16「神様でも法律でもない」

 帽子をかぶったままだということを思い出したのか、トールは頭に手をやった。


 ただでさえ癖の強い髪の毛をくしゃくしゃにかき乱したあと、帽子を握りしめて背中をまるめる。コートに残っていた雪は、すっかりとけていた。

 

「間違ってるかな、俺。……いや、間違いだらけだとは思うけど。――おまえは、どうする」

「わたしは――」

「あいつは俺を恨んでる。今も、俺を恨んでるんだ。あいつこそ、何のために生きたんだろうな」

「……でも、トールに会えました」


 想いがそのまま言葉になった。


 充血した目を向けられる。続く言葉を待っている顔だった。


「お父さんは、やっぱり約束を守ってくれたのかもしれないって、そんな気がして」


 馬車に乗りたいと言ったエリに、「かならず」と約束して、実現してくれた父。姿を消すと決めていたのなら、いなくなる前に約束を果たしてくれたということだ。


 最後の約束は、戻ると言ったまま戻らずじまいだったけれど、トールが来てくれたことですべては変わった。


「お父さんは、天国にいるんでしょう。きっとそこからわたしを見つけて、約束を思い出してくれた。トールに会わせてくれたのはお父さんかもしれないって思ったんです。そうすることで、わたしを女子修道院から連れ出してくれたのかもしれないって」

「まさか。俺は……」


 鼻で笑って、トールは言葉をのみこんだ。


 俺はあいつを殺してるのに、そんなやつを娘に会わせようとするはずない――そう言いたいのだとエリは思った。


「トールが悪い人じゃないっていうのは、お父さんも知ってたからじゃないかなって。あの、もちろんトールがしたことは罪だし、それを正しかったと言うつもりはないんです。でも、」


 次の言葉が出てこなくて、エリは「でも」と繰り返した。言いたいことがうまく言葉にならない。もどかしくて、つかのまトールから視線をはずした。


 暖炉の中で火花が散るのを見たとき、ふさわしい言葉をつかまえた。


「でも、トールのすべてが間違いだとも思いません」

「ひとごろしなのに?」

「その罪を裁けるのは、わたしじゃないんです」

「警察」


 エリは首を横に振った。トールが眉をひそめる。


「裁判官とか、法律って答え?」

「違います」

「じゃあ何。……ああ、神様ってやつ?」

「ううん」


 もういちど首を振って、エリは体ごとトールに向き直った。


「トールを裁けるのは、神様でも法律でもない。お父さんだけだと思うんです」


 トールが複雑そうな顔をした。そのまま押し黙って、揺らぐ炎に視線を投げる。やがて、ぼそりとつぶやいた。


「――そうかもな」


 沈黙が落ちた。


 エリの言葉を噛み締めているのか、それとも別の何かに思いを馳せているのか、トールの目は、ここではないどこかを見ているようだった。


 窓の外から鐘の音が聞こえてくる。はっとしてエリは話題を変えた。

 

「あの、きょうは、お仕事どうするんですか」

「ん、ああ……」


 仕事に行くなら、そろそろ準備をしたほうがいい。トールもそれに気づいたらしく、我に返った様子で窓のほうを眺めた。


「そうだな」


 ぼんやりとした様子で返事をしたきり、黙ってしまう。やがて鐘の余韻が消え、暖炉の炎もいくらか小さくなったころ、トールはエリに顔を向けた。


「確認したい。俺の事情は話した。おまえはどうするつもりだ」

「どうするって」


 トールはまっすぐエリの目を見ていた。


 エリも見つめ返す。トールの目は細いけれど、もう鋭さを感じない。瞳に宿る光に険しさはなく、ただエリの返事を受け止めようと待っている。そういう目だと思った。


 見つめ返しながら、自分の心を探った。借り物の言葉ではなく、自分の言葉を探した。そうでないと意味がない。エリは何度か自分の心を確認して、正直に答えた。


「これまでどおりに」

「いいのか」

「見届けたいです。トールが新しい場所で生き直すなら、それを、そばで」


 妹だから、という言葉が喉まで出かかったけれど、それは言わなかった。


 どんな立場であろうと関係ない。エリをここまで連れて来てくれた人はトールであり、エリがここまでついて来たのは、トールがトールだったからだ。それが理由のすべてだった。


「わかった」


 トールが立ち上がった。見上げるエリの前に、右手が差し出される。


「じゃあこれからもよろしく」


 真顔で、ぼそぼそと告げてくる。


 エリは一瞬ためらってから、両手で包みこむように握手を返した。


 トールの手は骨張っていてゴツゴツしている。まだ温まりきらなかったようで、少し冷たい。けれどこうして握っていれば、温めてあげることができる。それがうれしかった。


「その、悪かったな。顔つかんだり、押さえつけたり」

「いえ。それより、壁に穴があいちゃいました」

「あー……」

「痛くなかったですか」

「痛かった」

「ですよね」

「おまえも、痛かったよな」

「はい。おあいこです」

「いや、それは違うと思うけど……。というか、さすらなくていいから」

「え?」


 トールが手を引っこめた。エリの両手が宙に残される。素早く帽子を目深にかぶって、トールは背を向けた。


「水汲み行ってくる」


 早口に告げて、すたすたと台所に向かう。エリはあわてた。もうすぐ一日が始まるけれど、トールは寝ていないはずだ。少しでも体を休めてほしかった。


「わたしが行きます! わたしの仕事ですから!」

「酔い醒ましにちょうどいい。コートも着てるし」


 燭台を手に取って、エリはトールを呼び止める。


「じゃあ一緒に行きましょう! わたしが照らします!」

「雪明かりで見えるから平気」

「降ってるならまだ行かなくても」

「小降りになってたし、たぶんもうやんでる。だからさ、ほら、仕事、早めに行くから。パンとチーズ用意しといて」


 トールは桶を持って外に行ってしまった。


 どことなく顔が赤らんでいるように見えたのは、お酒が残っているせいなのだろうか。それとも、エリが思う以上にトールの体は温まりすぎていたのだろうか。


(ひょっとして)


 顔をつかんだり胸を押さえつけたことへのお詫びで水汲みに行ったのだろうか。それなら、うれしい。ついつい口元がゆるんだ。


 息を吸った。胸いっぱいに、もう吸えなくなるまで吸ってから、息を吐いた。おなかの底から、細く長く息を吐いた。


 過ぎたことを悩むのはやめようと思った。悩むなら、これからのことについてだ。


 父を捜す旅はここで終わり、新しい旅がここから始まる。誰かに頼まれたわけではなく、自分で決めた旅だ。それでいい。


「よし」


 パンとチーズを用意しよう。食卓に並べ終わるころには、トールが裏庭に到着するはずだ。


 ううん、積もってるなら裏庭は歩けないかもしれない。窓から様子を見よう。無理そうなら戻るように声をかけよう。そうだ、そうしよう。


 エリは燭台に火をともす。小さいけれど力強い光を持って、台所に向かった。

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