第二十八話 試乗

 椎の家を飛び出した礼子のハンターカブは、五分も走らないうちに目的地に到着した。

 そこは小熊もよく知っている場所。学校の近くにある信金で、小熊も奨学金が振り込まれる口座を持っている。

 小熊にはもうひとつの記憶があった。カブに乗り始めて間もない頃、そのままでは荷物を積めないカブに付ける箱を探していた小熊は、この信金で礼子の叔父貴だという課長から、廃車にする営業用スーパーカブから取り外したスチールの箱をタダで貰い、それを今でも使っている。

 信金前の駐輪スペースにハンターカブを停めた礼子が、ヘルメットを被ったまま店舗に入ろうとしているので、後ろから引っ張って脱がせた。

 下に高校制服を着ているとはいえ、礼子の格好は米軍現用のフライトジャケットにパラディウムのアウトドアブーツ。この上ヘルメットまで被っていたら強盗扱いされてもおかしくない。

 窓口が閉まる直前の信金には、礼子と顔見知りの窓口係が居て、課長を呼んでくれた。普段からATMで事が足りる程度の現金にしか縁の無い礼子が窓口に来る時は、何か武器を持っていれば強盗の用で、素手の時はお金以外の用件であることはわかっているらしい。

 小熊は生涯縁の無さそうな資産家向け投資商品を宣伝しているポスターを見ながら、自分も同じようなものだと思った。少し着古した自分のライディングジャケットを指先で摘む。

 まぁ、バイクに乗る時のウェアと将来銀行を襲わなくてはいけなくなった時に着る服を兼用できるのは、悪いことではない。


 やはり小熊や礼子には入る機会すら無さそうな店舗奥の商談室から、掃除用具の入ったバケツを片手に出てきた課長に、礼子はたたみかけるように用件を伝える。

「おじさん、カブに乗せて」

 気が急いて日本語能力の追いついていない礼子の替わりに、小熊が補足説明をする。現在自分たちがカブの冬対策に試行錯誤していて、ウインドシールドという優れた装備があると聞いたが、なかなか買う決心がつかないので、試しにウインドシールドの付いたカブに乗ってみたい事を伝えると、課長だという中年男性は理解した様子ながら、少し渋い顔。

「うーん、それは全然構わないし、それくらい慎重であるべきだと思うんだけど、今うちの営業車は出払っちゃっててねー、カブはあるにはあるんだけど」

 課長は歯切れの悪い様子ながら、小熊と礼子を店舗裏の駐車場に案内してくれた。確かに言う通り営業用の軽自動車もスーパーカブも見当たらない。そう思ったら営業バイクを停めるトタンの囲いの隅に一台あった。

 小熊のカブと色違いの青いカブは、後部にスチールボックスを付け、前カゴとハンドルカバーも付けられた、小熊のカブと同じような仕様だった、そしてハンドルの前には、透明な半楕円形のウインドシールドが付いている。

 

 見た目には特に問題があるようには見えない、どこででも見かける信金の営業カブ、課長が貸し出しを渋る理由は見当たらない。これから使う用でもあるのかと思っている小熊の横で、しゃがみこんでカブを見ていた礼子が課長に言った。

「これ、事故したでしょ?」

 課長はかなり頭髪の寂しくなった頭を掻きながら言う。

「やっぱりわかるか、うちの若い子がトラックにぶつけられちゃってね、フレームが歪んでる。倒れた時にオイルキャップが飛んでったらしく、そこからオイルが抜けてね、しばらくそのまま走ってたもんだから、ヘッドもシリンダーも駄目になっちゃって」

 礼子がエンジン下の地面に敷いた古い玄関マットに、オイル漏れの染みが出来ているのを見ながら言う。

「走れないの?」

「いや、近場を走る分には問題ない。でも音うるさいし煙吹くし、パワーも最高速もだいぶ落ちてる、どうせあと一年もしないうちに廃車だから、予備車として置いてるんだ」

 礼子は課長に手を出した。

「キーを」

 礼子を以前から知っているらしき課長は、諦めたようにプラスティックのタグのついたエンジンキーを渡した。


 礼子と小熊は、交代でウインドシールド付きのカブを試乗することとなった。確かに課長の言う通り、見た目と外装は綺麗なカブにはだいぶガタがきていて、エンジンは絶えずガチャガチャ異音を発てていたが、小熊が幹線道路に出て走らせてみたところ、最高速は小熊のカブの一割引きくらいながら、寒空と北風の中でウインドシールドの付いたカブがどういうものなのを知ることは出来た。

 課長に礼を言って信金を出た小熊は、ウインドシールドの付いていない自分のカブに乗りながら言った。

「どうする?」

 礼子もハンターカブに跨り、前へと手を伸ばして自分を風から守る物が何も無いことを確かめながら返答する。

「私はもう決めた」

 小熊も既に自分自身の心を決めていた。ついさっき、借り物のカブでアクセルを回した瞬間に。

「カッコ悪いって言ってた」

 礼子は自分のハンターカブにウインドシールドが付けられた姿を想像しながら言う。

「機能に優れたものはカッコいい、あんたも金無いって言ってた」 

 小熊はライディングジャケットの下、ブレザー制服のポケットに入れたガマグチ財布に手を伸ばしかけ、止めながら言った。

「明日から奨学金が下りるまで、米とレトルトだけでいい」

 礼子は「そう」とだけ言ってハンターカブで走り出す。バイクの世界では車体やパーツを買うために、しょっちゅうパンの耳だけの暮らしをする奴も珍しく無いことを、礼子は知っていた。


 二人で今日二度目となる中央市への道を走る。いつもはちょっと近所までといった感じで、何も考えずとも走れる道中。今は目的地まで遠い。寒いからではなく、欲しい物がその先にあって、今にも無くなりそうな気がしてしまうから。

 いつもこの道を走っていると真正面にそびえ立つ富士山や、南アルプスの麓から甲府盆地に入ると変わる気候も、今は頭に入らない。ただ道しか見えなかった。

 中央市の中古バイク屋に入った小熊と礼子は、さっきとは違う店員を捕まえて、ウインドシールドの在庫を問い合わせる。やはりこの店には無かったが、検索したところフランチャイズチェーンの他店舗で取り扱われていた。 

 数回しか使用していないという極上品が二つ。値段は礼子が事前にスマホで下調べした時に見たバイク用品通販サイトよりも安い。

 小熊と礼子はその場でウインドシールドを注文した。自宅まで郵送しますかと聞かれ、それだと手に入るのが二日ほど遅れると聞いた小熊と礼子は、この店まで取りに行くと言った。 ついさっき信金で根こそぎ引き出した金で、前金の清算を終えて注文票を受け取る。

 二人で店を出た。大きな買い物をした後というのは、大それた犯罪をしでかしてしまった直後のような気分になる、そう思った小熊は、何か話題を見つけて礼子と喋ろうとした。

「あのカブ、ウインドシールドは良かったけど、ひどいカブだった」

 同じく高揚した気分らしき礼子は、無理に笑いながら言う。

「もうすぐ廃車だって、貰いに行ったら?」

 冗談を言う礼子に釣られ、小熊も思わず吹き出した。

「あんなカブを欲しがるのは馬鹿」

 二人で笑いながらカブを走らせた。笑っていれば寒くない。あのウインドシールドを付ければ、もうこんな寒い思いはしなくていい。 

 笑いが止まらない。

  

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