17 カレンが顧みる過去
クヌッセンの家に嫁いできたとき、自分は幸せ者だとカレンは思った。
実母はとうに亡く、父は男手ひとつで兄とカレンを育ててくれた。兄がお嫁さんをもらい、次は妹の番だということで、十九歳のときに親戚の紹介でクヌッセンに嫁いできた。
実家では羊を相手に生活していた。
けれどロッベンで羊を放牧している家は数軒だけで、クヌッセン家は林業にたずさわっていた。ここ近年は都会の工場での需要が増えたとかで、忙しいらしい。
もっともそれは男の仕事なので、カレンは家事にいそしんだ。周囲は山だから、山菜採りはちょうどいい息抜きにもなった。
夫はよく笑う優しい人だった。
順調なのはそこまでだった。
子供は高熱を発してあっけなく死んでしまった。まだ二歳だった。カレンは悲しみに沈み、子供の体調に気を配ることができなかったと、自分を責めた。
そんなカレンを、夫と義母は支えてくれた。
二年後に次男を産んだ。
ロルフという名前は義母がつけた。ひいおじいちゃんの名前だったらしい。とても長生きした人だそうで、その名前にどんな祈りがこめられているかは、説明されなくてもわかった。
今度こそは無事に育つようにと、夫も義母もカレンも、ロルフに愛情の限りをそそいだ。
ほどなくして、夫が天に召されてしまった。仕事中に倒れて、それっきり。不幸は実家にもおよび、カレンの実の父も病で逝ってしまった。
こうして義母とカレンと息子の三人暮らしとなった。
ようやく歩けるようになったばかりのロルフを義母にあずけて、カレンは生計を立てるために雑貨店を始めた。知り合いが店をたたむというので、相談して引き継いだのだ。
ロルフはすくすくと育ち、すっかりおばあちゃんっ子になった。
カレンがあまりロルフをかまってあげられないことを気にしたのか、義母はロルフを連れて店を手伝いに来るようになった。幼いロルフはそこにいるだけで客を呼び寄せてくれた。
子育てに仕事に家事にと大変だけれど、やっぱり自分は幸せ者だとカレンは思った。
ロルフが十四歳のとき、義母が亡くなった。
悲しみに暮れている暇はなかった。ロルフとの生活を守ることを考えた。何よりも、忙しくしていれば気が紛れた。
ロルフもロルフなりに、大好きなおばあちゃんの死を乗り越えたようだった。積極的にお店を手伝ってくれる姿は頼もしくさえあった。
そしてあの人が来る。
くたびれた服装で店に現れた彼を最初に見たとき、お金がないのではと疑ってしまった。それくらい汚れた姿だったのだ。
けれど物腰がやわらかくて、笑顔には愛嬌もあって、ちゃんと品物の代金も払ってくれた。
そのつど必要な物を必要な分だけ買っていく人で、だからなのか頻繁に店を訪れてくれた。顔見知りになってしまえば会話もはずみ、しだいに彼が来るのを待ちわびるようになった。
彼の青みがかった緑色の瞳に見つめられると、明るい光に照らされるような気分になれたのだ。
ヘンドリーは仕事でこの町に来たという。教会の補修作業を住み込みでしているらしい。
特別な日でないと教会に行かないカレンだったけれど、そう聞いてはじっとしていられない。差し入れを持って何度か会いに行った。
ヘンドリーはいつも、くしゃっと崩れるような笑顔で喜んでくれた。
出会ってからひと月が過ぎるころ、仕事がすべて終わったから教会を追い出された、と彼が苦笑した。
「この町が気に入ったから住みたいんだけど、空き家はないらしくてね。宿もないし、もう隣町を目指さないと」
カレンの家には空き部屋がある。そしてドアの建て付けが悪い部屋もあった。
壊れた椅子の修理やちょっとした踏み台を作ったりといったことなら、ロルフがやってくれる。けれどドアの修理はよくわからないらしく、ずっと放置しているのだ。
ヘンドリーが町からいなくなるのだと思ったとき、つい提案していた。大工仕事を頼めるかしら、と。
こうしてヘンドリーはカレンの家にやって来た。直すのはゆっくりでいいと言ったのに、ヘンドリーは一日で直してしまった。
ドア以外にも、直してほしい箇所ならあった。自宅だけではなく、お店のほうにもだ。
そうした不具合をすべて伝えた。報酬はおこづかい程度の金額と、宿の提供。自宅の空き部屋を彼に貸したのだ。
よくよく聞けば、彼は本当の大工ではなかった。大工の使いっ走りのようなことをやっているうちに、補修工事なら一通りできるように教えてもらえたのだという。
いわば見習いであって、正式な大工ではないから、格安で仕事を引き受けていた。そうでないと違法になってしまうらしい。はっきり言って貧乏だった。
ずっとここにいてほしい、と言ったのはカレンだ。
ヘンドリーは応じてくれた。カレンがヘンドリーに嫁ぐのではなく、ヘンドリーがクヌッセン家の婿になってくれたのだった。
法律的に何の問題もなかったし、クヌッセンの親戚や、カレンの実家を継いだ兄も反対しなかった。ロルフも「いいんじゃない?」と祝福してくれた。
まさか自分が補修工事をした教会で式を挙げることになるなんて、とヘンドリーは恥ずかしそうに笑っていた。
ヘンドリーがクヌッセンの姓を名乗ることはなかったけれど、結婚しても自分の姓を変えない人などめずらしくないから、カレンも気にしなかった。
結婚して半年ぐらい経ったある日、ヘンドリーがぽつりとこぼした。ロルフを見ているとつらくなる、と。娘を思い出すらしい。
ヘンドリーに子供がいることは知っていた。自分では育てられないから女子修道院にあずけて、それっきり会っていないという話だった。
娘を手放したことがずっと負い目だったのかもしれない。「きみとロルフが助けあっているのを見ると、おれはだめな人間だなって思う」と言うのだ。
「会いに行ったらどうかしら。もし誓願がまだなら、会えるかもしれないわ」
「拒まれるかもしれない」
「ああ、そうね。修道生活ですもの。でも元気でやっていることがわかれば、それだけでも気持ちは晴れるんじゃないかしら」
「そうじゃない」
「どういうこと?」
ヘンドリーは口をつぐんだ。
このころからヘンドリーはお酒を飲むようになった。
もともと寝酒をする人だったけれど、それ以外では飲んでいるのを見たことがない。それがどうしたことか、寝起きに一杯、食前と食後にも一杯、寝る前に一杯、といった感じで飲むようになったのだ。
飲むと機嫌がよくなって、楽しそうに過ごす。だからカレンは止めなかった。そのうちにヘンドリーは数時間おきに飲むようになった。
さすがに気になって注意したら、「うるさい」と怒鳴られた。
ヘンドリーに初めて怒鳴られた。びっくりして、そのときはそれ以上なにも言えなかった。
ヘンドリーはどんどん怒りっぽくなっていった。
カレンが毎月いくらか渡すお金は、すべて酒代に消えているようだった。血走った目で睨んでくるヘンドリーに、カレンもロルフも戸惑った。
ひどい言葉を投げつけられるのは悲しかったけれど、カレンはヘンドリーと話すことをやめなかった。そうして対話を続けるうちに、わかってきたことがある。
今のヘンドリーは臆病で、悲観的で、自分に自信を持てない人だ。
それは彼が優しいからだと思う。繊細なのだ。心がたくさんの傷を負ってきたから、前向きに考える力を失ってしまった。ある意味、病気みたいなものかもしれない。
もともとは勇気も自信もあったはずだ。だからこそ十代で都会に出たのだろうし、恋もしたのだろうし、働く意欲もあったから大工見習いになれたのだろう。
でもカレンたち親子と暮らすうちに、蓋をしてきた記憶の壺から「失敗した自分」ばかりが溢れてきてしまった。
ヘンドリーの失敗。それは実の娘を手放してしまったこと。都会で成り上がるつもりが、貧乏のどん底に落ちたこと。
大工見習いになって食べていけるようにはなったけれど、それでもまだ貧乏だった。
もうひとつ、思い当たることがある。
カレンのお店を手伝ってくれたときにわかったのが、彼は新しいことを覚えるのが苦手ということだ。うまくできないことを笑いながら謝って、ロルフに何度も同じことを教えてもらっていた。
カレンの目には微笑ましく映っていたけれど、もしかしたらヘンドリーの自尊心は傷ついていたのかもしれない。
劣等感にさいなまれ、お酒に逃げて、いつでも酔っている状態だから働かなくなって、どうせおれはだめだよと自分を卑下して、おれを軽蔑してるんだろと、まるでカレンたちが敵であるかのように攻撃してくる。
悪循環だ。
本当の彼はきっと違う。本当の彼に戻ってほしい。泣きたいような気持ちで、カレンは切に願った。
ヘンドリーからお酒を遠ざけようと思った。酔いを完全に醒まして、自信を取り戻してもらおう。前向きな心を取り戻してもらおう。
ただお酒を遠ざけるだけではだめだ、とも考えた。
ヘンドリーの心にずっと引っかかっているのは娘のことだ。
娘を手放してしまった自分を許せないまま、さりとて今さら会いに行くほどの勇気も持てない。そんな自分が情けなくてますますお酒に逃げる。
こっそり彼の娘に会いに行って、父親のことをどう思っているか、確認してくる必要があるかもしれないと考えた。
もう誓願を立てていたら女子修道院から出られないだろうけれど、せめて手紙だけでももらえればいい。
もし父親に会いたいと思ってくれていたら、そのまま連れ帰ってくればいい。すべてがうまい具合にいけば、きっと彼はお酒をやめてくれる。
ヘンドリーの娘はどこにいるのか。さりげなくヘンドリーに確認したら、キンネルだと教えてくれた。
キンネルまでの旅費と日程を試算した。馬車で行くなら片道五日ぐらいだろうか。ひと月の収入がまるまる消えてしまう。
徒歩を交ぜればいいのだろうけれど、体力がもつか自信がないし、そんなに長く家をあけたくない。十日も留守にする理由をヘンドリーにどう説明するかも考えないといけない。
実行に移すのはなかなか難しそうだった。
ヘンドリーはお酒に溺れつづけた。
カレンがお酒を隠すと、酒はどこだと怒鳴り、物を壊す。
お酒を買うならお金は渡さないとカレンが言えば、強引に財布を奪っていく。ついにはお店の売上金をくすねてお酒を買うようになった。
あの日、三人で夕食を囲んだ。
何の変哲もない、普通のごはんだ。チーズや魚の切り身、サラダなどの具材と、薄く切ったパンを食卓に並べる。あとは好きな具材を各自がパンにのせて食べるのだ。カレンがよく出す料理だった。
ヘンドリーはそれを酒のつまみのようにして食べていた。
夕食後、ロルフはヘンドリーから逃げるように自室にこもった。酔って目つきのおかしいヘンドリーに、カレンは言った。
「いくらお酒を飲んでも娘さんは叱りに来ないわ」
「なんだって?」
「ここにいるのはわたしとロルフよ。そばにいるのは娘さんじゃなくて、わたしたちよ。家族なの。でも今のあなたを見ていると、まるでわたしたちを拒んでいるようだわ」
言い方を間違えたかもしれない。
伝えたいのは、カレンたち親子がヘンドリーを助けたいと思っていること、三人で家族なのだということだった。
彼のそばに今いるのは前の奥さんでもないし、別れた娘でもない。カレンとロルフなのだ。それをちゃんとわかってほしかった。
でも、伝わらなかった。
「どうせおれはだめな父親だよ」
「そうじゃない」
「出て行けって言うのか! ああ、わかった!」
ヘンドリーは立ち上がった。
そのとき、二階にいるとばかり思っていたロルフが居間に戻ってきた。
ヘンドリーが大股で突き進む。出入り口をふさいだままのロルフを殴りそうに見えた。
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