02 ゲオルクの疑念
妙だなとゲオルクは思った。
報告書に書かれていた事件は、解決間近のように見えて、はっきりとした違和感があった。
二週間前のよく晴れた朝、カレン・クヌッセンは自宅の台所で倒れているところを隣人によって発見された。カレンは血溜まりの中で意識を失っており、そばには血で汚れた包丁が落ちていた。
倒れているカレンの頭は夫の足元にあった。
彼女の夫は壁を背にして座っていた。床に落ちている包丁はその壁にいつも引っかけていたものらしい。
夫の腹部は真っ赤に染まり、床の血溜まりは彼の血によるものだった。血を吸って濡れた手拭き布も落ちていたという。
「で、自白してるのか。夫を殺しましたと」
「ああ、そうだ」
報告書から目を上げたゲオルクは、カール警部を見つめた。
上司ではあるのだが、同期であり、また友人でもあるカールに対して、ゲオルクはつい敬語を忘れるきらいがある。それを気にするそぶりもなく、カールは椅子の背もたれに体をあずけた。
カールの席は部屋の隅にある。壁際の棚にも机の上にも、さまざまな書物や資料が整然と置かれている。あるじの性格そのものだ。
ゲオルクの背後では仲間たちが別件の書類を作っていたり、電信を打ったりしていた。静かな喧噪、という言葉はおかしいが、空気の底に流れる緊張感はまさしく静かな喧噪だった。
殺人事件のような大きな犯罪はそう起こるものではない。家族が行方不明だとか、誰が誰に怪我を負わせただとかいうものも少なくはないが、最も多いのは窃盗事件だ。
そんなハリン警察署にめずらしく持ちこまれた殺人事件だったが、犯人が自白しているなら特に捜査をする必要はないはずだ。
それならなぜカールはこんなに難しい顔をしているのか。そう思ってすぐ、
考えが顔に出たのだろう。ゲオルクの声なき問いかけに、カールが目でうなずいた。にこりともせず話を続けてくる。
「明日、カレン・クヌッセンが移送されてくる予定だ。彼女に話を聴いて、最終報告書をまとめてくれ」
「質問が」
「何だ」
「これによると」
ゲオルクは報告書を素早く上下に動かした。五枚程度の薄い紙の束だからか、ペコッという間抜けな音がした。
「息子が行方不明らしいですが、事件との関係は?」
「わからん」
「……なるほど?」
「最後まで読め。家出したとカレンは言ってるらしい。カレンが夫を殺害した前後に」
「そりゃまたすごいタイミングだな」
カールは片眉を上げただけで返事をしなかった。こいつはいつも愛想がない。酒が入れば別人のように陽気で楽しいやつなのだが。
カールの視線を感じながら、資料に目を落とした。流し読みしてしまったところを中心に、もういちど読み返す。
妙だな、とまた思った。
カレンの夫は朝から酔っていたらしい。
ゲオルクの経験上、日が暮れるころから浴びるように酒を飲む男というのはよくいる。けれどたとえ記憶が飛ぶほど飲んだとしても、上機嫌で陽気になるだけ、という場合が多い。カールもそのタイプだ。
しかしカレンの夫は酒癖が悪く、酔いが回ると暴言や暴力が増えたようだ。
事件当日の夜、カレンは夕食後に居間で目を血走らせていた夫の深酒をたしなめた。それに腹を立てた夫はカレンを突き飛ばす。
カレンはテーブルの角に頭をぶつけ、出血してしまう。手拭き布を傷口にあてがい、カレンは自分で手当てをしようとした。
そうこうしているうちに夫は台所に向かった。
また酒を探しに行くのかと思ったカレンは夫を追いかけ、壁から包丁を取った。手拭き布はそのときに落としたという。
驚く夫に体当たりして、カレンは夫の腹部を刺した。夫は壁を背にして座りこみ、息絶える。カレンは包丁を落とし、茫然自失となり、やがて意識を失った。
一夜明け、隣人が二人を発見したのが午前九時ごろ。前日の夕食の準備は午後六時ごろだとカレンは証言した。食べ終わったのは、たぶん三十分から一時間後だろうとも言っている。
夫を刺したのが何時ごろかはわからないそうだが、午後七時以降に諍いが始まったとして、日付が変わるまで言い争っていたとは考えにくい。
遺体の傷は腹部の刺し傷と両手の切り傷の三ヵ所。おそらく手のほうは刺されたときに抵抗しようとして刃を握ってしまったのだろう。
(やっぱり、おかしい)
包丁は、壁に引っかけてあったものだ。それをカレンが手にして刺したというのなら、壁に背を向けているのはカレンのほうではないか?
けれど実際には、壁に背を向けていたのは夫になっている。
体当たりをして刺した、とカレンは言っているそうだが、その証言は間違っているかもしれない。
たとえば、実際は壁に寄りかかって寝ているところを刺した、のだとしたらどうだろう。これなら夫が壁に背を向けて死んでいたことにも説明がつく。酔ったうえでの眠りが永遠の眠りになってしまったというわけだ。
(でもそれならどうしてカレンは嘘をつく?)
刺したのは誰だろうか。本当にカレンなのだろうか。カレンの頭に傷をつけたのは、本当に夫なのだろうか。
カレンは自宅とは別に店舗を持ち、雑貨屋を経営している。発見者である隣人はこの店の常連客だった。
いつもの時間に店が開いていないので、心配してカレンの自宅まで様子を見に行ったところ、門も玄関も鍵がかかっていなかった。
呼びかけても返事がないから、勝手に中に入ったという。カレンの夫がこの一年ほど働きもせずに酒ばかり飲んでいるのを知っていたため、胸騒ぎがしたらしい。
この隣人がカレンの息子についても証言した。前日の昼に店番をしているのを見たのが最後だそうだ。
カレンは午後三時過ぎに店に戻り、店番をしていた息子を帰宅させてから、一時間後に店じまいをしたと言っている。
そして自分も家に戻り、三人分の夕食を用意した。実際にカレンの家には使い終わって洗う前の食器が三人分あったようだ。
(父親が殺害される前、あるいは殺害された後に家を出て、それきり行方不明の息子)
家出をするのに最適な時間は夜なのだろうか。
ロッベンは田舎だ。街路灯なんてないから夜は月明かりだけが頼りだろう。ロッベンを出てしまえば何もない道が続く。その道はおそらく、森か林に囲まれている。
目的地がどこかわからないが、到着が仮に朝だとすれば、ずっと月明かりだけで歩きつづけることになる。
手元に灯りを持っていたとしても、道の脇から何が飛び出してくるかわかったものではない。夜は獣の時間だ。もしも自分だったら、早朝に家出する。
腑に落ちない。
けれど、カレンが自白している以上はカレンが殺害の犯人であり、報告書はそのようにまとめるべきだ。自白こそが第一級の証拠なのだから。
殺人罪は死刑だから、カレンも死刑となるだろう。
(でもそれじゃ、すっきりしないな)
カールの小さな目がしっかりとゲオルクを見ていた。おそらくカールもゲオルクと同じ考えなのだろう。
この地区で最も大きい町はハリンだ。ハリン警察署は、地区内のほかの警察署すべてを統轄している。
裁判所があるのもハリンだけだ。だから罪の重さに関係なく、逮捕された人間は皆ハリンへと送られてくる。
その時点で事件はハリン警察署の担当となるため、移送元の警察署では取り調べの結果をハリン警察署に渡す。
ゲオルクが渡された報告書というのは、ロッベンで作成されたものなのだ。その内容に不審な点がないかを確認したら、通常は報告書を作り直さずにそのまま検察に提出する。
犯人が自白している場合は検察もあらためて捜査などせず、量刑裁判となることがほとんどだ。
しかし今回カールは「最終報告書をまとめろ」と指示を出してきた。
ということは、つまり、そういうことなのだろう。
謹厳実直な顔をして、けっしてそれだけで終わらないのがカールという男だ。
常道をはずれた捜査に人員は割けないが、違和感を無視することもできない。だから自分の力の及ぶ範囲で、秘密裏に、真相の究明に当たらせようとしている。
(まじめで豪胆なやつってのは、おっかないねえ)
ゲオルクは苦笑いで肩をすくめた。
小心者ならこんな決断はしない。そもそも面倒だし、よけいな捜査の責任を追及されたら地位を失いかねないのだ。
こういう男から頼られているとわかった以上、ゲオルクも知らんぷりはできなかった。
「ま、とりあえず話を聴いてみますわ」
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