第二十九話 ウインドシールド

 小熊と礼子が注文したウインドシールドは翌々日に中央市の店舗に届いた。

 二人は授業が終わるのも待ちきれず、カブで店まで取りに行く。椎は原付の部品一つ、それも速くなるとかコーヒーを飲めるようになるわけでもない風防一枚でそこまで盛り上がっているのが理解できない様子。

 二台のカブは連なって中央市までの道を走る。どうして楽しみにしていた買い物に行く時は、普段感じている寒さが気にならなくなるんだろう。そう思いながら幹線道路を飛ばした。

 右手には北杜の町に冷たい風を吹きつける南アルプスの連峰が見える。小熊は剣のように鋭い甲斐駒ケ岳を横目で見ながら思った。

 この山が自分たちに寒さという試練を与えるなら、それを跳ね除ける術を身につける。もうすぐ、それが可能になる。その時は高所から寒がる私たちを眺めて笑っているに違いないアルプスの山々には、文字通り涼しい顔を見せてやることが出来る。

 こんな馬鹿げたことを考えながらカブを走らせてるようでは注意力が散漫になる。これじゃ礼子みたいだと思いながら前方を見た。礼子は左手の八ヶ岳を見て同じことを考えている様子。

 甲州街道を下っていると、真正面に富士山が見える。小熊は山脈に囲まれた甲府盆地を見ながら思った。バイク乗りとしての自分を育てたのは、この山々かもしれない。


 店に着き、商品を受け取った小熊と礼子は、駐輪場でウインドシールドを取り付け始めた。

 ハンドルを固定している下部のナットを外し、ウインドシールドの支柱を装着して、ナットを再び締める。それからシールド本体を取り付けて、その下にビニール製の風防をスナップボタンで取り付ける。

 特に難しい作業は無いので、小熊がカブの後部ボックスに入れている千円の工具セットで充分。ネジの締め方や作業姿勢など、小熊は整備のことについてもずいぶんカブに教えられた気がする。

 駐輪場の小熊たちとは離れたスペースでは、数日前にもキャブの部品を交換してた走り屋小僧が、今度はフロントフォークのオイル量を調整している。作業の合間に白い息を手にかけているのを見て、今日もだいぶ冷え込んでいることを知った。

 小熊は自分のカブに取り付けられたウインドシールドを見た。結構な散財をして買ったこの装備が、本当に寒冷対策の決定打になるんだろうか。今さら不安になる。横目で礼子を見ると、彼女はカッコ良さを気にして何度も角度を調整していた。こっちも寒さなど気にならない様子。


 互いのカブの作業箇所をチェックした小熊と礼子は、工具を片付けて各々のカブに跨る。今居る中古バイク用品店以外にも、周囲にはリサイクルショップやホームセンターなど、日常の用に供するいろんな店があって、普段なら一通り覗いていたところだけど、今の小熊と礼子が最優先で行うべきことは、お互いわかっている。

 二人はカブのエンジンをかけ、駐輪場から出た。背後ではさっきの走り屋小僧が、フロントフォークオイルの理想的な油面に気づいたらしく、寒さを忘れた様子で作業している。

 この中央市のバイク用品店は、礼子に言わせれば周囲にいろんな店舗が揃っているだけではなく、試走させる場所に事欠かないのも良いらしい。そんなさっきの駐輪場で見かけた走り屋小僧みたいな真似には縁が無いと思っていた小熊は、礼子のハンターカブに先行しながら、自然とカブを帰路の幹線道路ではなく、近くにある開通して間もない環状道路へと向けていた。

 県道を少し走り、まだこのスピードではウインドシールドを付ける前との違いを意識できないと思いながら、小熊は環状道路にカブを乗り入れさせる。

 道幅が広く舗装も良好、そのうえ他の車があまり見当たらない。礼子ならヨダレが出るような道路だと思いながら、小熊はカブのスロットルを回した。

 自分が笑顔になっていることはわかっている。


 速度が上がっていく、小熊のカブが数ヶ月まで原付一種だった頃の制限速度をあっという間に超え、スピードメーターが頂点を過ぎる。今は登録変更で原付二種になった小熊のカブには、まだ法定の最高速に余裕があると思っていたら、その速度にあっという間に達しようとする。昨日までスピードの恐怖ではなく、風と共に肌を裂く冷気の辛さでなかなか出せなかった速度。思わず小熊の口から声が漏れた。

「凄い」

 胸の前に抱えられるくらいの透明な半楕円の板。ただそれだけの物がこれほどの効果を挙げるということは、実際にウインドシールド付きのカブに乗った人間でないと信じられないだろう。

 複数のカブ所有者のブログやツイッターで、体感温度が五度以上違うと言われていて、冬季に仕事でカブに乗る人間の多くが、このウインドシールドを「絶対に」必要なものとして挙げている。


 スピードメーターを見ると、環状道路で他の車を追い抜くくらいの速度が出ているというのに、風が来ない。本当にカブを降りて歩行している時と体感温度が変わらない。ここまでの往路ではまだ寒いと思った、ブレザーの上に着ているウールライナー付きのライディングジャケットが、過剰装備とすら思えてくる。

「凄い!凄い!凄い!」

 驚嘆と表現するしかない劇的変化。礼子はどうしているのかと思いきや「イヤッホゥ!」と雄叫びを上げながら、小熊のカブを追い抜いていった。

 それからも小熊と礼子は、寒さが本格化してからは控えていたあちこちへの寄り道をしながら帰った。冬の早い夕暮れが訪れ、気温がまた下がるが、気持ちの高揚も手伝って、寒いとは思わない。真夏の昼間にカブを走らせるよりずっと楽かもしれない。

 今までの小熊と礼子の寒冷対策は、試行錯誤の連続だった。こないだもジャケットに付けるウールライナーで冬を制した気になって慢心していたら、更に強い寒さに返り討ちに遭った。

 でもこれは、慢心してもいいと思う。やっと寒さから開放された。

 これからも更なる気温低下や積雪、凍結など、南アルプスの冬は小熊と礼子を苛め抜くだろう。それでも、小熊はそれらの敵との戦いを、楽しみにさえしていた。

 辛くて寒い冬は、それを制した時にはとても気持ちよくって面白い。ただ小熊を縛り付けるだけだと思っていた冬のカブは、こんなにも可能性に溢れている。

 

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