スノーウィ・ハンド
晴見 紘衣
01「お名前を教えてほしいんです」
楡の木が、白くぼやけた太陽を突き刺していた。
この季節は門の外まで落ち葉の掃き掃除をする。そのたびに目に入ってくる街路樹は、初めてこの場所に来たときからすでにあった。
あのときは雪が降っていた。かじかんだ両手を組んで、おなかと膝のあいだで温めようとしたことをよくおぼえている。
その努力はなかなか報われなかったけれど、ほかにどうすることもできなかった。
ここが女子修道院だと知ったのは、院長に背を押されて中に入り、与えられた寝床で眠りこけた翌日だった。
エリは短い溜め息をついて、曇り空から視線をはずした。凜とした朝の空気を胸いっぱいに吸いこんでから、止まっていた手を動かしはじめる。
掃除はてきぱきと、ていねいに。優しくも厳しい院長の教えどおりに。
自分はほかの修道女と違う、などと思わずに、誠実に、まじめに物事を行うこと。それが七年前に院長と交わした約束のひとつだった。
「あの、ちょっとお尋ねします」
「はい?」
エリは振り向いて首をかしげた。
こうして門の前で掃き掃除をしていると、町の人に声をかけられることがある。だいたいが近所に住む人だから、顔見知りばかりだ。
ところが今回は違った。立っていたのは見知らぬ男の子だった。
いびつな形にふくらんだバッグを肩にかけ、おろしたてのようにきれいなコートと、くたくたに汚れたブーツを履いている。眠そうな顔、というより、なんだかとても疲れたような顔だ。
男の子はエリを見つめて、小声でゆっくりと話した。
「ここに、エリ・アーベルという人はいますか」
「はい」
返事をしたなり、エリは唾を飲みこんだ。
箒を握る手に力がこもる。ひとつの予感が背筋を這いのぼってきて、言葉が喉につかえた。止めようもなく胸が高鳴っていく。食い入るように男の子を見つめた。
たぶん、年上の人だ。毛糸の帽子から茶色い髪の毛がはみ出している。ちゃんと食べているのか心配になるほど頬がこけていて、顔色もあまりよくない。目は細いけれど、瞳に宿る光に険しさは感じなかった。
男の子はかすかに眉をひそめた。先をうながされているのだと思って、エリは口を開いた。
「あなたは、どちらさま?」
尋ねてから、はっと気づいた。まだ男の子の質問にちゃんと答えていない。これでは礼儀知らずだ。急いで言い直した。
「あ、ごめんなさい。エリ・アーベルはわたしです。あなたは、父の代理の人ですか?」
とたんに男の子が顔色を変えた。息をのんだような気配まで伝わってくる。
どうしたというのだろう。質問の仕方が悪かったのだろうか。
「あの、わたし……父の名はヘンドリー・アーベル。あなたが捜しているのは、わたし、だと思うんです。エリ・アーベルという名前は、この女子修道院では、わたしだけです」
男の子は顔を伏せた。コートのポケットから右手を出して、帽子を前にずらす。迷っているような指先だった。骨張っていて、寒そうな手だった。
ひと呼吸おいて再び顔を上げた男の子は、さっきまでと違って厳しい目つきになっていた。
「あんたの父親のことは、よく知ってる」
「じゃあ……」
信じられないような気持ちを押しのけて、うれしさが全身を駆け巡った。
「じゃあやっぱり、お父さんはわたしを忘れてなかったんですね。どこにいるんですか? あなたが、迎えに来てくれたんですか」
「俺は代理人じゃない。あいつの娘がどんなか、ひとめ見とこうと思っただけだ。ただの思いつき。用なんてべつにないし、会うつもりもなかった。いることがわかればそれでよかったんだ」
それじゃ、と告げて立ち去ろうとする背中を、エリはあわてて呼び止めた。
「待ってください。行かないで。今すぐ院長さまにお話ししてきます。すぐ戻るから、お願いします、待ってて。行かないで」
「院長? 呼ばなくていいよ。用はないから」
「そうじゃなくて、わたし、あなたと一緒に行きます」
「は?」
男の子が目を見開いた。得体の知れないものを見るような顔で、まじまじと見つめてくる。
「……俺と? 一緒に?」
エリはうなずいた。鼓動がこれ以上ないくらい速い。とっさに口をついて出た言葉だけれど、後悔はかけらもなかった。
「冗談だろ」
見知らぬ男の子は鼻で笑った。
「いま会ったばかりで何でそんなこと言える? 父親に会いたいってんなら期待外れだ。俺と来たって会えないよ。俺は、もう戻らないから」
「でも父を知ってます。それでいいんです。すぐ戻るから、ここで待っててください」
「やめとけ。あんたはここにいるほうがいい」
すべてを知っている声だと思った。エリを見るその目も、何かを隠している目に思えた。そんなものでごまかされたり、諦めたりできるほど、エリの決意は軽くなかった。
「もう決めたんです!」
だから待っててともういちど告げて、門の隙間に体をすべりこませた。
この人は父の何かを知っている。だからここに来た。そしてエリを見て、何かを隠した。それはもしかしたら、あの日の答えかもしれない。
『ここで待っていなさい。動いちゃだめだよ。いいね?』
七年前のこの場所で、六歳のエリに父は言った。
『いい子にして待てたら、なるべく早く戻ってくるよ。だから、待てるね?』
うん、とうなずいて父の背中を見送った。
自分も街路樹の一本になったみたいに突っ立って、待って待って待ちつづけて、そのうちに雪が降ってきて、日が暮れて、それでも待ったけれど父は戻ってこなかった。
やがて院長が門から出てきて、声をかけてくれた。
ここにいないと父に会えない。そう思ったから、絶対に動かないつもりだった。すると院長は約束してくれたのだ。
『中で待てばいいわ。お父さんが迎えに来たらいつでも出て行っていいから。あしたでも、一年後でも、いつでもね』
それが今だ、と思った。
やって来たのは父ではない。けれど父を知っている。わざわざ会いに来たのは、何かしら理由があったからだろう。でもあの男の子はその理由を隠した。
(なぜ? せっかく会いに来てくれたのに、どうしてそのまま去ろうとするの?)
生まれた疑問を飲み下すには、いいかげん待ちくたびれていた。
(出て行くなら今だ)
この機会を逃したらもう次はない。きっと、ない。
静かに歩きなさいと定められた廊下を全力で走った。びっくりしたように足を止めた黒い修道服が、走り去るエリを咎める。
「おゆるしください!」
振り向きもせずに叫んで、誰もいない共同寝室に戻った。灰色の見習い修道服を脱ぎ、シャツとベスト、くるぶしまでのスカートを身につけていく。
父が迎えに来たら着ていこうと外出着を作りはじめたのは、去年の春のことだ。とっくに完成していたけれど、袖を通すのは初めてだった。
白いベールを取り去ってしまうと、羽が生えたような気分になった。口元がゆるむのをどうしても抑えられない。
最後に羊毛のケープを羽織った。これも自分で編んだものだ。ひと編みひと編み、いつか来るはずの迎えを願いながら。
そうして院長室に飛びこんだエリを、まんまるに見開いた目が出迎えた。
「院長さま、あの、院長さまは言ってくださいましたよね。迎えが来たらいつでも出て行っていいと。だからわたし、行きます。お世話になりました」
急いだなりにきちんとたたんだ修道服を、優しい腕に押しこむ。口を半開きにしたまま二の句が継げないでいる院長に頭を下げて、あとはもう振り返らなかった。
(こんなに急でごめんなさい。でも院長さまならゆるしてくださる。わかってくださるって、信じてます)
門を飛び出したところで、あやうく馬車とぶつかりそうになった。あわてて立ち止まり、視線をめぐらせる。人影はなかった。
そんな、と思わず嘆きそうになるのをこらえた。まだ間に合うはずだ。追いかければ、追いつけるはずだ。
あたりに響く車輪の音を背にして、あの男の子が歩き去ろうとしていた道を走った。
突き当たりにある民家の塀を曲がると、灰色のオーバーコートが見えた。振り返りもしないし、立ち止まる気配もないけれど、のんびり歩いている。
(見つけた)
あの背中は、この胸にある願いとつながっている背中だ。
エリは石畳を駆けた。冷たい風が顔にぶつかり、喉の奥に入りこむ。清らかな匂いがして心地よかった。
「ほんとに来たのか」
迷惑そうな顔で男の子は言った。こんな顔をされれば、いつものエリならたじろぐ。けれど今は怯まなかった。
「あの、あなたのお名前を教えてほしいんです。何て呼んだらいいですか」
男の子は視線を前に向けて黙った。静かな町にふたつの足音が控えめに響く。エリを見ないまま、エリの日常を変えた人はぼそりと告げた。
「トール」
「トールさん! あの、聞きたいことがいろいろあって、あの」
「うるさいのは嫌いだ」
「は、はい」
「聞かれても、答えないかも」
「そ、それでもいいんです。今は」
「俺と一緒にいると、ひどい目にあうかも」
「そ、あ、がんばります!」
何をどう頑張ればいいのか見当もつかなかったけれど、何があってもくじけるつもりはなかった。
これみよがしな溜め息が聞こえた。
「ついて来るのは勝手だけど、どうなっても知らないからな」
そう言ってエリを睨んでくる。鋭い目つきだ。それなのに、琥珀色の瞳に宿る光はどこか不安定だった。
まるで泣いているみたいな目だと思いながら、しっかりと見つめ返す。
「はい」
一羽のカササギが頭上を横切った。
つられて空を見上げる。雲の切れ間からやわらかい光が降りそそいでいるのを見つけて、エリはしばらく見とれた。
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