22「宝物が増えました」
「エリちゃん、なんだかフラフラしてるけど大丈夫かい」
カウンターで帳簿をめくっていたソンドレが、老眼鏡を傾けて聞いてきた。
棚の埃をおざなりに払っているのが気になったのだろうか。エリは手を止めて曖昧に笑った。
「顔も赤いし。熱があるんじゃないのかい」
「ええっと……そうでしょうか」
熱があるかはわからないけれど、アパートを出たときから体がだるかった。
それでも動けないほどじゃないし、ゆうべは積もらなかったから雪かきもないし、乗り切れるだろうと思ってお店に来たのだ。
「きっと疲れが出たんだよ。きょうはもう帰りなさい。ゆっくり休んで、元気になることが先決」
穏やかに笑ってソンドレが言う。
エリはその言葉に甘えることにした。お店にいても、きょうはあまりやることがない。それなら帰って横になりたかった。
「それじゃ、帰ります。ごめんなさい」
「はいはい、お大事に。気をつけて帰るんだよ」
「ありがとうございます」
いったんカウンターの裏にまわって帰り支度をととのえたエリは、ふらつく足で出入り口に向かった。木製のドアを引いて開ける。
「あ、ごめんなさい」
人が立っていた。お客さんだ。進路をふさぐ形になってしまったので、あわてて謝る。
「いや、こちらこそ」
にっこりと笑ってお客さんは道をあけてくれた。つば付きの黒い帽子と、暖かそうなロングコートを身につけた男の人だ。笑うと笑窪ができた。
ソンドレが店内から「いらっしゃい」と声をかける。それをどこか遠くに聞きながら、エリは振り返らずに家路を急いだ。
冬の空は雲が居座っていて、昼でも薄暗い。
冷たい風が顔に突き刺さる。ゾクッと、寒けがした。
アパートに帰り着くと、吸いこまれるようにベッドにもぐった。なじんだ匂いに心がほぐれる。
目を閉じると、闇の中で何かの模様が渦巻いた。螺旋のようでもあるし、ぐにゃぐにゃと形を変える奇妙な生き物にも見える。
不思議な模様を見ないようにしたら、トールの顔が浮かんだ。
あの告白の夜、「これからもよろしく」とトールは手を差し出してくれた。そのときに触れた手の大きさを思い出しながら、エリは手袋を編んできた。
夕食ができあがるまでの待ち時間や、トールが夜遅く帰ってくるまでのあいだ、暖炉の明かりを頼りにせっせと編み棒を動かしたのだ。
そうしてやっと完成した手袋をトールに渡したのは、ゆうべのことだ。
色はマフラーと同じで、青色にした。きっと喜んでくれるとは思ったけれど、それでも渡すときには、どうしても怖くなった。
「え、これも? てっきり自分のを編んでるんだと思ってた」
と、トールはいつもより高い声を出した。さっそく両手にはめて、「なかなか。ありがとう」と小さく笑ってくれた。
今朝、エリが編んだマフラーと手袋を身につけてトールは出かけた。
作ってよかった、と安心したし、満足した。直後に具合が悪くなってしまうなんて思わなかった。体は自分で思う以上に疲れていたのかもしれない。
(早く治さないと。ソンドレさんにも、トールにも、迷惑をかけてしまう)
トールの顔やソンドレの顔を思い浮かべるうちに、いつの間にか眠っていた。
夢をたくさん見たような気がする。
内容はおぼえていないけれど、いろんな町を冒険したあとのような気分で、エリは目をさました。
薄暗い天井が見える。頭を動かすと、ソファのむこうで炎が揺れていた。部屋は暖かい。
(今は何時だろう)
ぼんやり考えたとき、水をかけられたように唐突に思い出した。暖炉に火を入れずに寝たはずだ。誰が火を入れてくれたのか。
そんなの、ひとりしかいない。
(ごはん、作ってない!)
トールは仕事に行くと、いつも外で食べてくる。けれど帰ってきてから夕飯を食べる日もあるのだ。
その日の気分で決めるらしく、きょうは手袋を渡したあとに「帰ったら食べるから作っといて」と頼まれた。
それなのに、すっかり忘れて寝てしまった。これは大変だ。
跳ね起きるには体が重かったので、エリはゆっくり半身を起こした。
テーブルに地図をひろげて見入っているトールがいた。エリに気づいたのか、顔を上げる。口元に微笑が浮かんだ。
「よく寝てたな」
「あ、あの……」
「じいさんが心配して様子みにきたよ。これ、差し入れだって」
トールの指がテーブルの隅を示した。
お皿の上にクッキーが積み重なっている。ソンドレの部屋で過ごしたときの、おいしい香りを思い出した。
「わざわざ……あとでお礼をしなきゃ。あの、」
「食欲は?」
「え?」
エリは戸惑う。夕食を作っていないことを謝ろうとしたのに、出端をくじかれてしまった。
「おなか……すいてます、たぶん」
両手をおなかに当てて首をかしげる。
正直よくわからなかった。すいているような気もするし、そうじゃない気もする。
「あまったのがあるけど、食べる?」
トールがクッキーをひとつ口に放りこんで、噛み砕きながら言う。
意外な言葉にエリはぽかんとしてしまった。
「トールが作ったんですか」
「味は保証しない」
ひろげていた地図をたたんで脇に寄せると、トールは台所に消えた。
エリはベッドから出て席に着いた。体のだるさは、眠る前よりも楽になっている気がする。
ひとくち、クッキーをかじってみた。固めだけれど、甘くて優しい味が口の中に残る。
トールが帰っているということは、もう夜中だ。そのトールがソンドレからクッキーを受け取ったということは、遅くまでソンドレも起きていたということになる。
もしかしたらソンドレはもっと早い時間に訪ねてきたのかもしれない。けれどエリが寝ていて気づかなかったから、トールの帰宅を待って、もういちど来てくれたのではないだろうか。
そんなにも心配してくれている人がいると思うと、胸が温かくなる。
(あしたは元気になれるかな)
ソンドレさんに会って、クッキーのお礼を言って、もうすっかりよくなりました、と笑って、一緒にお店に行きたい。できるだろうか。
台所から深皿を持ってきたトールが、暖炉の前に屈んだ。じかに火が当たらない隅のほうに鍋が置かれている。火掻き棒で手繰り寄せて、袖の中に引っこめた手で鍋の蓋を開けた。
それらの動作をエリはじっと眺めた。とてもめずらしい光景だ。見ているだけで体調がよくなりそうな気がする。
「どうぞ」
目の前に置かれたスープには、小さく切った燻製肉とジャガイモが浮かんでいた。湯気が顔に当たって空腹をわずかに刺激してくれる。
口に含むと、ほどよい塩味が喉を通り抜けた。
「おいしい」
まさかここまでしてもらえるとは思っていなかったから、うれしいのとびっくりしたのとで胸がいっぱいで、ろくな言葉が出てこない。それが少し悔しかった。
「お料理、上手なんですね」
「これしか作れないよ」
苦笑して椅子に座り直したトールの顔に、火影が当たる。やわらかい光が瞳に宿った。
「母さんが調子悪くて寝こんだとき、作ってたんだ。ばあちゃんと一緒にさ。ばあちゃんが死んだあとも、ひとりで作ったことあって」
「おばあちゃん?」
「四年前に死んだんだ。父親はとっくに死んでるから、母さんと二人だった」
「そうなんですか」
「実の父親のほうね」
瞳に浮かぶ淡い光が、暗い色に変わった。ふわふわの雪が氷になって固まるように。
トールが家族の話をするのも、とてもめずらしい。きっと何気なく話題にしたのだろう。何気なく「父親」について触れてしまったのだ。
気の利いたことを言ってあげたいのに、うまく頭が働かない。それでも何か言いたいと、素直な気持ちを声に出した。
「好きです。この味」
トールの瞳が動く。視線が絡んで、息詰まるように時が止まる。
なぜだか目をそらせなくて、エリは頭がくらくらしてきた。
「あしたは休めよ」
「え」
絡まった糸を手放すように、トールが話題を変えた。
「あさってはもともと休みだろ。あしたも休んで、ゆっくりしとけ。……て、じいさんが言い残してった。ここの掃除も、あと水汲みとか薪を持ってきたりとかも、やんなくていいよ」
トールがクッキーを口に放りこむ。エリと目が合うと、眉をひそめた。
「なんだよ」
「うれしくて」
「変な顔」
笑おうとしなくても勝手に頬がゆるむのだから仕方ない。トールがこんなに気遣ってくれるなんて、うれしくて身体がとけてしまいそうだった。
へへ、と声に出して笑ったエリを、トールがうんざりしたように見つめた。
「悪化されたら困るんだよ。食べ終わったら早く寝ろ」
「はい。ありがとうございます」
トールがお母さんのために作っていたという、大切な味をゆっくり食べた。この目では見ることのできないトールの思い出までも、分けてもらっている気分だ。
できることならトールの罪も食べてしまいたい。そうすればトールが夢でうなされることもなくなるのに、と思った。
夜中にうなされているトールを見たのは一度きりだけれど、エリがぐっすり眠っている夜にも、もしかしたらトールは眠れずにいるのかもしれない。そんな気がするのだ。
それではいつか倒れてしまうんじゃないかと心配だった。
「トールも、ちゃんと寝てくださいね」
「寝るよ。仕事だし。なに言ってんの?」
わけがわからない、といった顔でトールが笑う。
エリは何も答えずにただ微笑んで、スープを飲み干した。
一晩ぐっすり眠ったら体調はだいぶ戻っていた。
これなら動けそうだ、とベッドから出る。朝のお祈りをして、仕事に出かけるトールのために朝食を作るのだ。
ところが、すぐさまトールに止められた。
「パンにチーズを塗るだけだ。誰でも作れる。おまえは寝てろ」
それじゃあ、とお祈りだけして二度寝したら、いつの間にかトールは出かけてしまっていた。水汲みも薪の用意も、暖炉の掃除もやってくれたらしい。
雪が降っていた。まっすぐ次から次へと落ちてゆく。
窓から見える裏庭はひっそりとしていた。台所の小窓から表通りを眺めたら、街路灯にも雪がかぶさっていて、遠くの煙すらかすんで見えた。
雪は静かに鳴る。転がるように、鈴のように、歌うように。
何かを口ずさんでみたくなった。出てくるのは口になじんだ賛美歌ばかりだ。新しい
ソンドレさんみたいに詩人になれたらいいけれど、仕方ない。賛美歌の歌詞を伏せて、旋律だけを雪景色に捧げた。
トールの帰宅は早かった。
それを予想して二人分の夕食を準備している最中だったエリは、待ってましたと玄関まで出迎える。
雪だるまのようになったトールが、ポケットから何かを取り出した。
「ほら」
ふわ、と頭にかぶせられて、視界がふさがれた。エリは目の前に垂れた布を持ち上げる。マフラーで口元を覆ったままのトールが見えた。
「ないよりマシだろ」
ぶっきらぼうな口調でトールが告げる。
トールがくれたのはスカーフだった。白と黒の格子模様に編まれていて、端がフリンジになっている。
女子修道院では、清貧の証や修道生活の象徴としてベールをかぶっていたけれど、それとは違う。
寒い日が続くようになってから、スカーフで頭や口元を覆う女の子たちをよく見かけるようになった。スカーフは防寒用なのだ。
トールのためにマフラーや手袋を編んでも、エリ自身はどちらも持っていない。トールはそのことを気にしてくれたのだろう。
「ありがとうございます」
エリはスカーフに頬ずりした。暖かくて、気持ちがいい。
これでトールからもらったものは、水筒とスカーフのふたつになった。
いや、お財布として使っている巾着も数に入れれば三つだ。いやいや、着替えを仕立てるための布も買ってもらったし、細かいものまで数えればもっとある。
「宝物が増えました」
「おおげさな」
「おおまじめですよ」
「まあ、いいけど」
照れ隠しのように、トールが苦笑する。
「誕生日には、少し早いな」
「え? わたしの誕生日、知ってるんですか?」
来週に誕生日を迎えることを、話したことがあっただろうか。エリは驚いた。
「いや……」
トールは気まずそうに視線をそらした。帽子を脱ぎながら衣裳戸棚へ近づいていく。
「十一月生まれって顔してるから」
「え、顔を見ただけでわかるんですか? じゃあソンドレさんとか……」
「冗談だよ。そんな期待に満ちた目でこっちを見るな」
「冗談? 嘘なんですか?」
「そう、嘘。当てずっぽう。間違ってた?」
「大正解ですよ!」
エリが笑うと、トールも笑い返してくれた。だからエリはますます笑った。
この時間がずっと続いてほしい。そう思いながら、笑った。
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