第三十七話 ゴマメの歯軋り
全身が冷たい清流の水に濡れ、目も虚ろな椎は、アパートの玄関に立ったまま中に入ることを躊躇していた。部屋に入って床を濡らすのを遠慮している様子。
オイルの垂れる部品を手にしたまま平気で部屋に入ってくる礼子よりマシだと思った小熊は、猫を掴むように椎のジャージの襟を持って部屋に入れた。椎は慌てて靴を脱ごうと足を摺り合わせている。
椎は通学や休日のお出かけで履いているトップサイダーの布製デッキシューズを何とか足から外し、玄関前のスペースに蹴りこんだが、それで体力を消費したらしく、その場に座り込む。
湯沸かし器のスイッチを入れてからユニットバスに入った小熊は、蛇口を捻ってバスタブに湯を落とした。それから自分で服を脱ぐこともできない様子の椎にバンザイさせて、ジャージとシャツをひっこぬいた。ズボンとパンツも脱がせる。意外と難物だったソックスを力任せに引っ剥がした。
寒さで朦朧とした状態の椎は、意識や感覚の伝達がだいぶ遅くなっているらしく、今さら自分が裸にされたことに気づいた。椎は純粋な陶土を焼き上げて作ったような白い肌を隠したが、もう赤面するだけの体温は残っていない様子。
小熊は椎の体を持ち上げ、湯が溜まり始めたバスタブの中に置く。
椎は小さなお尻をお湯に漬けた時「冷たっ!」と言った。そういえば小熊も冬の雨で全身濡れて帰った時、熱い風呂を沸かして入った瞬間、冷たいと思った。人間の感覚というものはそんなものなのかもしれない。
「服は洗濯しておく、シャンプーとシャワーソープはこれで我慢して」
小熊はそれだけ言ってユニットバスを出る。椎が消え入りそうな声で言った。
「ありがとう……ございます」
こんな寒い夜に大荷物を川から引き揚げ、ここまで運んだ。感謝されてもいいようなことをしたんだろうけど、小熊は誰かに礼を言われるのが苦手だった。基本的に他人に感謝や謝罪というものをしない礼子は論外として、椎にそんなことを言われてもどう答えればいいのか困ってしまう。
とりあえず小熊が何か困った時、いつも助けてくれる者に今回も任せることにした。
「礼を言うならスーパーカブに言いなさい」
解凍される肉のように、蛇口から流れる湯を体に流した椎が少し人心地ついた様子なので、小熊はユニットバスから出た。
さっき脱がせた椎のジャージと下着を拾い集めた小熊は、まとめてスーパーのレジカゴに入れて玄関ドアを開ける。アパートの前住人が置いていった洗濯機のフタを開け、、寒さをこらえながらカゴの中身を洗剤と共に放り込んだ。靴もキャンバス布製なので一緒に入れ、お急ぎ洗濯モードのスイッチを押す。
回り始めた洗濯機を背に、空のレジカゴを持って部屋に入ろうとした頃合で、改造マフラーの太い音が聞こえた。
小熊が振り返ると、礼子の姿が見えた。礼子は片手でハンターカブを操りつつ、もう片方の手でアレックス・モールトンの自転車を担いでいる。
ハンターカブを駐輪場に停めた礼子が、自転車を担いだまま小熊の前まで来た。それからフライトジャケットのポケットに手を突っ込み、中からスマホを取り出す。小熊も見覚えのある、水色のカバーが付けられた椎の携帯。
「こっちは無事だった」
それだけで小熊は、礼子がここまで担いできた椎の自転車の状態を察した。
礼子が駐輪場に停めた自分のハンターカブに立てかけるように、モールトンの自転車を置く。普段礼子がハンターカブに触れる時のような、手荒くも走行性能に直結する部分には負担を与えない、移動機械を扱う仕草ではない。それよりずっと丁寧な、死者を悼むような手つき。
椎の自転車は、死んでいた。
小熊は自分の部屋を親指で指し、礼子を招き入れた。
小熊が部屋に入ると、ユニットバスからは椎が体を洗う音が聞こえてくる。小熊は自分の着替えの中から、最近ツナギのスキーウェアでカブに乗るようになってからインナーとして買ったスウェット上下を出す。
色は椎があまり好まないであろうグリーンだったが、そこは我慢してもらうしかない。
ユニットバスのドアを開けた小熊は、トイレスペースの棚にスウェットを置きながら言った。
「これを着て」
ボディブラシで体を洗っていた椎が悲鳴を上げて体を隠す。温かい風呂で低体温の状態を脱したらしく、顔を赤らめながら頷いた。
椎に着替えを渡した小熊は、部屋に入るなり床に寝っ転がっている礼子を踏んづけて台所に行き、三人分の夕食を作るべく鍋を出した。
風呂から上がった椎がスウェット姿で出てきた。ドアを開けて小熊にぺこりと頭を下げる。
入れ替わりで遠慮というものを知らない礼子がその場で服を脱ぎ始め、まだ温かいユニットバスに入った。小熊は湯上りの着替え用に、礼子が小熊の部屋に置きっぱなしにしている整備用ツナギを出してユニットバスに放り込んだ。以前礼子を泊めた時のように、濡れた裸のまま着替えを探して、あちこち引っ掻き回されたらたまらない。
何て言おうか困ってる様子の椎が、小熊の手元を見て表情を変える。ちょうど夕食の蕎麦を茹で始めた頃合で洗濯が終わったため、椎の着ていた物を部屋に干しているところだった。
水色のジャージとシャツ、靴下とデッキシューズ、それから水色のブラトップとパンツ。
顔を真っ赤にして小熊が手にしているパンツに手を伸ばした椎は、借り物のスウェットが大きすぎたらしく裾を踏んづけて転ぶ、椎は鼻を押さえて立ち上がりながら言った。
「あの、それ、自分でやります」
小熊が渡したパンツとブラトップををひったくるように取り返した椎が、両手に持ったままどうしようか考え込んでいたが、とりあえず見えないようにしたかったのかスウェットのポケットに入れようとしたので、小熊が話しかける。
「濡れたパンツで帰るつもり?」
あれこれと迷い、羞恥とかいろんな感情を秤にかけていたらしき椎は、観念したように小熊から洗濯挟み付きのハンガーを借り、できるだけ目に入らない玄関前にパンツとブラを干した。
「この部屋は冬の間、乾燥するから、明日の朝までには乾いている」
そう言いながら小熊は、礼子から預かったスマホを椎に渡した、椎はスマホで家に電話をかけ、親に心配をさせぬよう言葉を選びつつ、自転車で川に落ちたこと、服が濡れたので小熊さんの部屋に泊まっていくことを告げている。
小熊は夕食の準備を進めた。めんつゆにカレールーを溶かし蕎麦と具を入れた、カレーうどんを蕎麦にしたカレー南蛮。三人分をテーブルに並べた頃、礼子が風呂から出てくる。
「服にカレーがつく」
そう言った礼子が裸のまま箸を手に取って食べ始めようとしたので、小熊はせっかく自分が用意してあげたツナギ服を礼子の顔に叩き付けた。
既に整備作業であちこち汚れているツナギを見た礼子は納得した様子で、ツナギに袖を通す。椅子は三つ無いので、小熊は普段自分が座ってる椅子に椎を座らせ、自分は屋外での作業の時に座るビールケースを持ってきて腰掛ける。
カレーの匂いに食欲が沸いたらしき椎が手を合わせて「いただきます」と言った後、箸を取って蕎麦を息でふぅふぅ冷ましている、礼子は部屋の冷蔵庫から勝手に出した作り置きのゆで卵を剥いて、椎のカレー南蛮に放り込んだ。
自分と小熊の分までゆで卵を剥いた後、礼子はカレー南蛮を啜り始めた。普段は学校のお弁当でよくパスタを食べている椎は、ラーメンや蕎麦のような啜って食べる麺類に慣れていないのか、少しずつ箸で巻いて口に運んでいる。
小熊と礼子、椎はしばらく何も言わず、蕎麦を啜り続けた。体が冷えている時は温かい麺類がいいだろうと思って小熊が用意したカレー南蛮を、椎も気に入った様子で、一口麺を食べては、カレー味の汁を飲んでいる。
夕飯はあっという間に終わった。小熊が皆の食器を集めていると、デザートの青リンゴをすっぱそうな様子で齧っていた椎が立ち上がった
「あの、わたしがやります」
小熊から食器を受け取った椎は、流しで洗い物をするには踏み台が必要じゃないかと思うくらい小さな体をうまく使い、小熊より手際よく食器を洗った。洗い物が終わったらそうするのが当たり前といった感じで台所周りを綺麗に拭いている。
イタリアン・バールのバリスタに憧れている椎は、客の前でコーヒーを出す表の仕事だけでなく、裏方の厨房仕事についても手抜きなく学んでいるらしい。
礼子はリンゴを齧りながら、窓の外を見ていた。小熊と礼子のカブを停めた駐輪場のある方向。そこには、椎のアレックス・モールトンの自転車もある。
椎が洗い物を終えたタイミングで、礼子は言った。
「あのモールトン、もうダメだから」
川から引き揚げた自転車の状態については、椎が風呂に入っている間に小熊も聞いていた。普通の自転車より細いフレームの組み合わせで出来たモールトンの車体は、転落時に強打したらしくフレームのあちこちが曲がり、破断していた。
フレームの次に高価な変速装置も変形していて、前後輪もリムが曲がり、いずれも修理修復が出来ない状態。
椎の自転車は完全に壊れていた。道から転落した時に、自転車が受けたダメージを椎の体が食らっていたら、今ごろ椎がどうなっていたかはわからない。
椎の目に、一筋の涙が流れた。やがて椎は声を殺して泣き始める。
あの自転車は椎が父親に押し付けられるように貰って乗り始めた物で、最初は愛着なんて無かった。でも、イタリアンバールのバリスタに憧れていた椎が、高校に入ってから夢を叶えるべく動き出した時、両親の車に頼らずとも日野春や韮崎の駅まで行けるアレックス・モールトンの自転車は、椎にとって自分の願望を実現させてくれるものだった。
「冬なんて……嫌いです……なんでこんなに寒いんですか」
椎は自分の小さな体を抱きながら泣いている。失った自転車のことじゃない。自分と自転車を冷たい川に落とし、死の危険さえ垣間見せた南アルプスの冬に悲嘆していた。
椎は小熊の体にすがりつきながら言った。
「お願いです、小熊さん、今すぐここを春にしてください、スーパーカブは何でも出来るんでしょ?この冷たくて暗い冬を、どこかに消してください」
小熊は椎の髪を撫でながら言った。
「カブにそんなことは出来ない」
スーパーカブは移動機械で、気象を操作することなど可能なわけがない。それでも椎は小熊の胸で泣きながら「お願いです」と繰り返した。
何も言わず椎を見ていた礼子は、窓の外を見た。椎を泣かせた暗く寒い空を睨み付けた。
結局、椎はそのまま泣き疲れて眠ってしまった。部屋に泊まった時は夜遅くまで騒がしい礼子も、今日は口数少ない様子で床にシュラフを広げて眠った。ベッドに入った小熊は、自分に抱きついて離れない椎に布団を掛け、目を閉じて寝ようとした。
疲労し消耗していたが、小熊は明け方まで眠れなかった。
椎の言葉が耳に残り、繰り返し頭の中で反響する。その時の自分がなんて答えたのかを思い出した時、自らの頬を殴りたくなった。
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