声が「時間だ」と告げて、トールを立たせた。ゲオルクも立ち上がって、さらに問いかける。
「真犯人に心当たりがある?」
背中を押されて歩きながら、トールは顔だけ振り向いた。
「さあ……でも俺じゃないです。それしか言えない」
「わかった」
ドアの前でトールは立ち止まった。胴間声がトールの背を押して「歩け」と促す。抗って振り向いたままの顔をゲオルクはしっかりと見つめて、二、三度うなずいた。
「その言葉を信じよう。僕のほうからも君の無実を伝えておく。どこまで役に立てるかわからないけど、真犯人が判明するまでの辛抱だ」
トールがエリに視線を送る。謝るような目だった。
衝動に突き動かされてエリはその場を動いた。押し出されるようにトールが歩く。エリの目と鼻の先でドアが閉まった。鍵のかかる音がした。
「エリちゃん、もう行こう」
「あの、トールはここから出られるんですか?」
ゲオルクが微笑む。心配することなど何もないと言いたげな、頼もしい声で答えてくれた。
「彼が無実の主張を貫くなら。そして、ほかの誰かが自白すれば、ね」
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