挿話『1855年9月 受付係ソフィの来客応対』

「ああ、悪いわねえ。一人部屋はあいてないのよ。でも二人部屋ならあるわ」


 ソフィは微笑んで告げた。日がとっぷり暮れてからやって来た客にも誠実に応対するのが信条だ。


 少年の目が曇った。ソフィの言葉にがっかりしたのだろう。


 一方で、隣に立つ少女は奥の扉を見つめて黙っていた。漏れ聞こえてくる賑やかな声と、ただよう料理の匂いに惹かれているのがまるわかりだ。


 カウンターのランプと壁燭台の灯りに照らされる受付は、静かだ。肩をすくめるソフィと、たたずむ二人のほかには誰もいない。


「だけど、あなたたちだけ? 二人はお友達なのかしら? 家が遠いの?」


 ソフィは笑顔を保ったまま、注意深く観察した。


 少年のほうは十代後半だろうか。


 灰色のコートと灰色の帽子、汚れた靴とパンパンに膨らんだショルダーバッグという出で立ちは、あまり裕福ではない人物が遠出をしてきたといった雰囲気だ。金持ちなら馬車を使うが、彼は歩きつづけてきたのだろう。


 帽子から茶色くうねった髪がはみ出している。散髪をする余裕がなかったのか、あるいは無頓着なのか。


 憂いを帯びた琥珀色の目といい、ひどく疲れているような顔といい、楽しい旅路ではなかったのかもしれない。


 少女のほうは、かわいらしい顔をしていた。


 幼さの残るまるい頬と小さい顎。正直そうな目はきれいな緑色で、灰色っぽいくすんだ金色の髪は、三つ編みにすらせず下ろしたままだ。十代前半といったところか。


 着ているのは暖かそうなケープと、花柄の刺繍をさりげなく散りばめたスカート。靴も汚れはなくきれいで、ちょっと近所を散歩してましたと言われても特に不審な点はない。


 だいたい彼女は荷物を持っていなかった。質素だが穏やかな家庭で育ったお嬢さんといった雰囲気を醸し出している。


 なんとも奇異な組み合わせだ。迷子か、家出か、もっとよくない事情なのかと不安になった。


 長年この宿の受付嬢をしているソフィはいろいろな客を見てきた。冒険心に火がついて家出してきた子供たちもいたし、親子だと思っていたら誘拐犯だったこともある。


 泊めるのはいいが、災難に巻きこまれるのはごめんだった。そもそもこの二人はお金を持っているのだろうか。


 少年の頬に控えめな笑みが浮かんだ。


 おや、とソフィは思う。笑うと案外かわいい男の子じゃないか。


「兄妹です。友達じゃなくて。妹が女子修道院に入ることになったんで、連れて行く途中なんですよ。これから修道女になるんだから、できれば部屋を別にしたかったんですが」

「まあそうなの? ご両親は?」

「仕事で、連れて行けないって。母は具合が悪くて」

「たいへんねえ」


 半信半疑だったが、とりあえず少年の言葉を受け入れた。少年を見上げた少女の目に、不安も怯えもなかったからだ。


 ソフィと目が合っても、少女に助けを求めるそぶりはない。むしろ、はにかんだ笑みを返してくれた。


 少なくとも誘拐という線はなさそうだ。家出の可能性はあるが、少年が嘘を言っているという確証はない。この若さで女子修道院に入る女の子というのも、めずらしいけれどおかしくはない。


「だったらいいじゃない。一緒に過ごす最後の機会よ。ほかの宿屋を当たるにしても遠いし、もう夜だもの。早くゆっくりしたいでしょ?」


 この二人が泊まれば、きょうは満室だ。そうすればソフィの仕事も早く終わる。


 だからといって強引に話を進めるのは気が引けた。泊まらないという選択肢もあることをちゃんと伝えなければ。


「それとも、ごはんだけ食べてく? うちはもともと料理屋だったから、ごはんだけのお客さんも歓迎してるわよ。どうする?」

「そうですね……」


 微笑を浮かべたまま、少年がちらりと少女を見た。


「あ、わたし、えっと」


 少女は口ごもってしまった。少年とソフィを交互に見やって、困ったようにうつむき、両手をおなかに当てる。空腹、の意味だろうか。


 無言でも少女の言いたいことがわかったのか、少年が明るい声でソフィに告げた。


「じゃあ、その部屋でいいです。お願いします」

「前払いだけど、いいかい?」

「はい」


 ソフィは料金を告げながら、少年が取り出した財布を盗み見た。たくさん、ではないが、そこそこ持っているようだ。


(妹を女子修道院に送り届ける兄、ねえ)


 こみいった事情がありそうだが、これ以上は詮索しないことに決めた。知り合いならいざ知らず、赤の他人だ。へたに関わって、胸を痛める結末になるのは嫌だった。

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