第三十一話 マンボ
小熊がカーテンを開けて外を見ると、雪は夜中から降り始めたらしく、窓から見た地面が白く染まるくらい積もっていた。
初雪でいきなりこれかと思いながら携帯を見ると、学校からメールが入っていた。今日は休校になるらしい。
外の道路ではタイヤチェーンを巻いたバスが走っていたが、日野春駅から高校のある旧武川村中心部まで行くには通らなくてはならない、日野春七里岩の坂を降りられるかどうか怪しい。
ここ最近の装備追加で、冬の寒さを快適に乗り切る対策を施したカブでも、さすがにこの雪の中を走らせるのは無理だと思った小熊は、思いがけず休みになった今日をどう過ごそうか迷った。
いつもなら休みの日にはカブに乗って走っていた。冬を迎えて以来小熊を悩ませていた寒さの問題が解決したことで、ここ数日は今までにも増して走り回っていた。
今日はカブに乗れない。せっかく昨日、残り少ない有り金を払って満タンにしたばかりだというのに、やっと制したと思っていた冬が、またしても小熊の足を引っ張る。
パジャマを脱いでシャワーを浴び、Tシャツ一枚だけを身につけた」小熊は、狭いワンルームのキッチン前に立った。夕べ研いだ米がメスティンの角型飯盒の中で水に漬かっている。冷たいメスティンをコンロに乗せて火を点けた小熊は、食パンとインスタントコーヒーの朝食を用意し始めた。
焼かない食パンに自分でリンゴを煮て作ったアップルソースを盛り、甘いカフェオレと共に食べていると、携帯が鳴った。礼子からの電話。パンを頬張りながら着信ボタンを押した。
「すぐに来て!」
小熊は自分でも上手く出来たと思うアップルソースを味わいながら「イヤだ」と言った。カブに乗れないことで鬱憤の溜まった小熊は、誰かに八つ当たりしたかった。台所では火にかけられたメスティンが断続的に蒸気を漏らしている。
「いいから来て!すっごく面白いものがあるから!」
電話は一方的に切れた、同時にメールの着信音。椎が淹れてくれるカプチーノとは味も香りも比べ物にならないが、何かをしようという気力の沸かぬ朝にはちょうどいいインスタントのカフェオレを飲みながら、メールを開いた。
添付された画像を見た次の瞬間、小熊は立ち上がる。台所のコンロでメスティンが湯気を吹いた。
小熊から礼子の携帯に電話して、一言だけ伝えて切った。
「今から行く」
パンとカフェオレを口に詰め込んだ小熊は、着ていたTシャツの上にデニムジャケットとパンツ、ウールライナー付きの赤いライディングジャケットを身に着けた。携帯や財布をウエストバッグに詰めて肩に掛け、軍足の靴下を履く。
寝る時のも付けっぱなしのカシオのデジタル時計を見ると、メスティンのご飯が炊ける頃。コンロから下ろして百均の弁当保温バッグに入れた小熊は、スプーンとレトルトの麻婆丼を一緒に入れ、弁当袋一つを手に提げて玄関で革ショートブーツを履いた。
外出が午後までかかるなら、どこかで食べるものを買うような無駄金を使いたくなかったし、小熊は午前中で帰る気など無かった。
玄関から外に出ると、幾つかの足跡が残っている。工場勤務者の多い女性向けアパート、学校は休みになったがそうもいかない人間も居るんだろう。こんな雪の日にまで仕事に行かされる勤め人が、足を引きずるように歩いた足跡を、小熊は軽い足取りで踏み潰しながら自分のカブに向かった。
外はもう雪が止みつつあり、青空も覗いている。気温もそれほど低くなく、カブに積もった雪は凍りつくことなく手で払っただけで落ちた。
チョークを引いてエンジンをキック始動し、ヘルメットを被る。雪で濡れることを考えて革手袋じゃなく木綿の滑り止め軍手を嵌めた小熊は、カブに跨って雪の積もった道に出た。
融けかけのシャーベット状になった雪に、車のタイヤの跡がいくつも刻まれた道路をカブで走るのは、意外と難物だった。
アクセルを開けるとタイヤは滑り、ブレーキをかけても滑る。駅から甲州街道へと伸びる日野春七里岩の坂を、両足を地面に下ろしながらゆっくり降りたが、途中で何度も転びそうになってヒヤリとさせられる。
坂を下りるカブのリアタイヤが、ブレーキをかけるたび左右に流れるのを両足で抑える。悪路やサーキットでこうやって後輪が不安定になる様を、旧いバイク乗りはマンボを踊ると言うらしい。小熊はマンボという言葉自体は知らないが、どういう踊りかは何となくわかった。こうやって腰を左右に振るんだろう。また車体が横に蹴っ飛ばされそうになって足を踏ん張る。
女子としては中背の小熊は、夏に中型二輪の免許を取った時に、今はもう居ない母は自分の体格をもう少し大きいサイズで産んでくれたら良かったのにと思ったが、カブに跨って両足が地面につくくらいの身長があれば、生きていくには充分。
小熊は自分よりだいぶ背の低い椎のことを思い浮かべた。あの子がカブに乗っても、きっと両足は地面に接することなくブラブラする。小熊のカブより幾らかシート高の低い特製のカブでも無いと、乗ることは出来ないだろう。
下り坂の緊張を紛らわせる考え事の途中で、椎は自分のアレックス・モールトンの小径タイヤ自転車を気に入っていて、カブに乗ることなんて無いだろうということに気づく。目の前には甲州街道と交差する横手交差点の信号。ここから礼子のログハウスまでは、ずっと上り坂。
日野春七里岩の下り坂に比べ、上り勾配の雪道は走りやすかった。下りではスピードを落とす時にブレーキをかけなくてはいけないが、上りはアクセルで速度をコントロール出来る。
タイヤのグリップも上り傾斜で後輪への荷重が増したことで好転した。さっきまで地面についていた両足をステップに乗せ、ギアを二速に入れっぱなしで順調に走る。
途中で椎の家の前を通る。チロル風のイートインベーカリーは今日も営業している様子で、椎の母の乗るフォードのトラックが停まっていた。椎の父が乗る旧式ミニは無い。所用で出かけたのか、それとも単に走りに行ったのか。
この実用小型車にしか見えないミニという車は、以前世界ラリー選手権で、雪の積もったコースで他の大型モンスターマシンをあっさり追い抜き優勝したことがあると礼子に聞いたことがあった。
いつもより少し時間をかけて、礼子の暮らすログハウスに到着する。もう外に出て準備を始めていた礼子が、小熊を見て笑う。砂場で遊ぶ子供のような顔。
ハンターカブの横にしゃがみこみ、後輪に何かを取り付けていた礼子は、昨日わざわざ隣県まで行って買ってきたというパーツを、自慢するように小熊に見せてくる。
こんな雪の日に小熊を呼び出した礼子が持っていたのは、スーパーカブ用のタイヤチェーン。
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