第三十八話 遠い春

 翌朝、乾いたジャージを身につけた椎と朝食を共にした。

 自家製アップルバター添えのトーストとハムエッグ、レタス、トマト、タマネギのサラダ、コーヒー。

 インスタントコーヒーを初めて飲むという椎は「とても珍しい味です」と喜んでいた。夕べ泣いてしまったことを誤魔化すように明るく振舞っている。

 朝食を終え、小熊と礼子は椎を家まで送り届けた。礼子が後部ボックスを外したハンターカブに椎を乗せ、小熊はアレックス・モールトンの自転車を担いで行く。

 椎の両親からはくどいほどの感謝を述べられた。やっぱり礼を言われるのは苦手だと思った、椎はその場で手書きした椎の家がやっている店、BEURREの年間コーヒー無料パスを小熊にくれた。椎の父がその場でパンとサンドイッチも無料と書き足す。毎朝ここで昼食のサンドイッチを買っている礼子は、溜まっていたツケをチャラにして貰い、飛び上がって喜んでいる。

 

 北杜の町を覆う寒々しい空と南アルプスの冷たい風が変わらないように、翌日からは代わり映えしない平穏な日々が続いた。

 椎は壊したモールトンの自転車の替わりに、家で誰も乗らないまま放置されていたママチャリで毎日学校に来るようになった。小径ロードレーサーのモールトンよりホイールの大きいシティサイクルの自転車が、椎に似合わない。

 毎日カブで通学する小熊と礼子、自転車で通う椎。ただ来て帰るだけの日常。カブはもう充分な寒冷対策が整い、冬の寒さや時々降る雪には対処出来るようになった。特に改善すべき問題も買う物も無い、カブで走っても寒くない。戦うべき敵はもう居ない。 

 小熊はもう何度目か、また夏を思い出した。あの短くも暑い日々は、毎日が新しい刺激の連続だった。

 椎はあれだけ頑張っていた自宅イートインスペースをイタリアン・バールにする計画を一休みしている。やはりこの寒さの中を出歩くのは危ないと思ったのか、小熊が進捗を聞いても、曖昧に笑いながら後でやりますと言うばかり。

 この地の寒さに抗うことを諦め、忍従するしか術が無いことを知った人間の寂しげな笑顔。

 

 牢獄の中のような日々を何度か繰り返しているうちに、三学期の期末試験が始まる。二学期はカブが絶えず与えてくれる刺激と変化があったせいか、予定調和の結果しかもたらさない学校の試験など負担にはならなかったが、今はいつも通りの試験勉強といつも通りのテストが重くてたまらない。着ている衣服の重さのせいだろうかと思った

 試験休みが始まり、小熊と礼子はどこに行くでもなく椎の家に集まった。店のイートインスペースで粛々と仕事をこなす椎との会話も弾むことはなく、コーヒーを一杯飲んだ小熊と礼子は店を出ようとした。

 今となっては遥か昔の別世界で他人が行った事のように思える、ほんの少し前、小熊と礼子が毎日のように挑んでいた冬と戦いに目を輝かせていた椎は、貼り付いたような笑顔で手を振った。

 店のドアを開けた礼子が寒々しい空を見ながら言う。

「早く春にならないかな」

 椎は店の前に並ぶ裸の街路樹を見ながら呟く。

「春になったら、ここに桜がいっぱい咲くんですよね」

 これから各々の家に帰り、価値の無い一日を終わらせる前の意味の無い会話。小熊は何も考えずに今朝ラジオのニュースで聞いたことを言った。

「鹿児島ではもう咲いた」

 九州や南関東より一週間ほど遅く咲く甲府周辺の桜。平年より開花が早い他県に比べ、今年の南アルプスは春の到来が遅れていた。

 三人が顔を見合わせる。互いの目は終わらない冬の寒さに疲れ生気の感じられない、会話は止まり、もう帰ろうかという空気になる。

 続いて礼子が発した言葉は、後になって思えば話の間を繋ぎたい思っただけの、意味も意図も、意思すら無いものだったんだろう。

「見に行こうか」


 自分のカブのシートを叩き、行けるわけないと言おうとした小熊は、あの夜、冬の寒さに涙を流した椎が言った言葉を思い出した、

 ~何でも出来るスーパーカブが、今すぐわたしを春にしてください~

 小熊は出来ないと言った。それは今でも変わらない。あの時感じた後悔の念も変わらない。冷たい氷柱のようにずっと胸に刺さり続けている。

「行ってみようかな」

 駆け寄ってきた椎が小熊の手を取り。自分の掌で包む。

「わたしも連れてってください」

 幼児のように小さな手は冷えきっている。この手を冷たいままにしておいたら、きっと小熊は自分のことを許せない。

 礼子がニヤリと笑い、店の前に停めたハンターカブの後部に取り付けられた郵政業務用ボックスを掌で叩いた。ちょうど椎が中に収まるサイズ。

 箱詰めがあまりお気に召さない様子の椎は恐れを成して小熊のカブにしがみつく。そこで椎は自分が川に落ちた時、小熊がカブの前カゴに椎を放り込んで走った時のことを思い出したらしく、飛び上がって悲鳴を上げた。

 冬のカフェで三人は決めた。この冬が終わらない限り自分たちは何も出来ない。このままでは冬に殺される。

 ならば三人で冬から逃げよう、

 今からカブで春を捕まえに行こう。

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