第十二話 バリスタ

 小熊と礼子がカブを駆使し、物資を運んだ甲斐あってか、クラス模擬店のイタリアン・バールは学園祭前日の実行委員会による審査を問題なくパスし、当日も近隣のパン屋から出来合いを買ってきたパニーニやブルスケッタ等の軽食が人気で順調な客入りを見せている。

 小熊が保険の予備案として思いつき、礼子が必要な物を手配したアーリーアメリカン風のサルーンも、準備段階で破綻したどこかのクラスが泣きついてきたらしく、アイデアと物資は無駄にならなかった。

 市販のパイに極彩色のゼリーを乗せ、震え上がるほど美味いという宣伝文句で売り出したチェリーとキーライムのパイが自慢のサルーンは、結構繁盛している様子で、クラスの学園祭参加生徒は商売敵に企画を提供したことを悔やんでいた。

 功労者の小熊と礼子はといえば、それらの盛り上がりに加わることなく、学園祭当日を単に通常授業より早く帰ることが出来る日として過ごした。


 小熊と礼子は他の学園祭非参加組と共に、昼前に帰り支度をして教室を出る。模擬店の仕事で忙しい生徒たちからは荷物を運んだ時に社交辞令的な礼を言われたきり。

 小熊としては仰々しい感謝で時間を浪費させられるより、何も言ってこないほうがありがたかった。小熊はクラスの他の生徒、特に学園祭でも何でも頑張ってるアピールの強い人間との会話が苦手だった。

 礼子も似たようなものらしく、教室を出た後も学園祭の催し物で飾りつけられた各教室を一瞥もせず、昇降口へと向かっている。


 二人でカブを停めている駐輪場に着いた時、小熊は口を開いた。

「先生が、往復のガソリン代を計算して申請しろって言ってた」

 礼子は溜め息をつきながら言う。

「あの先生もそうか。車やバイクがガソリン代だけで動くと思ってるタイプ」

 小熊には礼子の言いたい事がわかったが、同時にその意味を理解できる人間が世の中にどれくらい居るのかと思った。

 走行に必要なコストの安価なカブでさえ、オイルは定期的に金を払って交換しなくてはいけないし、それだけでなくタイヤやライト類の電球、走れば磨耗する各部品など、ガソリン以外に金と手間ののかかるところなんて幾らでもある。無論車両そのものの購入費用も。

 少なくとも礼子に関しては、それらの出費の多くが自業自得だと思いながら、赤いハンターカブを買って早々に装着したチタンのマフラーや、慣らし運転で早速転んで交換する羽目になったステップゴムを眺めた。


「往復で百円くらい」

 ここから甲府までの往復距離を、カブの燃費で計算するとそれくらいになる。百円玉一つのために放課後に残って申請用紙を書き、書類の些細なミスを見つけては突き返すという学生課の事務員相手に何度も提出をさせられるのは、労力を考えれば現実的とは思えない。

 礼子がハンターカブの上で体を反らしながら言った。

「コーヒー買おうとして自販機の下に百円落としたって思うことにするわ」

 小熊は自分なら自販機をひっくり返してでも回収すると思ったが、とりあえず今日のところはそうしようと思った。結局先延ばしになっているカブの冬準備など、今は放課後にやらなくてはいけない事が多い。


 カブのエンジンをキック始動させた小熊と礼子が、学園祭で賑わう校舎から逃げるように帰ろうとしたところ、誰かが小走りに駐輪場までやってきた。

 制服姿ではないが顔を知っている。小熊と同じクラスで学園祭実行委員会に所属している生徒だった。確か模擬店に軽食を提供したパン屋の娘で、小熊は名前すらうろ覚えだが、礼子とは顔見知りらしい。

「間に合ってよかったです。ごめんなさいちゃんとしたお礼が出来なくて。これ、私たちからの気持ちです」

 白いブラウスにスカーフ、ウエストエプロン、バリスタと呼ばれるイタリアン・バールの店員姿のクラスメイトは、ステンレスの盆で湯気をたてる二つのコーヒーカップを目の高さに翳した。 


 盆と共に差し出されたエスプレッソとカプチーノを見て、小熊は思わず吹き出した。礼子も笑っている。小銭を落としてコーヒーを飲みそこねたと思ったら、転がっていったコインを誰かが受け取ってくれたらしく、自販機の替わりにコーヒーをくれた。

 コーヒーを前に笑う二人を見て、女子生徒は訝しげな顔をしたが、小熊と礼子はコーヒーカップを受け取る。一口飲んだ。悪くない。

 カップもエスプレッソマシンも、お盆や目の前の女子の衣装まで、自分たちがカブで運んだ物だというだけで、甘くて苦いカプチーノがまるでカブから貰ったような気がして、美味しく感じた。

 胸の前にお盆を抱えた女子生徒は、満足げにコーヒーを飲む二人を見て安心の表情を浮かべている。

「みんな、二人に感謝しています。本当に、でも色々と忙しくて」

 小熊はその程度の礼なら言ってもらわなくても結構だと思ったが、とりあえずカプチーノをもう一口飲んで言った。

「これで充分」

 得をした気はしないが、損もしなかった。報酬はそれくらいでいい。

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