30 幽霊
夜中に目をさますことがある。
全力疾走でもしたかのように鼓動が速く、手足が冷たく強張っているのがお決まりで、そういうときに規則正しい寝息が聞こえてくると助かった。聞いているうちに呼吸が落ち着く。
いちど眠ってしまうと、おまえは朝まで起きない。同居人が夜中にうなされていることなんて、気づきもしなかっただろうな。
それでよかったと思ってるけど、少し残念なような気もしてる。
夢に出てくるのはあいつだ。おまえを置き去りにした男、ヘンドリー。
夢に出るだけじゃなくて、工場からアパートに帰る道すがら、誰もいない暗闇を歩いているときも、あいつは出てくる。
静寂がだめなんだ。闇がだめなんだ。そこにはあいつがいて、俺に話しかけてくる。
――忘れるな。おまえはひとごろしだ。
実際にそんなことをあいつが言ったことはない。それでも、暗闇の住人になったあいつが耳元でそう言う。
――忘れるな。おれの娘を見るたびに、罪を思い出せ。
明るい昼間や賑やかな場所にいるとき、忙しく体を動かしているときには、あいつは出てこない。
だからへとへとになるまで働いたって愚痴のひとつもないんだ。むしろそれがいい。疲れていれば悪夢も見ないほど眠れるはずだから。
そばに誰かがいる、話をする相手がいる、そういう場所に身を置きたいと思う。
だけど嘘がバレないように気を張っていなくちゃならない。体が疲れるのは全然かまわないけど、心がすり減ることは遠慮したい。
それじゃあおまえとなら楽に過ごせるか、というと、複雑だ。おまえはあいつの娘だから。おまえを見てると、どうしてもあいつを思い出して、つらくなる。
キンネルに行ったことすら、あいつの思惑どおりという気がしてならない。おまえも言ったよな。俺をおまえに会わせることで、あいつはおまえとの約束を果たした。
そうなのかなって思ったよ。でも、それでもいいやと思ってる。だっておまえは
そこまで書いて、ロルフは羽根ペンを置いた。
ふと視線を感じて横を見れば、カーテンのない窓に蝋燭の火が映りこんでいる。自分の姿もぼんやりと映っていて、色も形も曖昧にとけていた。
窓の反対側に顔を向けた。
すぐそばのベッドから聞こえてくるのは、きょうまで何度もすがるように耳を澄ましてきた、規則正しい寝息だ。
フクロウと目が合った。
インク壺の蓋についたフクロウの彫刻が、蝋燭の灯りを小さく反射しながらロルフを見守っている。
ソンドレの店で見つけたときも、この小さなフクロウはロルフを見つめてたたずんでいた。
なんとなく気に入ったから買っただけだ。でもこうして暗闇の中で見つめていると、ただの彫刻ではなく生きているように見えてくるから不思議だ。
羽根ペンもインク壺も、買ったときには特に使い道がなかった。
働いているエリを冷やかすつもりで店に行ったのに、何も買わずに帰るのが気まずくなって適当に選んだ。まさかこんなふうに使うことになるとは思いもしなかった。
便箋は、エリの快気祝いにソンドレが贈ってくれたものだ。
エリは衣装戸棚の引き出しにしまいながら、「トールも好きなときに使ってください」と言っていた。ついこのあいだの出来事なのに、幻のように遠く思える。
製紙工場で働いていても、紙作りについては何も知らない。ロルフがやっているのは工場を動かす燃料を作ることだからだ。
それでも紙に関する噂話は聞こえてきたし、実際に売られている紙を見比べてみたこともある。
製紙工場が増えて、紙の値段はこの十年でだいぶ安くなったという。質の悪いものなら一束五枚で最安値、ロルフのような工場労働者でも気軽に買える。
ソンドレがくれた便箋の質はそこまで悪くないが、良質と言えるほどのものでもない。
あんまり高価だと気が引けるからそれでいいし、二十枚程度なのに箱付きだというところに善意を感じる。
(じいさんもまさか、こんな使い方をされるとは思ってなかったろうな)
ふと、背中に気配を感じた。
息を殺して振り向く。暖炉の火は小さくなっていて、ソファも照らせないほど弱い。そのわずかな明かりの影で何かが動いたような気がする。
背筋がゾクリと冷えた。
台所に続くドアは閉めていたはずだ。今も閉まっているだろうか?
玄関に誰か立っているんじゃないか? 床が軋んだのは気のせいか。さっき一瞬だけ笑い声が聞こえたような――
ロルフは
便箋が目に飛びこんでくる。へたくそな文字の羅列が急にばかばかしく思えて、手で覆った。
(いったい何を書くつもりだったんだ)
泥をつかむように握り拳を作った。書きかけの手紙がクシャ、と音を立てて皺になる。そのまま動きを止めて、ゆがんだ文字をしばらく眺めた。
フクロウが見ている。知恵と幸運を授けるという鳥が、過ちを犯して嘘をついたロルフを見ている。
手紙にも命があるなら、今その首を絞めているんだな、と変なことを考えた。なるべく音を立てないようにしながら、書きかけの手紙を両手で小さくまるめた。
ベッドを窺う。
寝息が聞こえてくる。エリが目をさますのは、いつも午前六時ごろだ。あと二時間もない。
闇が肩にのしかかってくるようで、重く感じた。
『ロッベンにあるクヌッセン家のお墓に行ってきたんだ』
ハリン警察署の刑事からそれを聞いたとき、やっぱり俺を捕まえにきたんだなと思った。
どうしようかと考える一方で、あの男の墓があると知ってほっとした。ちゃんと埋葬されたのか、気になっていたから。
『君のお母さんは鉄格子の中にいるよ』
そんなことあるわけないと思った。
だけど刑事の説明を聞いて、ああそうしたのか、と目の前が暗くなった。そうして思わず、自分の罪を認めるような発言をしてしまった。
母の罪は事実ではない。事実ではないし、真実とも違う。
(俺のためだ)
俺を逃がすため、生かすために、母さんは罪をかぶった。
それじゃあいったい何のために俺は逃げているのか。
積もった雪に足を取られた気分だった。前には進めず、後ろには自分の足跡が虚しく続いている。
母の気持ちはうれしかった。でも、そんなことする必要はどこにもなかったのに。
ここで逃げれば、母を見殺しにすることになる。かといって、戻れば自分が終わる。
(行き止まりだ)
ばかばかしい。ほんとに、ばかばかしい。
すべてを吐き出せば楽になれるだろうか。背負った罪が何のためなのかをあらいざらい言えば、この苛立ちも、悔しさも、投げ捨てたいほどの悲しみも、少しは報われるだろうか。
エリにすべてを吐き出すつもりで手紙を書きはじめた。けれど、このまま書きつづけてもただの懺悔になるだけだと気づいた。だから握りつぶした。
神の赦しなんて、あるはずもない。結局すべてが虚しい。救いなんてどこにもない。
女子修道院で育ったエリにさえ神様とやらは冷たいじゃないか。自分なんてなおさら、見向きもされないはずだ。
後悔はしている。それはもう何度も。
雑巾が顔に張りついたみたいに生臭い罪悪感を吸いつづけている。こうなったのはすべて俺のせいだ、という気持ちがぬぐえない。あれからずっと。今も。たぶん死ぬまで。
だけどそれでいい。背負う覚悟もなしに始めた旅ではないのだから。
(終わりにしよう)
数時間前のことが頭に浮かんだ。
気怠い苛立ちをぶら下げてアパートに戻ったとき、出迎えてくれたエリは驚いていた。釈放のことを知らなかったらしい。まんまるに見開いた目で見つめられた。
ロルフは「無罪放免」と、ひとことで説明した。エリはすぐに涙を浮かべて、それでも泣くのをこらえるように頬をゆがめて、笑った。
「おかえりなさい」
その言葉が胸を打った。
面会にあの刑事が来たとき、ロッベンから自分を追ってきたのかもしれないとすぐに考えた。
エリは刑事といつの間にか通じていて、「盗みまでしたならもう逃げるのをやめましょう」と諭しに来たのかと思った。
でもそうじゃなかった。エリは信じてくれていた。
こうして無事に帰ったことも、泣くほど喜んでくれる。エリの声は温かくて、それだけで、まるで両腕をひろげて迎えられたような気持ちになった。
(なくしたくないな)
もっと一緒にいたい。本当に人生をやりなおせたら、よかったのに。
(だけど終わりにしなくちゃ)
この旅に出口なんてないんだから。
ここにはエリをかわいがってくれる人がいる。あのじいさんは、たぶん今後も助けてくれるだろう。自分がいなくなってもエリは生きていける。
ロッベンに連れて行くつもりなんてなかった。
どうせ待っているのは死刑だ。こんな自分を支えようとすればするほど、エリはつらくなるはずだ。これ以上の悲しい思いをさせたくなかった。
それだけじゃない。
エリのそばにいればいるほど、まだ死にたくないと足掻きたくなってしまう。
生きることを選べば、母が犠牲になる。血のつながらない父親に続いて、実の母親も殺すことになるのだ。そんな未来を選んだ先に、どんな幸せもあるわけがない。
エリが用意してくれた夕食は、塩漬け肉とキノコのスープだった。
勾留中にも食事は出た。けれどおいしくなかったし、量も少なかったから空腹だった。エリが急いで作ってくれたスープは香りが立って、鼻から胃にまで流れこむようで、食欲をそそった。
釈放されるとわかっていればお魚を買いに行ったのに、と言われた。それはそれで食べたかったなと思いながら、「これでいいよ」とロルフは息をついた。
ゆっくりと、ていねいに味わった。エリの料理を食べるのはこれが最後だから、食べ終わってしまうのが惜しかった。この味をおぼえておきたかった。
「聞きたいことがあるんです」
夕食の途中でエリが言った。
「トールは、ロルフさんなんですか?」
包丁を突きつけられた気がした。あの日、あいつの腹を刺した包丁が自分に向けられているような、錯覚。あるいは幻覚。
動揺を気取られないように無表情を作り、手を止めてエリを見た。
「ゲオルクさんが、言っていたんです。わたしを捜してたって。父が亡くなったのを知らせに……それで、息子の名前はロルフ・クヌッセンだと言ってて……」
エリの説明は言葉足らずで、歯切れが悪かった。迷うように視線を動かしながら、こちらの様子を探っている。
(――あの刑事)
舌打ちしたくなったものの、嘘の露見は最後にふさわしいとも思った。
どうせならエリに嫌われたほうがいい。自分がいなくなったあと、あんなやつどうでもいいと切り捨てて、忘れてくれたほうがいい。
「そうだよ」
あっさり肯定したら、エリの顔は奇妙にゆがんだ。泣きそうで泣かない、さっきとはまた別の、傷ついたことを隠そうとする微笑み。
騙されていた、裏切られた、そんなふうに思っているのかもしれない。
「だけどその名前は捨てた。だからおまえと会ったのはトールだ。名前なんて、たいしたことじゃないだろ」
そうやって突き放す言い方をすれば、エリが退いてくれるのを知っていた。
案の定、エリは追及してこなかった。けれど暖炉に照らされた微笑はやっぱり泣きそうで、ロルフは目をそらした。名前を偽った理由までは語りたくなかった。
ヘンドリーが死んで、家を飛び出したあと、しばらく森をさまよった。
眠れないのは空腹と緊張のせいもあったと思う。けれど一番の理由は、耳元でささやくヘンドリーの声だった。
――ごめんなあ。
風が吹けば、ヘンドリーの息かと錯覚した。
小枝が腕に当たれば、包丁から伝わった肉の感触が手によみがえった。
雨が降って土の匂いが強くなると、血の生臭さが鼻にまとわりついた。ぜんぶ夢ならいいのにと何度も思った。
――だけど、助けてくれればよかったのに。
歩き疲れて、木々の隙間から空を仰いだ。夏の終わりの、見納めの青空。
棒切れみたいに突っ立っている自分が何をしたかも、どんな気持ちでいるのかも見透かすように圧倒的で、それでいて知らんぷりしている冷たい空だった。
(俺のせいで)
幽霊でも、幻聴だとしても、きっと死ぬまでつきまとってくる。そう思って、むしゃくしゃした。
別れ際の母の言葉を思い出したのは、そのときだ。
『ヘンドリーには娘がいるのよ』
そうだったな。娘、いるんだった。
生きてるかな。
どう思ってるんだろう、父親のこと。憎んでるかな。忘れてるかな。
女子修道院だっけ。会えるかな。ぜんぶ話したら、何か言葉をくれるかな。
会ってみたい。話を、したい。誰か、何か、言葉を。
気が狂いそうだった。心を支えてくれるなら、何でもよかった。たまたま思い出したのがエリのことで、いちど頭に思い浮かべてしまえば、もうエリのことばかり考えていた。
目的地のない道行きに、キンネルという目的地を作った。
そうすることで、狂いそうなギリギリの精神を繋ぎ止めた。エリ・アーベルという存在が、たったひとつの光に思えていた。
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