第二十一話 天気予報

 無料のコーヒーと軽食に釣られ、思いがけず椎の家に長居した小熊は、夕食へのお誘いを謝辞して礼子と共に店を出た。

 外まで見送りに来た椎は、店内では自分と同じブレザー制服だった小熊と礼子が、カブの後部ボックスに放り込んでいた赤と緑のライディングジャケットを着て、白と黄色のヘルメットを被っている姿を興味深げに見ている。

 小熊たちにとってはカブに乗る前にそうする、いつもの作業に過ぎない行為に、ヒーローの変身シーンを見るような目をしている椎に、小熊は特に意味も無いが自分が思ったことを言った。

「それがあると、教室と違って見える」

 椎は小熊が指差した緑色に水色の刺繍の入ったウエストエプロンを見た。バリスタに憧れていた彼女が、家のカフェを手伝う許可を貰って真っ先に買ったもの。


 少しだけ嬉しそうな、誇らしげな顔をした椎はウエストエプロンのポケットから何枚かの紙片を取り出して、小熊に押し付ける。

「これ、私のエスプレッソの無料チケットです!また来てください」

 百円ショップの名刺シートに印刷されたチケットの束を受け取った小熊は礼を言い、気の利いたライディングジャケットには必ずついている高速券用のポケットに押しこむ。

「椎ちゃんわたしはー?」

 礼子が横から手を伸ばしてきた。椎は空っぽになったポケットを見せながら言う。

「明日の朝も来るんでしょ?その時までにプリントアウトしといてあげる」

 礼子が椎を指差し、絶対だからねと念を押している、小熊はカブのエンジンを始動させた。

 椎はカブのほうにはそれほど興味を抱いていない様子。学校から二kmに満たぬ緩い坂の通学路、モールトンの自転車があれば充分らしい。

 

 小熊と礼子はBEURREの看板が架かったチロル風の店を出た。帰路が反対方向の二人は各々違う方向へと走る。

 最近購入したハンドルカバーが思いのほか優秀な防寒グッズで、他にもあれこれと散財したので、しばらく冬装備の買い物はしないし、小熊も礼子も二人でコーヒーを飲みなおすような関係じゃない。

 小熊はそのまま学校を通過し、いつもの通学路を通って家まで帰った。まだ陽が落ちるには早いが、木枯らしが吹き始める昼下がり、やっぱりハンドルカバーがあると寒さが苦にならない。

 アパートの前にカブを停めてロックした小熊は部屋に入り、着ている物を脱ぎながらラジオを点けた。

 テレビも無く携帯もネット非対応の小熊にとって、ラジオは唯一の情報取得手段。今は気象通報をやっていて、アナウンサーが全国の観測所から入電した気温気圧の情報を読み上げている。

 ラジオが流す音楽が好きだけどお喋りを聞きたいとは思わない小熊が、時間の都合が合う限り聞いている数少ない音声主体の番組で、いつも終わったらさっさと音楽番組に切り替える。


 今日も小熊は、選曲不要で、メモリーに入った範囲のシャッフルしか出来ないプレイヤーの類ではなく、各局の膨大なライブラリーから選曲され流れるラジオの音楽を聞きながら、授業の予習復習や家事を済ませようと思ったが、その日はラジオのチューニングダイヤルに触れず、そのまま地元の天気予報を聞いた。

 バイクに乗っている人間にとって、出かける時間の天候と気温は重要な意味を持つ。雨が不可避ならレインウェアを用意するか、バイクで行動する事を諦めるのか決めなくてはいけない。

 今はどの花が見ごろだとか、どうでもいいお喋りを聞き流した小熊は、アナウンサーが明日の天気を読み始めたところで耳を傾ける。

 きっと今日も翌朝は零度近くまで下がるという予報を聞いて、明日バイクで学校に行くのが憂鬱になるんだろうと思っていたら、予想気温が読み上げられる。

 

 気象予報士の言葉の信じるなら、まだ冬の始まりにも係わらず、明朝は真冬並みに気温が下がるという。放射冷却とか上空の寒気が原因だと言っている。

 初冬の頃には時々、こんな真冬の予行演習みたいな冷え込みが来ることがある。小熊は壁に架かったライディングウェアに指先で触れ、しばらく考えこんだ。

 出入りのバイク屋で貰った、裏地も何もない布一枚のスイングトップジャケット。気温は平年並みならば昼間の防寒性能に不満の無いこの上着が、明朝の冷え込みに耐えられるとは思えなかった。

 小熊はとても頼り無い装備で、いずれ来る真冬を試食することとなった。

   

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