15「認めたくなかったんです」

 落ち着かないそぶりでトールが目をそらした。


 暖炉を見つめる痩せた硬い頬が、いっそうやつれたように見える。開きかけた唇をいったん閉じてから、トールは答えてくれた。


「ろくでなしの父親を憎んでるかと思って」


 ぽつん、とこぼれ落ちるような声だった。


「なのに、出てくるのは綺麗事ばっかり」


 うんざりしたように吐き出して、トールが唇をゆがめる。笑おうとしたのだろう。けれどうまく形にならず、顔をしかめて首を振った。


「おまえがあいつのこと知りたがったり、信じてるって言ったり、そういうの聞くとイライラした。ばっかじゃねえのって。こんなやつに言えない。どれだけろくでなしだったかなんて言えない」


(そうだったの)


 言えない、ということは、言うつもりだったのだ。


 喉に引っかかっていた魚の骨が取れたような、どこかすっきりとした気持ちになった。胸を締めつける悲しさは消えないけれど、少しだけほっとしたのだ。


「打ち明けようと、してくれてたんですね。わたしが父を待ってると言ったから、打ち明けられなくなったんですね」


 トールは答えずに唇を引き結んだ。


 もしかして、すべてを打ち明けたあとに自首するつもりだったんじゃないだろうか、と思った。


 そのために会いに来てくれた。けれど父の代理人だとエリが勘違いしたから、言い出せなくなった。しかもエリが強引について来たから、なおさら自首などできなくなった。そういうことかもしれない。


 だって兄妹だという嘘はまるっきりの嘘ではなかったのだから。それこそトールが打ち明けようとしてくれていた証じゃないだろうか。


 憎くなる、と言われたけれど、あれも真実ではないのかもしれない。真実を言いたいのに言えない、その苦痛が苛立ちになっていただけだとしたら。


 息を深く吸った。少し止めて、吐く。吐ききったと同時に、エリは語りはじめた。


「わたし、父を信じて待っていました。トールにもそう言いました。それは、女子修道院にいたくなかったからなんです」


 トールが振り向いた。意外そうな眼差しに、微笑みを返す。


 父を信じていると自分が言ったから、トールは何も言えなくなったというなら、父への本心を明かさなければいけない。そうしないと、これ以上トールは本音を語ってくれない気がする。


 だからエリは唇にのせた。できるなら自分でも触れたくないほど、ちっともきれいじゃない本心を。


「女子修道院はわたしを育ててくれました。マザーは厳しいけれど優しい人だったし、仲良くしてくれる友達もいました。それでも、ここはわたしの居場所じゃない、って思ってたんです」


 ここは孤児院じゃないのよ、と、あるシスターに言われたことがある。修道女になる気がないなら、出て行きなさい、と。


 出て行けるものならそうしたかった。けれど女子修道院を出て、いったいどこに行けばいいというのか。父は迎えに来ると言った。もしもすれ違いになったら?


「あなたのお父さんは来ない。あなたは捨てられた。それを認めなさいと言われたことがあります」


 受け入れなさい、救いはそこから始まるのですよ。そう言われたことを思い出す。頑迷な心はあなたを苦しめるだけだと諭された。


 忘れなさい、と言ったシスターもいた。失ったと思うからつらいのよ、最初からいなかった、あれは知らないおじさんだった、そう思えばいいの、きっと忘れられるわ、と。


 ひどい言葉だと思った。楽しい思い出も大切な記憶も、すべて否定する言葉だ。


 けれどそう思ったことをうまく言葉で伝えられなかった。エリにできたのは、ひたすら言い張ることだけだった。お父さんはぜったいに戻ってきます、と。


「わたしは親のいない子じゃない。お母さんもどこかで生きているし、お父さんもいつか迎えに来てくれる。認めたくなかったんです。捨てられたなんて。いらない子だなんて。そんなの、悲しいし、さびしいし、みじめだから」


 だから信じた。父は来てくれると、信じることにした。


「待ちつづけているかぎり、わたしはひとりじゃなかった。信じているかぎり、わたしは捨てられた子じゃなかった」


 父が来たら、女子修道院を出よう。そしていつか遠くに行こう。まだ見ぬ町まで旅をしよう。それが夢だったし、心の支えだった。


「だけど、お父さんはもう来ないんじゃないかって思うこともありました。それを自分で否定して、きっと来るって言い聞かせて。いつまで待てばいいのって泣きそうになって、早く来てくれないかなって」


 だからこそ、トールの訪れは最初で最後のきっかけに思えたのだ。


「女子修道院を出るなら、トールについて行くしかないって思いました。お父さんじゃないけど、お父さんを知ってる人だったから、それならきっと、もしお父さんがわたしを迎えに来ても、すれ違いになったまま会えないなんてことにはならない。どうにかして連絡が取れるかもって、だからついて行こうって決めたんです」


 もしも父が今も自分を迎えに来る気でいるのなら、つながりは残しておきたかった。


 そしてもし、父が過去を捨てて新しい人生を生きていたのなら、それを知ることで父を捨てられる。そう思った。


「わたしと別れたあと、お父さんがどんなふうに過ごしていたのかを知りたかった。待ちつづけたことは正しかったのか、それとも、もう待たなくていいことがはっきりするのか。どっちの答えでもいいから、知りたかったんです」


 そのときに父をどう思うのか、それはエリにもわからなかった。腹を立てるかもしれないし、信じてよかったと思うかもしれない。


 真実が何であっても、待ちつづける辛抱を終わりにできるのなら、それでいいと思ってきた。


 やっと父の消息を知ることができた。けれどまさか、すでにこの世の人ではないなんて思いもしなかった。びっくりして、受け止め方がわからなかった。すぐに、ある感情がわいた。


 もういないのだから、待たなくていい。


 そう思ったとき、終わった、と思った。これで終わった。やっと終わった。


 こみあげた思いは、新たな驚きですぐに塗り替えられた。父の死がトールによってもたらされた、なんて。トールが罪を犯した人だったなんて。


「トールから話を聞いて、嘘ならいいのにって思いました。トールが父をあやめたなんて、嘘ならいいのにって。でもそんな嘘をつく理由がわからないし、トールが嘘を言っているようには見えなかった。それで、考えました。想像しました」


 エリは膝の上で手を組んだ。


 胸が、まだトールの手に押さえつけられているような気がする。父の命に触れた手だ。そう考えれば恐ろしくて、悲しくなる。


 けれどこの手はパンを分けてくれた手だったし、エリのために水筒を買ってくれた手でもあった。


 トールの話をすべて信じたとき、想像すればするほど、はっきりとしてくるものがあるのだ。


「お父さんは、ひどいことをしたんですね。――ごめんなさい」


 うなだれたエリの頭上に、苦笑する気配が落ちてきた。


「何でおまえが謝る」


 つられてエリも笑った。笑おうとした。トールの記憶に棲む父の姿を想像したら、苦しくなって、うまく笑えなかった。


 七年前のあの日、エリの頭をなでてくれた手も、たぶん笑いかけてくれたはずの顔も、去っていった背中も、どこまでも遠い。大事に握りしめてきた宝物が、手を開いたら雪のようにとけていた、そんな気分だ。


 トールがどんなふうに父を殺めたのかはわからない。質問したら答えてくれるような気もするけれど、怖くて聞けない。だから想像するだけだ。


 七年前にエリの頭をなでた手が、エリの知らない場所でトールのお母さんを殴った。エリが見つめつづけた背中は、トールの手によってこの世から押し出されてしまった。


 もう二度と会えない。父が最期に何を思ったのかも、エリのことをどう思っていたのかも、わからずじまいだ。


 けれど、トールの気持ちなら、聞ける。目の前にいるのだから。知りたいと思った。もっと、もっと知っておきたい。


「トールは、すごくつらそうです。後悔していますか?」


 トールの瞳が動いて炎を映した。パチ、パチ、と薪の爆ぜる音がする。


「後悔、ね」


 声は少しかすれていた。


「俺がもっと冷静だったらよかったのにな、って思ってるよ。あんなこと――しなけりゃよかったって、後悔してる。でも過去は変えられないから。俺はひとごろしになっちゃったから」

「自首するつもり、だったんですか?」

「いや……それしたら死刑だから……俺なんかが生きててもしょうがないかもしれないけど、だけど俺、死んだらだめだと思うんだ。うまく言えないけど、たとえば」


 考えるような間を置いてから、トールは眉根を寄せて再び口を開いた。


「たとえば、こんな俺でも誰かを救えるとしたら、死んでちゃできないなって。俺が死んで誰かを救えることなんて、ひとっつもないなって。せいぜい俺を追ってる警察が手柄を立てるだけで、それって、俺、何のために生きたのかなって」


 琥珀色の瞳に涙がにじむのを、エリは見た。


 こぼれ落ちることはなかったけれど、炎が映りこんで光っている。闇に沈んでしまったトールの痛みを暖炉が照らしてくれたのだと思った。エリにも見えるように、感じ取れるように。


「だから逃げてる。捕まったら死刑だから。ほんと、どうしようもないけど、逃げきって、新しくやりなおせたらなって思ってる。そんな資格ないかもしれないけど。だけど、あいつの」


 トールはこらえるように言葉を切った。息を深く吸う。心に積もったおりをすべて吐き出すように、深い溜め息をついた。


「あいつを死なせたことは、一生、忘れない。俺が死ぬまで、ずっと抱えてく」

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