第二十二話 氷の中

 翌朝目覚めた小熊は、皮膚感覚に意識を集中してみたが、体感温度は昨日までとさほど変わらなかった。

 布団の中では何もわからないと思い、ベッドから体を起こしたが、エアコンのおかげで寒いという感覚はない。

 奨学金暮らしになってから住むようになった日野春駅前の工場勤務者向けのアパートに、集中エアコンは不似合いだと思ったが、夜に寝て朝起きて昼に働く人間ばかりではない入居者たちには、シャッターを閉めれば外が真っ昼間であることを忘れて眠れる環境も、必要な設備なのかもしれない。

 厳寒のパリで布団に椅子や机を乗せて眠ったキュリー婦人のような思いをしなくて済むのはありがたいが、今はこれから走らなくてはいけない外の気温を知らなくてはいけない。

 パジャマにライディングジャケットを羽織った小熊は、玄関を開けて外に出た。

 

 外気温は天気予報で聞いたほど低いとは思えなかった。夕べ放射冷却を起こした空は晴天で日が照っていて、温暖なようにさえ思えてくる。ただ、口中の乾きで湿度がだいぶ下がっていることに気づいた。

 室内から外に出て間もなく、まだ体温が暖房に慣れている間、人間の肉体はそんなに寒さを感じない。それは関東に近い山梨でも北極でも同じこと。まだ冷気を感じ取れない皮膚の替わりに、小熊の視界に入ったものが、今朝が昨日までと違うことを教えてくれた。

 アパートの玄関から見える位置にある駐輪場に停めていた小熊のカブが、白い霜で覆われていた。

 

 室内に戻った小熊は、朝食と昼の弁当の準備を始めながら考えた。真冬並みという今朝の冷え込みについては、昨日ラジオで聞いて知っていたが、結局何の対策も思い浮かばず寝てしまった。 

 防寒対策といっても、制服の上に着られるのは、昨日までの初冬の気温で何とか間に合っていた一枚布のライディングジャケットのみ。去年までの自転車通学で真冬に着ていたコートはあるが、丈が長く襟が緩く、カブで走る時の風圧に耐えられそうもない。

 メスティンの角型飯盒で昼に食べる米を炊きながら学校の準備を済ませ、朝食のトーストとゆで卵、リンゴ、インスタントコーヒーを作った小熊は、ラジオを聴きながら食べ始める。ニュースでこの冬一番の冷え込みと言われて頭に来たが、まだ自分が朝から学校に行く身なだけましなんだろうと思った。

 礼子が以前、夜間の配送バイトをしていた頃、これから仕事に行こうという時にスマホで見た天気予報で、今夜は冷え込むので暖かくしてお休みくださいと言われた時は、そのままスマホを叩きつけたくなったらしい。


 朝食を口に運びながらあれこれと考えていても、さほど良い対策は思い浮かばなかった。せいぜい制服ブラウスの下に、長袖の下着を着けるくらい。

 学校に行く時間が迫っている。制服を身に着けてライディングジャケットを着込み、ディパックを手にした小熊は、ヘルメットを被りながら外に出た。駐輪場のカブにキーを挿し、キックレバーを踏みおろすが、エンジンはかからない。

 小熊は初夏にこのカブを買って以来初めて使うチョークレバーを引いて、もう一度キックした。エンジンが少し咳き込みながら始動する。

 チョークを戻してエンジンを暖機運転させながら、カブについた霜を雑巾で擦り落とす。バイク全体に被せるカバーが必要かもしれないと思った。

 あんな物は走っていれば傷のつくバイクを綺麗に維持したい人間が使う物だと思っていたが、冬の間は実用品。また出費が嵩むと思いながら、滑り止め軍手を着ける。手だけはハンドルカバーで防寒出来ている。


 エンジン音が落ち着いてきたので、小熊はディパックをカブ後部のボックスに放り込み、ライディングジャケットのジッパーをのど元まで締める。

 この寒さへの備えはほとんど出来なかった小熊は、今までカブに乗っていて最も多く用いた対策法で乗り切ることにした。

 我慢して走る。それしか無い。

 停止しているカブに跨りながら準備をしている時には、耐え難いほどの寒さは感じなかった。学校までは二km少々の距離、せいぜい十分程度の寒さくらい乗り切れるだろうと思った小熊は、カブで走り出した途端、自分の甘さに気づいた。

 走行風に晒され、体感温度が大幅に下がる。大きめのサイズのライディングジャケットの中を風が吹き抜け、クラシックスタイルのジェットヘルメットとゴーグルでむき出しになる口元から布製のバッシュを履いたつま先まで、体全体が寒い。

 昨日までの寒さでは劇的といっていい効果を見せていたハンドルカバーも、中まで冷気が染み込んでくる。


 カキ氷の中を泳ぐような思いをしながら学校に辿り着いた小熊は、駐輪場にカブを停める。普段は居心地いいと思えない学校だけど、今は早く暖房の利いた教室に入りたい。

 礼子も少し遅れてハンターカブでやってきた。オフロードヘルメットにフライトジャケットで、小熊より少し暖かそうな格好の礼子も、全身を震えさせていて、手がかじかんだ様子でキーを抜くのにも苦労している。

 小熊と礼子は早足で教室に向かう。二人とも一言も発しない。今何か言おうにも震え声になるだけ。

 お互い言わなくてもわかっていた。これから本格的に寒さへの備えをしないと、この冬をカブで越えることは出来ない。

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