23「誰も知らないような小さな町です」

 次の日の午後、テーブルの上にトールが地図をひろげた。


「国境に向かうには、南の運河を船で行く道と、北の森を抜ける道とがある。どっちがいい?」


 ぼろぼろの地図の上を節くれだった指がすべる。


 きょうはトールも休みで、どこにも出かけないでいてくれるらしい。こんなに長い時間を一緒に過ごすのは久しぶりのような気がした。


「どっちが速く行けるんですか?」

「そりゃもちろん、船だ。楽なのも安全なのも船」

「お金がかかるのは?」

「船賃は選べる。贅沢を言わなけりゃかなり抑えられるな。森を行くなら食糧を多めに持ってく必要があるから、どっちもどっちじゃないか」

「じゃ、船で!」


 迷うことなくエリは答えた。


 冬が終わり、お金が貯まったら、船に乗ってもっと遠くに行ける。トールと一緒に。想像するだけで楽しくなってくる。


「だな……」


 つぶやいたトールの瞳が翳った。地図に目を落としたまま黙りこんでしまう。


 楽しい旅になるはずだけれど、旅の理由は、けっして楽しいものではない。エリはそれを忘れていない。


 トールもそのはずだ。だから明るい気持ちになれないのかもしれない。


「あの、ロッベンって、どこですか」


 ちらっとエリを見たあと、トールはすぐさま地図に視線を戻した。指を動かして地図の左上を示す。


「ここ。いちおう載ってる」


 トールの指がさしている場所には山の地形が描かれていた。その中にぽつんと「ロッベン」の文字がある。


「それじゃあ……キンネルは?」

「ここ」


 指が下に動いて山を越え、右に動いて止まる。「キンネル」と確かに書かれていた。


「じゃあ、今いるところは?」

「それはさっき指さしたはずだけど」


 手を引っこめて、トールが意地悪そうに笑う。


「え、あ、そうでした。ええっと、えー……あった! ここですね!」


 エリは港町ドラファンを探し当てた。


 さらに東の鉱山を見つけ、以前トールに示してもらったコングスの町も自力で見つけ出す。再びキンネルに戻り、これまで移動してきた町をひとつひとつ繋ぎ合わせていった。


「半月でこんなにたくさんの場所に行ったんですね」

「急いだしな」

「そうなんですか?」

「少しでも早く、少しでも遠くに行きたかった」


 トールはぼんやりと地図を見ている。髪が伸びて、琥珀色の目は隠れがちになっていた。もともと痩せていたけれど、最近はさらに痩せたように見える。


 キンネルから半月でこの町に辿り着き、一緒に住むようになって、ひと月。トールがロッベンを出たのは夏だと言っていたように思う。あの告白の時点で二ヶ月前――八月のことだろうか。


 もう十一月だ。父がこの世を去り、トールがお母さんと別れて故郷を出てから、少なくとも二ヶ月以上が過ぎている。


「お母さんのこと、心配ですか」


 伸びた前髪の奥から、細い目が覗いた。


 今にも消えそうな暖炉の火のように、悲しい目だとエリは思った。


「まあね。殺人犯の母親にしちゃったからな」


 肩をすくめてトールが笑う。「でも」とすぐに溜め息をつき、視線を宙に投げた。


「悪いのは俺だってはっきりしてるんだ。警察はきっと俺を追ってる。どこまで追いかけてくるかわかんないけど、だから逃げて、……逃げるんだ」


 トールは口を閉ざした。何かを言いかけて、それをのみこんだ気配がした。






 快気祝いだと言って、ソンドレは給料と一緒に小箱をくれた。


「うちは文房具屋だからねえ。これでお父さんに手紙を書いてあげるといい」

「ありがとうございます」


 小箱の中身は便箋だ。エリは複雑な気持ちで受け取った。ソンドレの気持ちはうれしいけれど、自分たちの嘘を信じて笑う顔を見たら、どうしても喜びきれなかった。


 それから数日間、雪は降らなかった。


 かといって晴れるわけでもなく、あいかわらずの曇り空だ。エリの仕事は棚の埃を払うことに絞られた。


「やあ、いらっしゃい」


 ソンドレが穏やかな声で客を迎える。店に入ってきたのは、つば付きの黒い帽子をかぶった男の人だ。


 にこやかな顔をソンドレに向けて、その人は口を開いた。


「先日はどうも」

「ああ、また来てくれたんだね」

「ペンをなくしちゃいまして」


 言いながら店内を歩く。棚掃除をするエリを見たとたん、「あれ?」と声をかけてきた。


「こないだ具合悪そうにしてた子だね」


 その言葉でエリは思い出した。体調が悪くて早退したあのとき、出入り口でぶつかりそうになった人だ。


「はい。すみませんでした」

「いやいや、こっちこそ。もう元気になったみたいだね。そのスカーフよく似合ってる。誰かからのプレゼント?」

「はい。兄が」


 男の人は青い目を見開いて、「へえ」と笑った。


「素敵なお兄さんだ」

「えっと……はい、その……ありがとうございます」


 褒められたのはトールなのだけれど、まるで自分が褒められたみたいでくすぐったい。エリはもぞもぞとうつむいた。


「お兄さんもお仕事中かな?」

「はい。兄は工場にいます」

「そっか。兄妹そろって働き者なんだね。えっと、君は何歳?」

「十三歳です。もうすぐ十四歳」

「あ、今月が誕生日? おめでとう!」


 ぱっと晴れやかな顔になったあと、「十四歳かあ」と眉尻を下げる。


「僕なんてもう三十六歳だよ。君からしたら、おじさんなんだね」


 ころころと、表情をよく変える人だ。


 喜んだり落ちこんだり、見ていてわかりやすい。トールとは大違いだから、エリは不思議なものを見る気分だった。


 つば付き帽子の人はにっこりと笑った。笑うと笑窪ができる。


「自己紹介がまだでした」


 そう言いながら革手袋をはずし、右手を差し出してきた。反射的に握り返した手は、温かくて大きかった。


「ゲオルク・ランゲです」

「エリ・アーベルです」


 青い目がエリを見下ろしてくる。まるで昔からの知り合いのように、親しげな笑顔だ。


「働くのは慣れた?」

「はい。お掃除や雪かきなら」

「コングスに行くんだって?」


 ゲオルクはそう言ってからソンドレを一瞬だけ振り返り、「この前、聞いたんだ」と笑った。


 カウンターのむこうでソンドレもにこにこと笑ってうなずいている。


「えっと……はい」


 エリは棚に視線を移して答えた。


 本当のことをありのまま言ってはいけないし、嘘をさとられてもいけない。けれど嘘をつくことには抵抗があるから、どうしても唇が寒くなる。


 本当に父親がコングスにいたら、どんなにいいだろう。


 本当に目的地はコングスで、兄と一緒に会いに行く旅だったらどんなにいいだろう。嘘を何度も口に出せばいつかは真実になる、そうだったらいいのに。


「苦労してるんだね」


 いたわるような眼差しをエリにそそいだあと、少し離れた棚にゲオルクは移動した。羽根ペンを手に取りながら、さらに話しかけてくる。


「どこから来たの?」

「えっと、北のほうの田舎町です。誰も知らないような小さな町です」


 どこから来たかと聞かれたらこう答えろ、とトールに言われている。こう答えておけば、出身地の質問をそれ以上してくる人はいないはずだ、ということらしい。


 けっして「ロッベン」と答えるな、できれば「キンネル」も伏せろ。そう言われている。この町にロッベンから越してきた人がいるのは確実なんだから、何がどう転ぶかわからない、と。


「へえ、何て名前の町?」


 ゲオルクは質問をやめてくれなかった。


 どうしようと焦ったけれど、トールの指示を押し通すことにした。


「だ、誰も知らない町ですよ」


 ゲオルクは羽根ペンを持ったままエリをしげしげと眺め、「そうかあ、大変だねえ」と繰り返した。


「何かと物騒だから、気をつけるんだよ。この町もどんどん都会化してるようだし、物乞いならともかく、もうろついてるからね」


 ゲオルクは一本の羽根ペンを選び出した。カウンターでなごやかに会計を済ませる。


「それじゃ、また」


 去り際にエリを振り向いて、ゲオルクはまた笑窪を浮かべた。


 頼もしさを感じさせる背中がドアのむこうに消える。窓から外を覗けば、通りを歩く姿を少しだけ追いかけることができた。


(家族のもとに帰るのかな)


 お父さんの帰りを待つ子供たち、という光景が思い浮かんだ。何の不安もない、幸せな家族というものを想像して、胸の奥がわずかに痛む。


 ゲオルクが去っていくらも経たないうちに、教会の鐘が聞こえはじめた。午後三時の鐘だ。


「じゃあ店じまいをしようか」


 ソンドレが売上金を数えはじめる。


 エリがこの店で働きはじめたころはもっと長く店を開けていたけれど、最近は午後三時で閉めてしまうのだ。


 これくらいの時間になると、この店に限らず、このあたりの店はどこも閉まってしまう。


 四時を過ぎると真っ暗だから、出歩く人がいないのだ。飲み屋なら遅くまで開いているらしいけれど、この近くにはない。


「トールくんは最近どう? 工場じゃ、ガス灯があるから夜もやってるだろう? 働きすぎて今度はお兄さんが倒れちゃったら大変だ」

「雪が降っていれば早めに帰ってきます。そうじゃなければやっぱり遅いから、疲れてるんだろうなと思います」

「だろう? 夜道を歩いてる途中で倒れて、そのまま死んじゃった、なんて話も実際にあるんだからね。十分に気をつけるんだよ」

「そんなことが……」

「あったんだよ、去年の話だけど。聞いただけでも三人かな。そのうちのひとりは自分から川に飛びこんだらしいけどね」

「え」

「工場労働者だったって話だ。働きすぎて、疲れて頭がおかしくなっちゃったのかもしれないって思ったねえ。だからトールくんが心配なんだよ」


 工場で働くことをソンドレがあまりよく思っていないのがなぜなのか、やっとわかった。


 エリは誰にも看取られずに息絶えたのであろう人たちを思い、小声で祈りを捧げた。


 生まれてから死ぬまでの時間は、神様に罪をゆるされ、救われるためにある。ほんの些細な罪も含めれば誰もが罪人つみびとだから、あらゆる命を神様は見ているという。


 川に飛びこんで命を絶った人は、救いを拒んだということになる。


 そういう人は教会での葬儀がない場合もあるけれど、それでも救いの道は残されている。それほどに神様の愛は深いのだと教わっているから、いつかちゃんと救われますように、とエリは祈った。


 もしもトールが同じように死んでしまったら、と考えた。


 ものすごく嫌で、どうしようもなく不安になった。気分まで悪くなってきたから、大丈夫、そんなことにはならない、と嫌な想像を振り払う。


(お金が貯まれば)


 そうすればトールは工場で働かなくていい。でもお金を貯めるためには、今はまだ働かなくてはいけない。


(がんばろう)


 店じまいを終えると、エリは薄暗い歩道をひとりで帰った。いつもはソンドレと一緒に帰るのだけれど、きょうは特別だ。


 ソンドレは工場があまり好きではないのに、それでも工場主だという友達と仲がよくて、この日もその人の家に泊まるのだという。


 頭にかぶったスカーフの裾を首に巻いて、口元まで引き上げる。そうしていると、スカーフからトールの気配が伝わってくるような気がした。そんなはずはないのに。


 ブーツの下で、踏み固められた雪が鳴る。


 両脇に寄せられた雪は低く連なる山のようだ。その山のそばに脚立を持ち寄って街路灯をともしている人がいた。


 いつもこの時間にやってくる点灯夫だ。この光景もエリはすっかり見慣れてしまった。


(点灯夫の仕事はいくらなのかなあ)


 工場より稼げるのかな、と考えているうちに、別のことが頭に浮かんだ。


 まっすぐ帰るのをやめて、店じまいをしている最中のお店に飛びこんだ。


 売ってもらったのはバッグだ。手で持つ革製の鞄と、はん製の背負い袋とで迷い、背負うほうを選んだ。軽かったし、たくさん荷物を入れられそうだったからだ。


 いずれこの町を出て行く。そのときのための準備だ。


 荷物が重くて歩けないなんてことになったら、またトールに迷惑をかけてしまう。動きやすくて、かつ容量もある背負い袋はぴったりだと思った。


 自分の力なんてたいしたことないけれど、ほんの少しでもトールと荷物を分けあいたかった。


(トールが帰ってきたら、きょうの出来事を話そう)


 便箋をもらったことも、お客さんにスカーフを褒められたことも、バッグを買ったことも、ぜんぶ話そう。そうしてトールに何かを言ってもらいたい。


 帰宅したエリは上機嫌で暖炉に火を入れ、夕食の準備をした。


 雪が降っていないからトールの帰りも遅いだろうと、夜中まで編み物をして帰りを待った。


 けれどその日、トールは帰ってこなかった。

 

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