08「お父さんって、どんな人ですか」
翌朝、まだ暗いうちに目覚めたエリは、朝のお祈りを終えてから、さっそく掃除に取りかかった。
火をともした燭台で照らしながら、暖炉の灰をかき出す。それを捨てに行こうと外に出てから、しばらくさまよった。
捨てる場所がもし決まっているなら、ほかのところに捨ててはいけないと思ったのだ。
誰とも行き会わないので質問することもできず、燭台が照らし出した樅の木の根元に「えいやっ」と捨てた。怒られたら謝ろう。
空を見上げた。暗いけれど、雲の形が見える。ゆっくりと夜明けに向かっているのだ。星も見えた。じっとしていると、澄んだ冷気に包みこまれる。
(女子修道院から、こんなところまで来ちゃった)
はっと思い立って、急いで部屋に戻った。
まだトールが眠っているのを確認してから、台所で水甕から桶に水を移す。浸した布を絞ると、エリは服を脱いだ。
これまで体を拭くときには、宿でトールと別の部屋に泊まったときだけにしていた。
けれど、これからはずっと一緒の部屋だ。肌は人前にさらすものではないから、トールの目を盗んでしなければならない。
髪を洗っている時間まではなさそうだった。それは次の機会にしようと決めて、エリは脱いだ服を再び着て掃除に戻った。
空はだいぶ白んでいた。
結露している窓を拭いているとき、むくりとトールが起きた。
「おまえって、あきれるほど寝つきがいいな」
いきなりそんなことを言われた。思いもしないひとことだ。
「トールもよく眠ってたじゃないですか。いま起きたんでしょう?」
「俺は夜中に何度も起きたの。この床、寝づらいだろ」
「そうですね。体が痛かったです」
エリとトールはテーブルを挟むようにして、板張りの床で眠ったのだった。
トールはまだ床に座ったまま毛布を体に巻きつけている。テーブルの燭台に照らされた顔はとても眠そうで、とても不機嫌そうだった。
「でも、お掃除してたら体もほぐれて痛くなくなりました」
エリは雑巾を持ったまま腕をぐるぐると回した。起きたときは肩や背中が痛かったけれど、もうどこにも不調はない。きのう汗をかいた肌もきれいにできたし、気分がいい。
「あー、そりゃよかった。よく熟睡できたね」
「きのうは動きまわったから、疲れて寝ちゃったんです。トールが眠れなかったのは、わたしより疲れにくくて元気だからですね!」
トールが複雑そうな顔をした。ボソリとつぶやく。
「――まあ、疲れてたら、眠れるよな」
褒めたつもりだったのだけれど、何か気に障ったのだろうか。エリは不安になってトールの顔色を窺った。
トールはあくびをひとつした。
「掃除はもういいだろ。朝ごはんは? 食べたら仕事探しに行くよ」
「あ、はい!」
あわてて台所に向かったものの、小窓から漏れる明かりは頼りなくて、これでは手元がよく見えない。エリは燭台を取りに引き返した。
裏庭に面した窓から薄青い光がにじんでいる。トールが顔を膝に埋めていた。癖の強い髪の毛に、燭台の影がゆらゆらと落ちている。
(寝てる?)
物音を立てないように気をつけてテーブルに近づき、燭台を持ち上げた。
トールはぴくりともしなかった。毛布を巻きつけた背中が寒そうにまるまっているのが、なぜだか物寂しく見えた。
トールは製紙工場で働きはじめた。
二人の住まいは川から離れている。けれど製紙工場があるのは川沿い、それも橋を渡った向こう岸だ。
だからトールは朝早くに出かけていき、日が暮れきってから帰ってくるようになった。
トールが留守にしているあいだ、エリにもやることがあった。
アパートの裏にある井戸から水を運び、暖炉に残った
洗濯と掃除が終われば、食材の確認だ。減っていれば買いに行き、献立を考えて、下ごしらえをする。火を使うのは夕方からだった。
余った時間は編み物をして過ごした。
日増しに寒さが厳しくなるというのに、トールは出会ったころと変わらない服装をしている。冬用とは思えない薄着の上にコートを羽織るだけで仕事に行くのだ。
「新しい服なんて必要ない。どうせ汚れるし」
と、トールは言う。
確かに、工場で働きはじめてからトールの服は黒ずんだ。
エリが洗っても汚れは完全に落ちなかったし、雨で服が乾かなければ前の日と同じ服を着る。そのせいで、さらに汚れがつく。
もし新しい服を着て工場に行けば、あっという間に古着のようになるかもしれない。けれど問題は汚れではないのだ。
エリが気になるのはトールの薄着だった。朝晩の冷たい風に吹かれて歩くトールは、とても寒いはずだ。このままでは体を壊してしまう。
だからマフラーを編むことにしたのだった。
トールから渡されているお金は生活費だけれど、少しくらいならエリが欲しい物も買っていいと言われていた。だから毛糸を買った。
マフラーが完成したら手袋と靴下も編む。それをトールにあげるつもりだった。
喜んでくれるかはわからない。よけいなことを、と怒られてしまうかもしれない。それでも、何もしないでいるよりはいいと思ったのだ。
ドアの軋む音が耳にすべりこんだ。
うとうとしていた頭の中が、泡がはじけるようにすっきりする。あわてて声をかけた。
「おかえりなさい」
「ああ」
ブーツを脱いだトールが、エリのいるテーブルに近づく。コートから夜の冷たい匂いがただよってきた。
トールは椅子を暖炉のそばに寄せて座った。黒い汚れのついた顔が炎に照らされる。頬がふるえているように見えるのは、たぶん火影のせいだけではない。
「寒そうです」
エリは膝掛けにしていた毛布をトールの肩にかけた。
トールは両手を暖炉にかざしている。働いて、黒く汚れてしまった手だ。寒さで指先がこわばっているように見える。それでもトールは愚痴ひとつこぼさなかった。
しばらくしてから、トールはコートを脱いだ。毛布が肩から落ちる。エリが差し伸べた手にコートと帽子を押しやると、毛布を体に巻きつけて椅子の横に寝転がった。顔も手も、黒く汚れたままだ。
「汚れを落とさないんですか?」
「あしたは休みだから、朝もゆっくりできるだろ。起きてから洗う。眠いんだ」
「わかりました」
「椅子も戻しといて」
「はい、おやすみなさい」
パチン、と薪が爆ぜた。部屋の中はしっかり暖まっているから、疲れきって冷えた体も、じきにぬくまるはずだ。
エリはコートをハンガーにかけて衣装戸棚にしまい、帽子はその下に置いて扉を閉めた。椅子をテーブルに戻したとき、編み道具が置きっぱなしになっていることに気づいた。
衣装戸棚の下側は、大小三つの引き出しがついている。そのうちの小さな引き出しを開けて編み道具を片づけた。
床の隅に置いてあるもう一枚の毛布を取る。暖炉のほうに足を向けて、エリも床に横たわった。
薪が不規則に爆ぜる音が心地いい。聞いているうちに、再び睡魔が近づく。
いつもはそのまま眠りに落ちるのだけれど、何かの気配を感じてエリは目を開けた。
カーテンのない窓から月の光がさしこんでいた。さっきまでは暗闇だったから、きっと雲が晴れたのだ。この季節にはめずらしい。
さえざえとした青白い光に眠気を吸い取られてしまった。エリの視線は、窓からトールへと移る。
テーブルの脚のむこうに、トールの頭がある。癖の強い髪の毛が月の光に縁取られていた。
火影がトールの毛布の上で踊っている。煙突に入りこむほど風が強く吹いているのだろう。見つめるうちに火影はやがて、ある人の姿に見えてきた。
「トール」
小声で呼んだ。返事はない。
「父は……」
薪が爆ぜる。身じろぎひとつないトールの背中で踊る火影が、逃げるように揺らいで暗くなった。
言いかけたことと微妙に違う言葉が、唇からこぼれた。
「トールのお父さんって、どんな人ですか」
青白い光が四角く床に落ちている。トールもそれを見ているだろうか。それとも寝てしまっただろうか。しばらく待っても沈黙が続くばかりだった。
エリは静かに息を吐いた。
トールはトール自身のことを話さない。だいぶ仲良くなれたと思うけれど、やっぱりまだ、答えてくれないのだろう。
毛布を顔まで引き上げた。やわらかい匂いが鼻の奥に届く。目を閉じれば瞼の裏にトールが見えた。
無愛想な顔、ばかにしたような顔、楽しそうな顔、大家さんに愛想よく話しかけていた顔、エリの料理を「まあまあ」とか「そこそこ」とか褒めて目を伏せる顔、いろんなトールが見えた。
トールはどうして過去を語らないのだろう。父の話を嫌がるのだろう。もっと仲良くなれたら話してくれるだろうか。
知りたい。トールのことを。あれからの父のことを。
「……もう死んだ」
エリは急いで毛布から顔を出した。反対に頭ごと毛布にもぐりこむトールが見えた。聞き間違いかと思ったけれど、そうじゃない。
「いつの、ことですか」
尋ねる声はうわずってしまった。
パチン、と炎がささめく。青白い光がフッと消えた。
それきり、もう返事はなかった。
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