29 ゲオルクの監視

「陸路なら間に合わないね。でも」


 ゲオルクは片手をひろげて、雪と薄闇に包まれる町を示した。


「運がいいことに、ここは港町だ。ハリンにいちばん近い港まで、なんと八日で行けるらしい。そこから馬車を飛ばせば、まあギリギリ、間に合うと思う。ただし、あしたの朝の便に乗る必要がある。それを逃すと、次に北回りの船が出るのは一週間後だ」

「あした……でも」

「時間がないんだ。あしたの朝、アパートまで迎えに行くよ。エリちゃんと一緒にハリンへ。ああ、船賃の心配はいらない」

「――どうして」


 少年の目が怪訝そうな色を帯びる。


「どうして待ってくれるんですか? 今すぐ、俺を引っ張っていかないんですか」

「そう思うってことは、お父さんの死に君が関わっているということで、合ってるね?」


 ばつが悪そうな顔をして、少年はゲオルクから目をそらした。こらえるように呼吸を繰り返す。顔をそむけたまま、ぼそっとつぶやいた。


「……母さんは、無実です」

「それを、ハリン警察署で証言してほしい」


 唇を噛んで黙り、少年は虚空を睨んだ。そうして一度だけ、小さくうなずいた。


 ゲオルクはそっと吐息を漏らす。


「あしたの朝、迎えに行くよ。今夜はアパートで休んで」

「エリも、一緒に行くんですか」


 窺うような目がゲオルクを見た。


「もちろん。ひとりで置いていけないだろう。それとも、僕からエリちゃんに説明しようか?」

「いや……」


 力なく口ごもり、少年はうつむいた。


 母親の無実を証言することが自分にとって何をもたらすのか、ということを考えているのかもしれない。


 どうしたって避けられない問題だ。それをエリに話すことを思って、悩んでいるのだろうか。


 それ以上の想像をゲオルクはやめた。


 考えすぎると心が引きずられる。少なくとも今はやめておくべきだ。同情で解決できることなどたかが知れているのだから、優先することが何かを間違えてはいけない。


 もっとも、騙し討ちのような形で捕縛したという後ろめたさがゲオルクにはある。だからせめて、町を発つ前に二人きりで過ごす時間を彼らにあげたかった。


 かといって、完全に目を離すつもりもない。


 今朝の面会後、ゲオルクはエリをアパートに送り届けたその足で、ソンドレの店を訪ねた。


 警察であることを明かし、トールが捕まったことと、捜査の一環で部屋を貸してほしい旨を申し出たのだ。


 詳しい捜査内容は言えない、と曖昧にぼかし、驚くソンドレをどうにか説き伏せた。


 今夜、ソンドレは部屋にいない。友人の家に泊まってくれるそうだ。かわりにゲオルクがソンドレの部屋を使わせてもらう。


 この少年をここでいったん解放すれば、逃げられてしまうかもしれない。だが横暴な敵ではないと示すことで、信頼を得られる可能性もある。


 後者になることを期待した。ゲオルクがひとりで速やかに彼を連行するためには、大事なことだ。


 突然、街路灯が消えかかった。


 ガス管に不具合でもあるのか、あるいはガスの供給が弱まったのか、眠りに落ちる寸前のようにチカチカしはじめる。


 不安定な明滅のなかで、少年は微動だにしなかった。帽子におさまりきらない髪の毛だけが、風に揺れている。


「わかりました」


 ついと顔を上げて、細い目がゲオルクを見据えた。どこか吹っ切れたような、それでいて悲しげな眼差しだった。


「エリと話し合って、アパートを出ます。迎えはいりません。港で待ちます」


 ロルフ・クヌッセンは、はっきりとそう言った。


「そうか」


 迎えはいらない――その真意は何だろうとゲオルクは危ぶんだが、結局はうなずいた。


「うん、わかった。港で会おう」






 静寂のなかで聞き耳を立てれば、隣室の物音も聞こえる。


 ロルフが部屋に戻ったのを確認したあと、ゲオルクはソンドレの部屋に忍びこんで、すぐさま壁に耳を寄せた。


 ぼそぼそと話し声が聞こえるが、何を言っているのかまでは聞き取れない。


 だいたいの想像はつく。エリには釈放のことを伝えなかったから、突然トールが帰ってきて、きっと驚いている。


 そこからどう会話が進んだのか。彼はどう切り出し、エリは何と答えたのか。少なくとも言い争っている感じはしなかった。


 しばらくすると、夕食の香りがただよってきた。


 話し声が続いているが、やはり内容は聞き取れない。食事の気配はやがて消え、話し声も聞こえなくなった。眠ったのだろうか。かすかな物音すらしない。


 ゲオルクは隣室の様子を窺いつづけた。


 ソンドレに話をつけたあとで仮眠を取ったから、眠くはない。ロルフが逃亡したり、あるいはエリに危害を加えたりすれば、その場で手錠をかけるつもりだった。


 ソンドレの部屋は無人ということになっているから、暖炉は使わなかった。集中しているせいか、寒さもあまり気にならない。


 窓に近寄って裏庭を眺めた。二人の部屋の明かりが漏れている。


 日付が変わってしばらく経つと、明かりはしだいに弱くなっていった。暖炉の火が消えかかっているのだろう。やがて真っ暗になった。


 午前三時を過ぎたころ、急に窓明かりが復活した。


 ゲオルクは音がしないように窓をゆっくり開けた。たちまち冷たい夜風が入ってくる。


 身を乗り出して隣室の窓を確認した。明かりは小さいから、暖炉ではなく、ランプか蝋燭をつけたのかもしれない。


 窓辺に誰かがいるようだが、曇っているから顔が見えなかった。それでも、なんとなくロルフのような気がした。


(何をしている?)


 人影は、ほとんど動かなかった。


 眠れないから起きて、考え事をしているうちにうとうとしはじめた――そんな光景が頭に浮かぶ。


 ときおり壁に耳を寄せたりもしながら、ゲオルクは人影を観察しつづけた。


 動きがあったのは午前五時ごろだ。


 人影が部屋の奥へと移動した。すぐに戻ってきたと思ったら、窓明かりが消えたのだ。やがて隣室から物音が聞こえてきた。


 ゲオルクは静かに窓を閉めて、玄関ドアまですべるように移動した。耳を澄ます。隣室から出てきたらしい誰かの靴音が遠ざかっていく。


 そっとドアを開けた。月も星もない暗闇だが、表通りへと動く人影がかろうじて見える。あたりに誰もいないのを確認してから、ゲオルクも外に出た。


 念のため、隣室のドアノブに手をかける。押しても引いても開かない。鍵がかかっている。


(港に向かうにしては、早すぎるな)


 船が出るのは日の出前の午前八時。それまでに港に来てくれと伝えてある。このまま港に向かえば、到着は午前六時ごろになるだろう。早すぎる。


 ゲオルクは通りに出た。


 街路灯がぽつりぽつりと道を照らしている。点灯夫が灯りを消しに来るのは、この闇が晴れてからだ。


 道の先に人影が見えた。ひとりだ。街路灯に照らされるのを避けているのか、暗がりを選んで歩いているようだった。だがほんの一瞬、灯りの舌先が人影を舐めた。


(ロルフだ)


 足音を立てないようにしながら人影を追った。エリのことも気になったが、ここで彼を取り逃がすわけにはいかない。


 ロルフはのんびり歩いていた。どうやらまっすぐ港に向かっているわけではないようだ。時間を潰すつもりなのか、道に迷っているのか、遠回りをしているように思える。


 どれくらい歩いただろうか。右側に建物の影が見えてきた。教会だ。道の反対側には街路灯がある。


 突如として大きな音が降ってきた。


 思わず身がすくんだ。一本調子だが力強い音色が、耳を通り越して頭や腹にまっすぐ響いてくる。


(神の鉄槌)


 ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。同時に、神様なんて信じてないけど、と苦笑した少年の顔も浮かんだ。


 その少年はわずかに離れた場所で、やはり動かなかった。何を見ているのか、どんな表情なのか、そこまではわからなかったが、


(連れて帰らないと)


 強く思った。


 この凍える闇の先に、死刑宣告を待つ女性がいるのだ。たとえ誰の笑顔もない未来だとしても、無実の人間に汚名を着せてはいけない。


 ちらちらと雪が降りはじめたのは、それからさらに一時間ほど歩いたときだった。


 港ではすでに人が動いていた。荷運びのためだろうか、桟橋と倉庫の入り口でガス灯が光っている。


 青みがかった薄闇にぼんやりと船の輪郭が見えた。もしかしたら最新の蒸気船が泊まっているかもしれないが、ほとんどは帆船だろう。乗る予定の船も帆船だった。


 ゲオルクは倉庫に近づいた。灯りの届かない壁際でしゃがみこんでいる人影に、声をかける。


「早いね」


 ロルフが顔を上げた。億劫そうに細められた目、帽子からはみ出す長い癖毛と、口元まで覆うマフラー。


 二時間ほど歩きつづけてようやく港に着いたのだ。ゲオルクも疲れているが、同じようにロルフも疲れているはずだった。


「エリちゃんは?」


 ロルフは頭を左右に振った。くぐもった声で返事をくれる。


「体調が悪いって言うから、置いていきます」

「そうか……きのう会ったときはそんな感じじゃなかったけど」

「夜になって具合が悪くなったんです。連れまわせない」

「それは大変だ。あとから来るの?」

「あいつがそうしたければ」

「ずいぶん突き放すね」


 ゲオルクは苦い気持ちで微笑んだ。


 ロルフが部屋を出たとき、話し声はしなかった。エリが見送った気配がないのだ。窓明かりの影の正体がロルフだとすると、エリはずっとベッドで眠っていたのだろう。


 義兄あにの最期を想像して、精神的に参ってしまったのかもしれない。そういう反応は予想していたが、それでもエリならついて来るだろうと思っていた。


「エリちゃん、ひとりで来られるの?」

「お金は置いてきました」

「お金の問題だけじゃない。女の子がひとりでなんて」

「来なくても俺はかまわないし、誰も困らない」

「君が女子修道院から連れ出したんだろう? それなのに」

「違います。あいつが勝手について来た。女子修道院が嫌だったそうです。連れ出してくれるなら、俺じゃなくてもよかったんだ」


 ゲオルクは少し黙り、首をかしげた。


「もしかして、ケンカした?」

「そんなんじゃない」


 不機嫌そうにロルフは答えた。


 桟橋の灯りをゲオルクは振り返る。出航まで一時間。それまでに来ないなら、エリは船に乗れない。


「ロッベンにはお父さんのお墓もあるのに」


 ゲオルクがつぶやくと、ロルフはうつむいた。


 ヘンドリー・アーベルは、カレン・クヌッセンと結婚してもアーベル姓を捨てなかった。


 夫婦別姓はめずらしくもないが、ヘンドリーに限って言えば、娘のことが頭にあったからかもしれないと思う。それとわかる形でつながりを残しておきたかったのではないだろうか。


 エリも会いたかったはずだ。


 生きて会うことはかなわないが、父親が最後に過ごした町へ行ってみることはできる。それなのに来ないとは。


「エリちゃんに、ちゃんと説明したんだよね?」

「しましたよ」

「何て言ってた?」

「一緒に行くのは怖いって。……気分が悪いって言って、ベッドに入った」

「そう……心配だね、エリちゃん」


 ロルフはどうして部屋を早く出たのだろう。本当に、エリに説明したのだろうか。


 気になるが、どちらにしろエリを迎えに行っている時間はない。出航までに来なければ、置いていくしかない。


 ひゅん、と回転するような音を立てて風が吹いた。


 あおられた雪が吹きつけてきて、ゲオルクは思わず顔をそむける。


 風はすぐに弱まったが、ロルフは迷惑そうに頭を振ってマフラーを引き上げた。目元まで覆うと、うなだれるように顔を膝に埋める。はらり、と帽子から粉雪が落ちた。


 空がだいぶ白んできた。船の姿がはっきり見えるようになり、帆を張っている男たちの動きもよくわかる。今のところ、蒸気が上がっている船は見当たらない。


 出航を待っている様子の人たちが増えた。最初は小さかった話し声が、しだいに港を賑やかにしていく。


 ロルフは無言だった。ゲオルクも無言だった。


 雪まじりの風は、錆びた鉄のようなにおいがした。

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