第十八話 バター

 午後の授業を終えた小熊と礼子は椎のお招きに応じ、彼女の両親が経営するパン屋に行くこととなった。

 学校の前の県道を北へ一kmほど、礼子のログハウスや小熊がカブを買った中古バイク屋まで行く道の途上にあるという店舗兼住宅、椎は自転車で通学している。

 高校で通学が許可されている原付用の駐輪場に隣接した自転車置き場から、椎は自分が通学に使っているアレックス・モールトンの自転車を出した。

 彼女が毎朝下り坂の通学路を飛ばし、上り坂を漕いで帰る自転車はタイヤの径が小さく、フレームもママチャリより細いが、変速装置はロードレーサー並みだった。黒いゴムで衝撃を吸収するサスペンションが付いている。

 小熊には椎の小さな体に似合っているような、ミスマッチなような自転車の構造より、水色に塗装されたフレームが印象深かった。

 彼女は自転車だけでなく髪留めや腕時計、布製のスニーカーも水色で統一している。学園祭の時も、他校から借りるカップを実際に見に行った椎は、ウェッジウッドを模写した水色のボーンチャイナをわざわざ指名した。

 小熊は自分の色は何なのか考えた。特に意識したことは無かったが、安価で丈夫な生成りを選ぶことが多いと思った。


 ハンターカブのエンジンをかけた礼子が言う。

「家まで引っ張ってってあげようか?」

 バイクで自転車を押したり引っ張っている姿は小熊も何度か見かけた。大概は風体よろしくない連中。小熊はその中で目撃した出来事をそのまま話す。

「それをやって二人仲良く溝に落ちた奴を見たことがある」

 県を挙げた風土病対策のため、山梨の排水溝は広いコンクリート作りになっている。特に気にしてない様子の礼子の横で、自転車に跨った椎が身震いしながら礼子に言った。

「先に行くから、ついてきて」

 自転車を漕ぎ出した椎の後ろを、二台のカブがゆっくりと走る。

 カブは幹線道路で他の車に合わせた速度で巡航することが出来るが、自転車はもちろん人の歩く速度でも難なく移動できる。高性能な大型バイクみたいにバランスを崩して足をつかなくてはならなかったり、、低回転走行でエンジンや点火プラグが調子悪くなることもない。

 

 南アルプスに向かう緩い上り坂の帰路。小さな体で左右のペダルに体重を乗せるようにモールトンの自転車を漕ぐ椎は、後ろを振り返り、ただ座っているだけで勝手に走るカブを羨ましそうに見ていたが、前方に真新しい木造の家が見えてくると、誇らしげに手で示す。

「ここがわたしのお店。ブールです」 

 椎はモールトンの自転車を店の横にある駐車スペースの後ろに停める。駐車場には椎のモールトンと同じ水色の旧いミニが停められていた。

 バイクは店前にある来客用の駐輪、駐車スペースに置けるというので、小熊と礼子は自分のカブを並べて停める。

 店はチロル風の建物だった。赤い三角屋根にフレスコ画が描かれた白い漆喰壁。入り口の上にはBEURREという店名が焼き付けられた琺瑯のプレートが掛かっている。 

「フランス語でバターって意味なんですよ」

 椎の説明を聞いた小熊は、ラーメン屋によくある脂ギットリって宣伝文句みたいなもんかと思った。

 昼食のサンドイッチを毎朝ここで買っているという礼子が、ヘルメットを外しながら言った。

「この辺でちゃんとしたドイツ風のパンを作ってるのは、この店だけなのよ」

 小熊の記憶ではオーストリアの中でもイタリア寄りにあるチロル地方の建物に、フランス語の店名で、売っているのはドイツのパン。そして文化祭ではバリスタ姿を披露した娘。なんだかチグハグな印象を抱きながら、入り口へ向かう階段を昇った。


 スイス風の木製ベルの音と共にドアを開けた椎が「ただいま!」と言っている。店内は外見よりもっと雑多な印象だった。

 店の半分は陳列されたパンをトングでトレーに乗せる、甲府市街でもよく見かけるような自家製パンの店。残り半分はイートインのカフェスペースになっているが、そっちはアメリカのダイナーを思わせる作りだった。

 テーブルが四つにカウンターのあるカフェの壁には、スチール製の道路標識や広告看板が飾られ、瓶コーラやガムの自販機が置かれている。カウンターの端にあるクロムメッキのコーヒーメーカーでは、ガラスのジャグに薄い浅炒りのコーヒーが満たされていた。

 無国籍で節操の無い印象を更に盛り足しているのは、コーヒーメーカーと競うように真横に置かれたデロンギのエスプレッソマシン。椎が最近この店に取り入れたと言っていた。


 菓子パンの類よりもサンドイッチが売り物の大半を占めている、ドイツ風というよりイギリス風な感じのパン販売スペース。陳列ケースの後ろには、椎の父親らしき人が居た。

「ようこそお越し頂きました。娘から文化祭のカフェを救ったあなたたちのことを聞いて、一度お会いしたいと思っていました」

 ガラスの陳列ケース越しに手を差し出した男性は、髭面の大男だった。ウールのシャツにオーバーオール姿。

 訛りや方言のほとんど無い山梨。話す言葉を聞かずとも、元々ここに居た人間ではないのがわかる。余所から来た人だな、と思いながら、小熊は握手に応じた。

 握力は女子の小熊と大して変わりなかった。なめらかな掌に触れた小熊は、毎朝パンを焼く暮らしより、書類か何かを扱っていた時期のほうがずっと長いのではないかと察した。

 

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