挿話『1855年10月 受付係ソフィの来客応対』
ソフィは反射的に笑顔を振り向けた。
朝の忙しさが一段落して、これから遅い朝食でも取ろうかというときだった。ひとりの男が扉を開けて入ってきたのだ。
つば付きの黒い帽子と、温かそうなロングコート、丈夫そうなブーツ。客の懐事情は身なりを見ればおおよそわかる。この男はそこそこ裕福な部類だろう。
男は青い目でソフィを見つめ、にっこりと笑窪を作った。
次に、聞き慣れない地方の名前を出し、コートの襟の内側をさりげなく見せてきた。裏打ちされた毛皮に埋もれそうだが、警察であることを示すバッジが輝かしい。
「はあ。そんな遠いところの刑事さんが……あ、休暇ですか?」
休暇ならばバッジは見せまい。休暇なのに見せびらかしているのなら偽物の警官だ。
それなら適当にあしらって追い出すところだが、バッジが本物で、この男も本物の警官だとすれば、そうもいかない。
ああ嫌だ。どうか面倒なことになりませんように。
「最近、ロルフ・クヌッセンという名前の少年が来ませんでしたか?」
「さあ……どうだったかしらねえ」
記憶にはない。ソフィは手元の台帳をぱらぱらとめくった。
「ロルフ……クヌッセンさんねえ」
「もしかしたら、女の子と二人連れかもしれません」
「同じ年頃のカップルかしら」
「いえ、ロルフ・クヌッセンは十八歳、女の子は十三歳で、名前はエリ・アーベル」
「エリ・アーベル」
名前を唇でなぞって、ソフィは首をかしげた。
聞いたことがあるような気がする。手繰り寄せた記憶の中に、少年と少女の二人組が現れた。
再び台帳をめくる。さっきとは違い、指がきびきびと動いた。
「あった。エリ・アーベルさん。先月ですね、うちに泊まったのは。でも連れの男の子は名前が違いますねえ」
「何て名前ですか?」
刑事が身を乗り出すようにして台帳を覗きこんでくる。ソフィはよく見えるように台帳を反対にし、指で示してやった。
「ここ。トール・アーベルさんですよ。兄妹だと言ってましたね」
「トール……?」
眉根を寄せてつぶやいたあと、はっとしたように刑事は目を見開いた。
ソフィは内心で溜め息を漏らす。ああやっぱりあの二人、ただの兄妹じゃあなかったんだわ。
「二人とどんな話をしましたか?」
刑事の青い目が性急そうに光る。
ソフィはおぼえている限りのことを話した。妹を女子修道院まで連れて行く兄、その兄に従うおとなしい妹、ちぐはぐな身なりの二人。
いくつか質問されたが、わからないことは正直にわからないと答えた。あの二人がここからどこへ向かったかなど、ソフィは知らない。
刑事は感謝を述べて微笑んだ。用は済んだとばかりに身をひるがえす。
「あの、刑事さん」
「はい」
振り返った刑事にソフィは尋ねた。
「あの二人、やっぱり本当の兄妹じゃないんですね? いえね、細かい事情は結構ですけど、そこだけ気になるので」
どうやらこっちに面倒がかかることはなさそうだけど、空腹を我慢してつきあったのだ。せめてそれくらいは教えてくれたっていいだろう。
ロルフ・クヌッセンとかいう人物とトール・アーベル、そして兄妹だと名乗ったあの二人の関係がどんなものか――あとは勝手に想像して話のタネにするからさ。
刑事は人当たりのいい笑顔で答えた。
「いえ。兄妹ですよ」
「はあ……」
あやしい、と思った。
おそらく刑事は真実を隠した。なぜなら刑事の目は少しも笑っていなかったからだ。
(教える気はないってことね)
まあ、いいわ。どうせもう会うこともない二人だろうしね。勝手に幸せな結末を想像しておくとします。
だって、あのかわいらしい「妹さん」と、癖毛の「お兄さん」に、悲しい未来が待っているなんて気分が悪い。
あの二人、別れ際にわざわざお礼を言ってくれてさ、そのときの笑顔がほんとに素敵だったんだもの。
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