07「ただいま!」
あくる朝、エリは浮き浮きしながら宿の食堂に向かった。
きのうの興奮がまださめない。鼻歌でも口ずさみたい気分だったけれど、席に着くといつもどおりに祈りを捧げた。
トールはほかの客に視線をめぐらせている。パンを取ったのは、エリの祈りがちょうど終わったときだった。
以前は気にとめていなかったけれど、今はさすがにエリも気づいている。食前に祈ることなどしないトールは、エリが食べはじめるまで待ってくれているのだ。
だからエリは、トールのぶんまで祈ろうと気持ちをこめて聖句をささやくようになった。
燻製した鮭のサラダは、塩気と脂とがよくなじんでいておいしい。次はどんな町に行くのか知らないけれど、しっかり食べて、元気を蓄えておかないといけない。エリは食事に集中した。
「きょうは、ここにいろ」
口に運びかけたフォークを止めて、顔を上げる。唐突なトールの言葉が理解できなかった。
「しばらくこの町に住む。俺が部屋を探すから、ここでゆっくりしてろ」
パンを頬張りながら、トールが言い切る。
「えっ、あ、はい……」
港のあるこの町に住む、それはとても魅力的な話だ。けれど、どうして急にこんなことを言い出したのだろう。意外に思えて、素直に喜ぶことができない。
「あの、でも、国境、急いでるんじゃないんですか?」
「あいにく、無尽蔵に金がわき出る財布は持ってないんだ。部屋を借りる余裕があるうちに、できるだけ稼いでおく」
「それは、その、ごめんなさい……」
エリはうなだれた。
今までお金に関して何も言わなかったトールだけれど、実は苦しかったのかもしれない。
物の値段が高いのか安いのか、エリには判断できないことが多い。相場を知らないからだ。
それでも、たとえばトールが宿を決めるとき、いくつかの宿をまわってから「あそこが安いな」と決めてきたのを見ている。
そうやってなるべく安いところを探すのは、エリがいるせいで手持ちのお金が足りなくなりそうだったからなのだろう。
このままではいけない。足手まといにはなりたくないのだ。
何かできないかと考えたエリは、思いついて顔を上げた。
「あの、わたしも働きます」
「そりゃどうも。だけど、できる仕事なんてないだろ」
「そんなことありません。女子修道院ではお菓子を売ったり繕い物をしたりして稼いでました」
「修道女がやるから金になったんだ。ひとりでやったって、利益は出ないだろ」
「じゃ、せめて部屋探しを手伝います」
「いいから、おとなしく待ってろ」
トールの語気は強かった。エリがそばにいると困る、そう言っているようにも聞こえる。
(もしかしたら)
待ってろと言いつつ、ひとりで次の町を目指すつもりかもしれない。
――ううん、トールはそんなことをしない。言われたとおり、おとなしく待っていれば部屋を見つけて戻ってきてくれるはずだ。きっと大丈夫。
(でも、もしかしたら――)
むくむくと不安が膨れあがっていく。どう言ったらいいかわからなくて、エリは口を閉ざした。
トールが顔を上げる。「え?」と苦笑した。
「まさか泣くの?」
こんなことで? と、言いたそうな口ぶりだ。
泣いたら嫌われる。きっと嫌われてしまう。だからエリは目に力をこめた。
「泣きません」
ふうん、とトールがせせら笑う。
「べつにいいけど。金のことだけじゃなくて、冬はあんまり移動したくないんだ。もし野宿なんてことになったら最悪だからな。家事も嫌だって言うなら、さっさと女子修道院に戻ってくれ」
(家事!)
それだ、とエリは身を乗り出した。
「お掃除なら得意です。ごはんも作ります。そういうのはまかせてください!」
「へぇ、自信満々。けど無駄遣いはしてほしくないんだけど」
「しません! 大丈夫です、まかせてください!」
「そう、じゃあ……まあ、そういうことで」
「はい!」
意気込むエリとは対照的に、トールは笑顔を引っこめた。物思いにふける目をしながら、半分に減ったサラダの残りを食べはじめる。
きっと、どんな部屋を借りようか悩んでいるのだろう。
この町での暮らしにエリは思いを馳せた。楽しいかな、楽しいだろうな、と期待して、頬が自然とゆるんだ。
ゆるやかな坂道の両脇に、いくつもの三角屋根が連なっている。
坂道をひたすら上っていくと、右手に小道が現れた。かどに植えられた
足取りは自然と軽くなった。
トールが数日かけて見つけてくれたアパートだ。泊まるのではなく、ここに住む。くすぐったいような気持ちがわき出てきて止まらなかった。
アパートには部屋が五つある。そのうち借りることができたのは三つめの部屋、ちょうどアパートの真ん中にある部屋だった。
からっぽの部屋の中は埃っぽかった。壁には何かのしみができていたし、歩けば床が軋む。台所はあるけれど、寝室がない。
広く見えるのは今のうちで、家具を置いてしまえば狭くなりそうだった。
「本来はね、一人用の部屋なんだ。でも夫婦で住んでる人もいるから、きっと大丈夫。慣れれば狭いのなんて気にならないよ」
明るい声で説明しながら、大家さんが窓を開ける。開けっ放しの玄関から入ってくる風に押し出されて、部屋の中でよどんでいた空気が外へ逃げていく。
「そこの暖炉ね、すぐ使えるよ。煙突なら掃除してあるから。ああだけど、掃除はだいぶ前の話だから、鳥の巣ができてるかもしれないね」
エリはトールと顔を見合わせた。
煙突に鳥の巣があったら暖炉を使うわけにいかない。熱い煙で小鳥が死んでしまうかもしれないし、もし煙の通り道がふさがれていたら部屋の中に逆流してしまう。
「あ、じゃあ、わたしが」
エリが言いかけると、トールが肩をすくめて苦笑した。トールのそんな表情はめずらしいから、思わずエリは言葉を引っこめる。
トールは大家さんに顔を向けた。
「梯子、貸してもらえますか」
「いいとも」
大家さんが快く貸してくれた梯子は、トールが受け取った。エリには触らせようともしない。
「見てくる」とも「待ってろ」ともトールは言わなかった。無言のまま、外の壁に梯子を立てかける。
そうして足元を見ずに上っていった。頭上にひろがる空は曇っていて、まるでトールの前に立ちはだかっているようだ。
エリはぐらつきそうな梯子を支えながら、はらはらして見守った。
屋根に登ったトールがしゃがみこむ。エリの場所からはよく見えないけれど、きっと煙突を覗きこんでいるのだ。
ずっと見上げていたエリは、見下ろしてくるトールと目が合った。そのとたん、トールが小さく笑ったように見えた。
トールはすぐに背中を向けて、梯子を下りはじめた。上るときと違って軽快な動きだ。
「何も。ゴミひとつありませんでした」
「そうかい、ごくろうさん」
「よかった」
つぶやいたエリをトールがちらりと見る。すぐに視線をそらして梯子を片づけはじめたけれど、その痩せた頬には、かすかな笑みがただよっていた。
よくわからないけれど、トールは機嫌がいいらしい。この部屋に住むというだけでうれしかったエリは、ますますうれしくなった。
「それじゃ、お掃除します!」
大家さんが去ると、エリは張り切って部屋の掃除に取りかかろうとした。けれど、それができないことにすぐ気がつく。
「お掃除道具がありません!」
どうしましょう、と尋ねたエリに、笑いを噛み殺したような声で答えが返ってくる。
「まずは買い物」
「はい!」
二人で出かけるのは楽しかった。トールの後をついて歩くのは今までもしてきたことだけれど、これまでとは違う。
帰る場所がある。宿が見つからないかもしれないと心配する必要がない。
ごはんを食べるのにお店を探す必要もない。これからはエリがごはんを用意するし、部屋に帰ればいつでも休める。
そういうことを考えるだけで、だらしないほど顔がゆるんでしまう。
必要になりそうな掃除道具をあらかた買って戻ると、もうお昼だった。
パンと水だけで手早く済ませたあと、トールはエリを置いて再び出かけていった。掃除をエリにまかせて、買い物をしてくるという。
言葉どおり、トールは次から次へと持ち帰ってきた。
家具や調度品が揃っていくと、ますます気合いが入って掃除もはかどった。壁のしみは落とせなかったけれど、居間の床は隅々まで掃いたし、トールが買ってきたテーブルや食器などもきれいに拭いた。
台所には竃がなかった。あるのは調理台と、床に煉瓦で仕切って設置された流しと、前の住人が残していったらしい水甕だけだ。煮炊きは暖炉でするしかなさそうだった。
掃除が終わると、エリはひとりで夕食の材料を買いに出かけた。
「安いほうがいいけど、いくら安くても傷んでる食材は選ぶなよ」
そうトールに言われたのだけれど、食材選びの前に、お店に辿り着くことすら難しかった。迷子になってしまったのだ。
知らない場所をうろうろして、戻ろうにもアパートへの帰り方すらわからない。途方に暮れて空を見上げると、今にも雨が降ってきそうで心細い。
どうしよう、と泣きたくなった。
ここにはいないトールの顔を思い浮かべる。今頃は大家さんに薪を分けてもらっているはずだ。助けに来てくれるわけがない。
トールに頼りきりだったことを、あらためて思い知った。いつも道を尋ねるのはトールの役目で、エリはついて行くだけだった。
港に行きたいと言ったときも、トールは当たり前のように通りすがりの人に道を尋ねてくれた。
そこまで考えたとき、目の前で光がはじけたような心地になった。
(そっか! トールみたいにすればいいんだ!)
エリは手当たりしだいに道を尋ねることにした。
トールがやってくれていたことを自分でやるだけだ。いつまでも頼りっぱなしのお荷物でいたくないから、知らない人に話しかけるのもためらわなかった。
「これ、高いですか? 安いですか?」
「もちろん安いとも!」
「じゃあ、これください!」
「まいどあり!」
どうにか食材を買って、街路灯がともりはじめた道を戻る。
煙突が吐き出す煙の匂いと、パンの匂いと、ほかにもおいしそうな匂いがただよっていた。夕食の時間だ。
じきに雨が降りはじめた。音のしない、霧雨だ。買い物籠には覆い布をしていないから、買ったばかりのパンも濡れてしまう。エリは急ぎ足になった。
くすんだ赤い色のアパートが目に入ったとき、ほっとして吐息がこぼれた。
小さな灯りが大きく揺れて出迎えてくれる。部屋の中央に据えたテーブルの上に、燭台が置かれていた。
トールは薪をくべていたらしい。暖炉の前に屈んでいた背中が動いて、振り向く。目が合った。
(あれ?)
エリは籠を抱えたまま立ち尽くした。
何か、おかしい。何かが欠けているような気がする。
トールが怪訝そうな顔をした。
「買えた?」
はっとしてエリは籠に目を落とした。
「あ、あの、お店がわからなくて、その、あんまり買えなかったんですけど」
「何でもいいよ。パンとチーズでも」
「あ、それです! それにスープをつけます!」
「早く作って」
「今すぐ!」
何か忘れているような感覚が気持ち悪いけれど、とりあえず夕食を用意しよう。そう決めて台所に入った。
買ってきたエビの殻を剥いているとき、薪が燃える音が聞こえてきた。少し体をひねって、開けっ放しのドアから暖炉を覗く。トールは床に座りこんで炎を眺めていた。
その姿を見たとき、あ、と思い出した。
「あ、あの」
「うん?」
居間に戻ったエリを、トールが見上げてくる。
「何か言わなきゃいけない気がして、忘れてるような感じだったんですけど、思い出しました」
「何を」
「ただいま!」
トールが意表を突かれた顔をした。
女子修道院にいたとき、エリはひとりで外に出かけたことがなかった。当然ながら見送られることもなかったし、出迎えられることもなかった。
外から帰ってきたときは、ただいま、と挨拶するものだ。たしか、そうだった。自分は言う機会がなかったけれど、人が言っているのを聞いたことはある。
トールの口元がゆるんで、「ふっ」と吹き出した。エリを見上げたまま小さくうなずいて、返事をしてくれる。
「おかえり」
「はい! ただいま!」
「なんなんだよ。いいから、早くメシ」
「はい、ただいま!」
苦笑するトールを居間に残して、エリは小走りに台所へ戻った。
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