第三十二話 冬の果実

 礼子が差し出した梯子状の鉄鎖を、小熊は手に取った。

 タイヤチェーンと呼ばれる、積雪時用の滑り止め器具。

 降雪のあまり多くない山梨県ではバスやトラック等の業務用車両でしか見かけないが、スタッドレスが進化した今でも雪国の幹線道路では、しばしばチェーン装着車以外進入禁止の規制が行われる。

 小熊は礼子に教わりながら、雪かきされてコンクリの地面が露出したログハウス前に停めたカブにチェーンを装着する。タイヤに巻いた梯子状のチェーンをリンクで繋ぎ、チェーンに引っ掛けるフックの付いたスプリングを装着してチェーンを張る、簡単な作業。

 礼子が取り付けをチェックしているので、小熊も礼子のハンターカブに取り付けられたチェーンの張り具合を点検する。タイヤを空転させてみたところ、フェンダー等に当たることも無い様子。

「こんな物、どこで手に入れたの?」

 礼子は一刻も飛び出したそうな、プールサイドの子供のような目で答える。

「相模原の新聞屋が廃業するって聞いてね、カブのパーツでも手に入らないかと思って行ってみたけど、一足遅かったわ。車体やパーツは持っていかれてて、残ったのはこんな重いのに値の付かない物だけ」

 それがまさか翌日に役立つことになるとは思っていなかったような顔。礼子にしてみれば宝探しに行って財宝を手に入れそこね、替わりにガラクタを持って帰ったら、それが宝物に化けたような気分だろう。

 旧いカブを維持していれば必然的に縁深くなる中古屋やジャンク屋では、稀にそういうことがあるらしい。

 

 チェーンを巻く作業を終えた礼子は、さっさと自分のハンターカブに跨ってエンジンをかける。せっかく小熊が家に来たのに中でお茶さえ振舞おうとしない。小熊も、そんな物は望んでいない。

 小熊はカブをキック始動させながら、とりあえず自分が今、求めていることについて聞いた。

「どこに行く?」

 聞いてはみたものの聞くまでも無かった。礼子が指差した先、南アルプスの麓にあるログハウスから見上げた山は、一面の銀世界。

「もっと上に行くと、面白いとこがあるわよ」

 そう言った礼子は、ハンターカブの後輪から雪を弾き飛ばしながら走り出した。


 小熊はいつもとは勝手の違う雪道とチェーン付きのカブに自分を馴染ませるようにしながら。礼子のハンターカブを追った。

 礼子もそんなに飛ばしていない。小熊を気遣っているというより、こんな泥混じりのの汚い雪しか無い林道で自分のハンターカブの全開を味わうのは勿体無いといった感じ。

 別荘が住宅地のように集まった地帯。車一台分の林道には地元の人の車らしきタイヤの跡が残っていたが、標高が上がっていくに従って轍の跡は無くなる。小熊と礼子のカブは二本の細いタイヤ跡を残しながら、ひたすら山を登った。

 別荘地として開発されている南アルプスの裾野は勾配もそれほど急ではなく、チェーンを巻いた小熊のカブでもギアを二速に入れただけで充分に走ってくれた。それはカブに乗っている小熊の感想で、徒歩や車の人間にとっては心を折るほどの急坂なのかもしれない。

 雪国の郵便配達カブもこんなふうに、運送会社の四輪駆動車さえ配達を諦めるような雪の坂を登って郵便物を届けに来るらしい。メーカーもそのためにバッテリーの大容量化等の変更を施した寒冷地仕様のカブを発売している。


 朝方まで雪を降らせた雲と低気圧は去ったようで、澄み渡った空と降り注ぐ陽光が、雪の積もった森を輝かせる。夏の濃い緑で鬱蒼とした森も見ていて綺麗だと思うが、冬しか見られない雪化粧の森も、小熊を飽きさせることは無かった。

 礼子はハンターカブを操り、縦横に張り巡らされた林道を何度も曲がりながら登っていく。雪で景色が変わり、普段の目印にしている看板や建物の見えない林道で道に迷っているように見えた。迷うのが楽しくて仕方ないのかもしれない。

 唐突に広く開けた場所に出た。山の中腹近くの平原。適度な起伏のある地面は、純白の新雪で覆われている。

 そこが礼子の目的地だということは、嬉しそうな雄叫びを上げて走り出したハンターカブを見ていればわかる。小熊もそれまで林道の地面に合わせてコントロールしていたスロットルを全開に回す。

 人知れぬ雪原で、小熊と礼子のカブは二頭の獣のように駆け回った。


 チェーンを巻いたカブで走る雪の平原は、小熊にとって興味深い物だった。

 普段は事故に直結するタイヤの滑りを起こさぬよう、ブレーキとアクセルのコントロールには気をつけていたが、今日はわざと滑らせてみたりする。バランスを崩して転んだ、いや、転んでみた。柔らかい雪に受け止められてそれほど痛くない。カブもアスファルトに叩きつけられ削られた時みたいに傷つかない。

 雪面で反射する陽光越しに山を見た。遠くに人工雪のスキー場が見える。自然の降雪のおかげで普段よりコンディションのよさそうなゲレンデでは、豆粒みたいなスキーヤーが滑っている。

 森林が切り開かれ、やや傾斜した平原のあちこちに砂漠で見かける砂丘のような起伏のあるこの場所も、廃業、遺棄されたスキー場かもしれない。

 小熊はスキー場を見上げながら思った、回し車に乗ったハムスターのように、ゲレンデを滑り降りてはリフトで登ることを繰り返しているスキーヤーより、自分たちのほうがずっと楽しい。礼子はハンターカブで丘の上に登り、大回転の真似をしながら滑り降りていた。

 雪の中をカブで走っているだけなのに体が熱い。小熊はライディングジャケットとデニムを脱ぎ捨て、Tシャツ一枚でカブを走らせた、体から湯気が出る。喉が渇いたら、山に降る純粋な雪を口に放り込む。

 ひとしきり雪とカブで遊び、太陽が中空に昇った頃に昼食休憩を取った。やっぱり礼子は弁当を持ってきていなかったので、まだほんのり温かいメスティンの麻婆丼を分け合って食べる。タイヤチェーンの代金替わり。どうせ礼子もタダ同然で貰ってきたもの。

 

 昼食を終え、午後からまたカブで雪を滑り始める。ハンターカブに乗った礼子が隣に並び、小熊に言った。

「楽しい?」

「うん、楽しい」

 二台でのカブで並んで走りながら、雪の丘を登る。

「冬って楽しいわね」

 パワーで勝る礼子のハンターカブが、小熊のカブを追い越していく。

「カブがあれば、冬は楽しい」

 小熊もまっすぐ登ると失速しそうになる自分のカブを左右に蛇行させながら、坂を上る。

 二人のカブはマックィーンの映画のように、丘の上からジャンプした。数秒の間、大地から開放されたカブは地面に落ちる、そのまま横倒しになり、小熊と礼子も雪の上に転がった。

 礼子が雪玉を投げてくる。小熊は倒れた自分のカブを引き寄せてスロットルを回した。空転した後輪が雪を巻き上げて礼子に降りかかる。二人で雪まみれになりながら、冬にしか見られない蒼く澄んだ空を見上げて笑った。


 日が暮れて気温が下がり、雪が締まって固くなってきたので、小熊と礼子は下山する。二人は満ち足りた気分だった。

 寒さやそれに相応した出費で、小熊たちに負担を強いていた冬から、こんな払い戻しを受けることになるとは思わなかった。充分なお釣りが来たといってもいい。

 また明日からは、寒い思いをしながら通学や買い物をすることになるんだろうけど、冬のこんな果実を味わえるのなら、それも悪くない。

 帰路で礼子が思い出したように言った。

「そういえば来週から、期末だったよね」

 小熊も半ば忘れていた。カブに乗るようになる前は、自分にとって高校の定期試験は一大事で、それだけにいつも通りの勉強をすればいつも通りの普通の成績を取る予定調和のイベントに飽き飽きしていた。

 今は目前に迫った期末試験が、瑣末な事すぎて気にならない。必要なことを頭に詰め込んで必要なだけの点数を取る。そうすることがカブのある生活に繋がるなら、特に苦痛でも何でもない、人生に必要な刺激や快楽は、カブが充分すぎるほど与えてくれる。


 小熊と礼子は雪まみれの格好で椎の家に寄り、積雪のため一日中家にこもっていた椎から、自分を連れてってくれなかった恨み言と共に出された温かいコーヒーで一息ついた。

「今度わたしも行こうかな、自転車で」

 小熊はグラッパ入りのカプチーノを啜りながら言った。

「その時は一緒に行く」

 今日の山道と雪の平原は楽しかったけど、護岸工事などされていない天然の清流など、椎の小さい体が落っこちそうな場所はいくつもあった。礼子くらい無駄に大きい奴なら、ドブに落ちてもほっとけばカブを担いで自力で上がってくるんだろうけど、椎はそのまま流されてしまいそう。

 礼子が椎の頭をポンと叩いて言った。

「次は椎を乗せて甲斐駒の山を走り降りてあげるわよ、ちょうどいい専用席もあるしね」

 礼子が自分のハンターカブの後部に装着した、椎が丸ごと入りそうな郵政ボックスを指差すと、椎は顔を青くして小熊の後ろに隠れた。


 翌日から小熊と礼子、椎は申し訳程度の試験勉強を始め、期末試験は何事もなく終了した。

 小熊の二輪免許取得から修学旅行や礼子のハンターカブ購入、文化祭、椎のと出会い。そして冬の始まりを経て、高校二年の二学期が終わりつつあった。

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